第十二章 虚ろの玉座Ⅱ⑨
公爵の身体が不意にぐらっと傾ぎ、床に両手と両膝をついた。
エミルナールがあわてて腕を伸ばそうとした途端、
「触るな!」
という悲鳴に似た叫びに制され、硬直した。
「頼む、触るな、触らないでくれ。今、他人に触れられて冷静でいられる自信がない。最悪……君を殺してしまうかもしれない、から……」
苦しそうにそう言うと、彼はしばらくそのままの姿勢で、荒い息をつきながら床をにらんでいた。
どのくらいそうしていただろうか。
辺りはすっかり宵闇に沈んでいた。
小刻みにゆれながらうずくまる黒い影を、エミルナールは、茫然と見つめるしかなかった。
しばらく後。
呼吸が落ち着いてきた公爵はそろそろと立ち上がり、ややばつがわるそうにエミルナールの方を覗き見た。
見た途端、宵闇の中でもそれとわかるくらい驚いた顔になった。
「……コーリン」
戸惑ったような声音で、彼はエミルナールを呼ぶ。
「その……何故、君は泣いているんだい?」
そう言われて初めてエミルナールは、自分が、滂沱と涙を流して泣いているのを自覚した。
縹色の上着の袖で乱暴に涙をぬぐう。
言いたいことが胸の中で荒れ狂っているが、うまく言葉にならない。
公爵は軽く目を伏せた。
「……すまない。つまらないことを言って、君に負担をかけてしまったね」
公爵は姿勢を正し、弱々しく笑った。
「君は優しいから、私のつまらない話でさぞ心を痛めただろう。そうなってしまうと半ば知っていて、わがままを言った。許せとは言わないが、出来れば聞き流して忘れておくれ。最初に言ったようにこれは詮無い話であり、ただの愚痴のようなもの……」
「閣下」
言葉の中途で非礼も忘れて呼びかけた。
「閣下……いえ」
ひとつ大きく息をつき、エミルナールはあえてこう呼んだ。
「アイオールさま」
彼は驚いたらしい、大きく目を見開いた。
仕事以外の場なら名を呼ぶことを許す、と、かなり前から言われていたにもかかわらず、決して尊称以外で呼ぼうとしなかったエミルナールだ。
あえて名を呼ぶ意味の大きさが伝わるだろう。
「アイオールさま、あなたは……生きていらっしゃいます」
その言葉を聞いた途端、公爵はふっと、虚しそうに笑った。
おそらく、自分の言いたかったことがまったくエミルナールへ伝わっていないと思ったのだろう。
それでもエミルナールは言葉を連ねる。
たとえ伝わらなくてもいい。
彼の語った真実へ、エミルナールはエミルナールなりの真実を返すのだ、精一杯に。
「私はアイオールさまのようなひどい目に合ったことなどありませんし、そもそもラクレイドの王子に生まれた訳でもありませんから背負うものも違います。お気持ちがわかるなどと、そんな烏滸がましいことを言うつもりは毛頭ありません。でも……」
エミルナールは、目の前をゆらがせる、鬱陶しい液体をぬぐった。
「でも、これだけは譲れません。あなたは生きてらっしゃいます。ご自身は死んでいるようなものだとお思いかもしれませんが、死んでいる者に、果たしてこんなたくさんの人間が心を動かされるでしょうか?……あなたが育てた海軍は、最新技術を誇る巨大な敵の艦を前にしても、自分たちの最善を尽くして戦い抜く、士気も誇りも高い至上の軍団ではありませんか?お亡くなりになったセイイール陛下やカタリーナ陛下があなたの意見を尊重したのは、単にあなたが身内だったからではなかった筈です。あなたの意見や見識に、聴くべきもの・容れるべきものがあったからでしょう。もし違うとおっしゃるのなら、それはかの方々に見る目がなかったと言うのと同じではありませんか?それともあなたはあのお二方が、身内の意見なら無条件に取り入れる愚鈍な王だったとお思いなのでしょうか?」
「コ、コーリン」
まくしたてるように言葉を連ねるエミルナールへ、公爵は焦ったように声をかけてくるが、もはや止められない。
「仕事や務めの面だけではありません。あなたの奥方やご子息やご息女、たとえ命を取られるようなことが起こってもあなたに仕え続けたいと思っている屋敷の従者たち、彼ら彼女らは皆、あなたを深く愛して慕っています。あなたはご家族をとても大切になさっていると私は思ってきましたけど、それは単に『大切にする』という形をなぞっていただけなのでしょうか?ラクレイドを離れるあの日、執事のデュ・ロクサーノ氏へ至上命令を与えて指輪を預けたのは、彼への深い信頼だったのではないのでしょうか?それともさっきあなたがおっしゃったのが本当なら、すべてがどうでもいいからこそ預けたのでしょうか?」
「コーリン待ってくれ。落ち着け!」
公爵は制するが、エミルナールは乱暴に涙をぬぐい、かぶりを振る。
「私やタイスン護衛官が忠誠を誓ったのは、一体誰に、何にだったのでしょう?我々……少なくとも私は、生きている、そして国の為に志高く戦い続けているあなたへ忠誠を誓いました。でもそのあなたが、自分は死んでいるか死ぬ間際に見ている夢のようなものだとおっしゃるのなら……我々の誓いは、何の値打ちもない茶番ということになります」
公爵は絶句し、いつになく滔々と語り続けるエミルナールを見ていた。
「もちろん、あなたにとって他人の思いなどどうでもいいのかもしれません。あなたにとってすべてが夢みたいなものだとすれば、夢の中の登場人物がどうしようがどう思おうが、関係ないでしょう。それを否定するつもりはありません。ありませんが……」
エミルナールは顔をぬぐう。涙ばかりが鼻水まで出てきて、苛立つ。
「夢なら夢で、どうか腹をくくって夢の中で生きて下さい!仮にあなたにとって今が、納得しがたい状況だったとしても。そりゃあ夢なんだから当然じゃありませんか?大体、自分の好きなように夢が見られるんなら、私は毎晩もっと楽しい夢を見ますよっ。昼寝をしていても仕事が完璧に片付き、勝手に給金が倍になり、とっかえひっかえ好みの美女とよろしくやる、そんな夢を見てウハウハになりますよっ!」
そこで息が切れたので、エミルナールは黙った。
顔中が汗や涙や鼻水でぐしょぐしょだ。ようやく隠しにハンカチを入れていたことを思い出し、引っ張り出して顔をぬぐった。
「あなたは……」
ハンカチに顔を埋め、あえぐようにエミルナールは言葉をしぼり出す。
「あなたは生きている!生きている生きている、生きているんだ!」




