第十二章 虚ろの玉座Ⅱ⑦
とある夕刻。
そろそろ今日の仕事にけりを付けようかという時分であった。
仕上げた書類を手に、公爵の執務机へ向かおうとして……エミルナールは立ち止まる。
ちょっと前まで、時々呆けたように窓の外を眺めながらも彼は、書類の確認と署名をしていた筈。
なのに、いなかった。
いつの間に席を立ったのか、エミルナールも部屋にいた他の文官も、まったく気付かなかった。
胸騒ぎを覚えながら執務室を出たところで、何かの用事で席を外していたらしいタイスンと会った。
「どうした?コーリン」
怪訝そうに問うタイスンへエミルナールは、公爵がいなくなったと告げる。
タイスンはギュッと眉根を寄せた一瞬後、凪のような真顔になって
「探そう」
と一言言って、素早くきびすを返した。
一瞬迷ったが、エミルナールもタイスンと一緒に公爵を探すことにした。
秋の夕暮れは瞬く間に暗くなるものだ。
夏宮の内と外へ分かれて探そうということになり、範囲の広い外をタイスン、内をエミルナールは探す事になった。
早足で夏宮の中を歩く。
すでに仕事を終え、帰ったものも少なくない。ひと気のない宮殿は寒々しく、己れの靴音がやけに響いて不気味だった。
(一体、どこに……)
そう思い、ふと懐かしいような気分になる。
フィスタにいた頃、彼は時々、こうして行方をくらましたものだった。
タイスンが『かくれんぼ』と表現していたこの突発的な放浪に、エミルナールは何度も振り回された。
この人は一体何を考えているのだろうかと、苛立ちながら砦の中やフィスタの町をさまよい、来年こそは辞表を叩きつけて辞めてやると歯噛みした……。
(だけどそれすらも、二年経つと日常になったな)
彼の行動は、理解に苦しんだり突拍子もなかったりすることが少なくなかったが、理由もなくそうしているのではない。
少なくとも、彼が遊びや息抜きだけでふらふら出歩いているのではなさそうだと、ぼんやり察せられるようになったのがちょうどその頃だ。
わかってきても正直、いい加減にしてくれと思う瞬間がなくもなかったが。
だけど今はどうだろう?
彼にとって『必要だから』出歩いているであろう部分は、エミルナールも疑っていない。
が、うまく言えないが『必要だから』の意味合いが、今までと違う気がする。
胸騒ぎが止まらない。
ひと通り夏宮をめぐって探してみたが、公爵はいない。
廊下で一度立ち止まり、エミルナールは大きく息をついて考える。
夏宮から出た、のは考えにくい。
フィスタ砦から出て行くのとは訳が違う。
敷地そのものの大きさや警備する人間の数がフィスタ砦の比ではないのはもちろん、砦の警備をしている海軍の人間と宮殿の警備をしている近衛隊とでは、守っているものの大きさや『レライアーノ公爵』という存在の重みが違う。
これまでは夏宮の裏側というか、実務の場を中心に探してきた。後は……。
(夏宮正面の『謁見の間』、くらいだな)
普通に考えるのなら『謁見の間』へ行くとは思えない。
はっきり言えば、用がないのに行っても仕方がない場所だからだ。
あそこは、いい建材や凝った設えで作られてはいるが、つまりは一番立派な玉座があるだけの、天井が高くてだだっ広いだけの広間だ。
式典等がない限り椅子ひとつ置かれないので、行っても長居できる場所でもない。
しかし彼は今、必ずしも普通の状態とは言えないだろう。
それに『謁見の間』は、正面は施錠されているから夏宮の外にいる者が出入りするのは難しいが、通用口は開いていることが多く、中にいる者は比較的出入りし易い。
何故かわからないが、公爵はそこにいるかもしれないなとふと思った。
息を調え、エミルナールはそちらへと向かう。
『謁見の間』の通用口は案の定、開いていた。
そっと扉を開け、覗き込む。
薄闇のくぐもる広間の中央、玉座の正面にあたる場所で、遠い目で玉座を眺め力なく立っている人影があった。
海軍将軍であることを表す鮮やかな青の高襟の上着に喪章をつけた、レライアーノ公爵だ。
そう、公的な立場として彼は未だに執政の君であると同時に『海軍将軍』で、エミルナールは『海軍将軍秘書官』だった。
自らを含め、レライアーノ公爵に人事の調整をする暇がない部分も決して嘘ではない。
が、なんとなくエミルナールは、彼に、おそらく意識と無意識の狭間くらいで、頑なに己れの立場を変えようとしない意思がある気がした。
足音を忍ばせ、エミルナールは公爵へ近付く。
気配を察したのか、彼は振り向いた。
「コーリン」
少しばつが悪いような顔をして彼は笑む。
「君が先に私を見付けたか。最近、タイスン護衛官よりも君の方が、かくれんぼの鬼としての腕前が上がったらしいね」
どう答えていいか迷い、エミルナールは曖昧に笑った。
「何を……してらっしゃったのですか?」
我ながら愚問だと思いながらも、エミルナールは訊いた。
「何を……さあ?」
公爵は首を傾げ、はぐらかすようにそう言った後、ふと頬を引いた。
「別に何ということはない。ただ……」
瞬間的に目を伏せ、公爵は微苦笑した。
「私は……この虚ろの玉座のようだなと。そんなことを思っていたのだよ」




