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第十二章 虚ろの玉座Ⅱ⑧

 どう答えていいのか躊躇し、エミルナールは一瞬、息を止める。

 公爵は苦笑を深めた。

「ああすまない。返事に困るようなことを言ってしまったね。あまり気にしないでくれ、ただの愚痴のようなものだから」

「……いえ。申し訳ありません、閣下」

「君が謝るようなことは何もない。悪かった」

 軽く首を振り、その話題を終わらせ……ふと公爵は頬を引く。

 一点へ向かう視線。エミルナールは彼の視線の先をたどる。

 彼はやはり、(から)の玉座へひかれてしまうようだ。

「……コーリン」

 一度軽く目を伏せ、深く息をついた後、公爵はエミルナールの名を呼んだ。

「はい」

「少し……詮ない話をしたい。言っても仕方のない愚痴、今更どうしようもない昔話なんかをだ。聞かされる君にとって迷惑なのは承知しているが、秘書官の仕事の一部だとでも思って、黙って聞いてくれないだろうか?」

 ひどく気弱な台詞だ。こんな公爵は、そばで仕えるようになって初めて見た。

 エミルナールは胸騒ぎを押し殺し、笑みを作って静かに応えた。

「私などでよろしいのでしたら、御心のままに」

 ありがとう、と小声で礼を言うと、彼は小さく笑ってエミルナールを見……再び虚の玉座へ目をやった。



 公爵はしばらく黙って玉座を見つめていたが、思い切ったようにのどから言葉を押し出した。

「君は……少しは知っているのだろう?フィスタに囚われていた、リュクサレイノが飼っていた隻眼の『犬』のことを」

 エミルナールは唇をなめ、強いて何でもない口調で

「知っていると言えるほどではありませんけど、タイスン護衛官と作戦行動を取っていた時、命を狙ってきたのがあの男でしたので」

 と答えた。


 タイスンから聞いた話では、公爵は家族を迎えに行く時、フィスタ砦であの男と会い、罰を下したそうだ。

 殺しても良かっただろうに、去勢だけを施して解放したのだそうだ。

 隻眼の男はもうすでに、ある程度の罰は受けていると公爵は判断したらしい。

 ただ、今後もし公爵やその家族のそばをうろつけば〔レクライエーンの目〕が容赦なく動く、と脅しておいたそうだが。


 一度大きく息をつき、公爵は言葉を続ける。

「私は十四の秋、あの男を含めた複数のならず者に襲われた」

 ふっと公爵は、乾いた笑みを口許に含んだ。

「その頃、私は毎日のように夕方、小一時間ほど住んでいた離宮の敷地内を馬で散策するのを日課にしていたんだ。乗馬を始めた頃、出来るだけ馬に触れるように指導されてね。その頃からなんとなく続けていた習慣だったんだが」

 エミルナールは無言でうなずく。

「いつもはタイスンと一緒に散策していたんだが……その時はたまたま、彼が所用で離宮から離れていた。だけどそんな場合はいつも私一人で散策していたから、その日もいつも通り一人で出掛けた」

 公爵はひとつ、大きく息をついた。

「当時の愛馬に乗り、のんびりと敷地の裏手へ行ったんだ。そこから見る夕陽が特に綺麗だったからね、必ず通るようにしていたんだ。連中はそういう私の行動すべてを、あらかじめ知っていた様子だった。敷地裏の薮で待ち伏せされていたんだ」

 公爵の呼吸がやや乱れる。

「夕陽を見ながらいい気分になって、私は歌を歌っていた。ちょうどライオナール王太子殿下……私の上の兄君が、半年後には結婚なさるという時期だったんだ。私はセイイール陛下と一緒に祝婚歌を歌う予定だったので、当時暇を見つけては『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』を練習していたんだ。でも歌なんか歌っていたせいで、私は不審な気配に気付くのに遅れた。あっと思った時には頭から麻布か何かを被せられ、馬から引きずり降ろされていた。当然私は抵抗し、暴れた……」

 ふうう、と彼は、再び大きく息をついた。

「強引に押さえつけられたせいでか、右肩にすさまじい痛みが走った。脱臼したんだ。当然右手から力が抜け、男たちは力の抜けた私の右手から乗馬用の鞭を奪い……」

 公爵は震える指先で額をぬぐった。

「信じられないほど強く、その鞭で私の背中を打った」

 エミルナールは奥歯を噛みしめ、薄闇の中に溶けそうな己れの上官の顔を必死に見つめた。

「そもそも馬に対してだって、本気で鞭を打ち据えるなんてしない。少なくとも当時の私にとって、乗馬用の鞭は馬へ合図をする為の道具であって、他人を打ち据える為の道具ではなかった。馬にさえしない野蛮な行為を、連中は私へしたんだ。理解を超える理不尽と激痛で、私の頭の中は真っ白になった。連中は私の衣服を破るように剥ぎ取って、更に鞭打ってきた。むき出しの背中の上を、残酷なくらい何度も」

 叫びそうになったのを押さえ、エミルナールは、ぐっと口を引き結んで公爵へ軽くうなずく。

 深くなる闇の中で、彼は身じろぎもせずに虚の玉座を見つめた。

「その段階で、私はほとんど意識を失っていた。身体中のあちこちが鋭く痛み、バラバラにされるような感覚と、複数の下卑た笑い声を聞いたところまではうっすらと記憶に残っている。まったく理由はわからないが、私はここで、この連中に八つ裂きにされて殺されるのだなと思ったのを最後に、記憶らしい記憶が途切れている……」

 ふっと、公爵は息だけで嗤った。

「そして私は……その時に死んだ」

 おそろしく淡々とした声で、彼は言い切った。

「死んだんだ、アイオール・デュ・ラクレイノという名の王子の心は、完膚なきまでに死んで……残ったのはぼろぼろに傷付いた身体だけだった」

「……閣下」

 彼は乾いた声で笑う。

「あれが、その事件の少し前、私と母を蔑んだ咎で宮廷への出入りを禁じられた、リュクサレイノの末息子の逆恨みだと、私を殺すのが目的ではなく辱めるのが目的だったと、そして私はあの連中に、なすすべもなく輪姦されたのだと……かなり後になって、知った。知ったが、正直に言って実感は薄かったな。すさまじい悪意にひしがれて死んだ心というのは、茫然とするばかりで生々しい怒りなどはわいてこないようだね。意識の表層ではかろうじて、連中の思惑通りこのまま自滅してたまるかという意地が残っていたけど。心の奥底では、どうでもよかったような気がする。だって、私はもう、死んでいるのだからね」

 ふふふ、と公爵は、再び乾いた声で笑う。

「今の私は、あの時の少年王子が死ぬ瞬間に見ている、夢のようなもの……だと。そんな気がしてならない」

 乾いた笑声のまま、彼は淡々と言った。

「でなければどうして、母上のみならず父上も兄上たちも……王妃の中の王妃であり、女王の中の女王であるカタリーナ陛下まで、亡くなってしまうのだ?……おかしいじゃないか」

 まるで駄々をこねる幼児のように、公爵は首を横に振った。

「おかしい、あまりにもおかしいだろう?何故……こんなに誰も彼も死んでしまうのだ?とっくの昔に心が死んでいる、抜け殻のような私がおめおめと生き永らえて、『執政の君』などと呼ばれているなんて。……夢だとしか、思えないじゃないか」

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― 新着の感想 ―
これは護衛官の責任でもあるよねぇ (;^_^A
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