第十二章 虚ろの玉座Ⅱ⑩
嗚咽と鼻をすする音だけが、しばらく宵闇の広間に響いた。
公爵は気を呑まれたか、無言で立ち尽くしている。
ややあって、くすくすという笑い声が響いてきた。
エミルナールはハンカチから目を上げた。
すぐそこで、本気で可笑しそうに笑っている自らの主、ついさっきまで死んだ目をして打ちひしがれていた男を、エミルナールはまじまじと見た。
あっけにとられた次の瞬間、猛然と腹が立ってきた。
「……可笑しいですか?」
我ながら恐ろしげな声が出てきた。
「ああそうでしょうね、可笑しいでしょう。訳のわからない一人語りをしては泣きわめく、馬鹿な男はさぞかし可笑しいでしょうよ!」
「いや、ごめん。そうじゃない。そうじゃないんだよ、コーリン」
そう言いながらも公爵は、あはあはと盛大に笑う。
可笑しくて可笑しくて仕方がないとでも言いた気な、あまりにもあっけらかんとした爆笑。
エミルナールは涙を呑み、腹を抱えて笑っている己れの主をポカンと見つめた。
狐につままれたような、というのはこんな感じかと心の隅で思った次の瞬間、公爵が本当の本気で狂ってしまったのではないかと恐ろしくなった。
「……なんだよ、こんな所にいたのか?」
気の抜けた声でそう言いながら、大股で近付いてくる人影があった。
ランタンを手にしたタイスンだ。
タイスンは怪訝そうに足を止めると、座り込んで大笑いしている己れの主と、泣きはらした目でハンカチを握りしめ、硬直している秘書官の青年を交互に見た。
「おい」
不可解そうに首をひねり、タイスンはエミルナールへ声をかけてきた。
「一体、何がどうなってるんだ?」
エミルナールが答えられずにいると、公爵が、笑い過ぎて浮いた涙をぬぐいながら立ち上がり、答えた。
「私が悪いんだよ、マーノ。私が甘ったれた泣き言を言って……コーリンに、涙ながらに叱られたんだ」
ランタンの灯りの中、タイスンの目がまんまるに見開かれた。
「はああ?叱られた?コーリンに?」
「ああ。私は……本当にいい秘書官を持った」
皮肉でも何でもない、しみじみとした声でそう言うと、公爵はエミルナールを見た。
ランタンのやわらかな灯りのせいか、公爵の顔はいつになく穏やかに見えた。
「笑ったりして悪かったね、コーリン。謝る。ただ言い訳させてもらうのなら、私は別に君の言動が可笑しくて笑ったんじゃないんだよ。自分自身が……馬鹿みたいに思い詰めている、自分自身が可笑しかっただけなんだ」
未だにハンカチを握りしめて硬直しているエミルナールへ、公爵はとてもいい顔でほほ笑んだ。
「……なんだかよくわからんが、お互いに行き違いがあったのか?」
やはり不可解そうな、あやふやな表情でそう問うタイスンへ、公爵はやはりいい顔でほほ笑みかける。
「行き違いではない、ひたすら私が悪かったんだ。コーリンは甘ったれた私を、心の底から憤って諫めてくれたんだよ」
「ふーん……?」
相変わらず納得出来ず、首を傾げているタイスンへ、公爵はふと思いついたのか頬を引く。
「マーノ。お前は護身ナイフの鍛錬をしている私へちょくちょく、相手の命を取ることばかり考えるなって言っていただろう?」
唐突に話題が変わり、更に怪訝そうになりながらもタイスンは
「あ…ああ。だけど、それがどうした?」
と訊いた。公爵はほほ笑む。
「私がどうして『相手の命を取る』ことに執着してしまっていたのか、今ならわかる気がするよ。要するに私は無意識のうちに、自分の命を捨ててしまいたかったんだと……自分を殺す代わりに敵の命を確実に奪いたかったんだと、そんな風に思うんだ」
エミルナールもぎょっとしたが、タイスンはもっとぎょっとしたらしい。一瞬ランタンを取り落としそうになり、あわてて持ち直していた。
だが公爵は、妙に清々しい顔で続けた。
「だけどもう……、そんなおかしな執着は持たない気がする。ここ十年来の余計な力みやこわばりが抜け、私は今、とても気分がいい。……コーリン」
エミルナールを見る彼の菫の瞳は、とても穏やかに澄んでいた。
「ありがとう。君のお陰だ」
そしてひとつ大きく息をつくと、彼は、エミルナールとタイスンを交互に見てこう言った。
「帰ろうか?もう遅い。……探して、迎えに来てくれて、本当にありがとう。二人が私のそばにいてくれて幸運だったと、私は今日しみじみ、そう思うよ……」




