第十二章 虚ろの玉座Ⅱ④
公爵が妻子を連れて王都へ戻った夏。
その時期くらいから、宮廷での仕事そのものは順調に流れるようになってきた。
さすがに皆、新しい日常に慣れ始めたのだろう。
だが、執政の君のお加減がはかばかしくなくなってきた。
元々夏の暑さに弱い方だったが、身体に毒の影響がしつこく残っているのが一番の理由と言えよう。
ルードラントーで発達した『ク・ルミダ』群と呼ばれている毒は、影響が長く身体に残る質の悪い毒なのだそうだ。
執政の君はリュクサレイノ卿ほどは毒入り白葡萄酒を飲まなかったせいか、手足のしびれ等も卿より軽かった。
症状の改善も比較的早く、夏の初め頃まではかの方も、常とさほどは変わらない体調を維持して仕事をなさっていた。
しかし暑さが厳しくなり始めると、ギリギリで保っていた体調の均衡があっけなく崩れた。
だるさを訴え、微熱に苦しむようになり……夏の盛りを過ぎ、晩夏を迎える頃にはまったく仕事が出来なくなっていた。
宮廷は再び重苦しい空気に包まれた。
そして必然的に『次期王は誰か?』が、小声で囁かれるようになり始めた。
候補は二人いるがどちらも決め手に欠け、どちらもそれなりに問題を抱えているからだ。
黄金の髪にはしばみ色の瞳を持つ、正統な血筋の王女は未だ幼い上、かつてラクレイドを手ひどく裏切り、現在滅亡寸前のデュクラータン王家の血を引いている。
大きな声では言えないが、やはりラクレイドを裏切ったリュクサレイノ侯爵家の血筋でもある。
王女自身の罪ではないものの、父母どちら側も裏切り者の血筋に連なっているという事実は、今後にいい影響があるとは思えない。
特に『デュクラータン王家の血筋』というのが良くない。
場合によればデュクラータン王家の誰彼が、ラクレイドへ保護を求めてくる可能性が出てくる。
それでなくとも『デュクラータン王家の血筋』は、デュクラの新しい支配者に余計な懸念を抱かれかねない。
隣国と、仲良くとまでゆかなくとも敵対するのはよろしくない。
フィオリーナ王女が王位に就くと、そういう煩わしい問題がどうしても出てくるだろう。
しかし王女の叔父であるレライアーノ公爵は、正統と言い難い血筋の方。
また、年齢や能力にはまったく問題ないとしても、レーン出身の母君譲りの漆黒の髪を持つ彼を王に戴くのは、特に古くからの貴人にとって生理的に受け入れがたかった。
ラクレイド王家を象徴する神狼は黄金の毛皮を持つとされ、今までその色の髪を持つ王が多かった。
ラクレイドでは古くから、黄金は光……ラクレイアーンの象徴と考えられ、漆黒は闇……レクライエーンの象徴と考えられている。
漆黒の髪の王は、ラクレイド人にとって理屈を超えて不吉だ。
いくら頭で、髪の色だけで忌避するのは合理的ではないと考えても、不吉だと思ってしまう心を納得させるのは難しい。
人々は顔を見合わせた後、目をそらし合ってため息をつき、むっつりと口をつぐんだ。
夏が終わり、執政の君が回復されることを虚しく祈るしかなかった。
家族が王都の屋敷へ戻って以来、レライアーノ公爵は、身体を壊しそうなほどの無理をすることもなくなった。
少々遅くなったとしても屋敷へ戻り、きちんと食事をとって眠っている様子だ。
執政の君の体調悪化もあって執務中の彼は沈みがちだったが、家族、特に生まれたばかりの赤子の存在に癒されているらしい。
赤子がちょうど可愛らしくなってくる時期なのもあるだろう、仕事を終えると公爵は、いそいそと帰宅している。
エミルナールは内心、ホッとしていた。
仕事に打ち込み過ぎる真面目な公爵は、上手く言えないが、あやうい。
我が子にうつつを抜かすくらいの、ゆとりというか隙というかが、今の彼には絶対に必要だ。
「君もそろそろ、身を固めることを考える時期じゃないのか?」
ある日エミルナールは公爵から、そんな、いかにも上司らしいことを言われて驚いた。
「故郷に将来を誓った女性がいるとかなら、節介を焼く気はないけどね。実はチラホラ、こちらに問い合わせも来ているんだ」
「え?えええ?ほ、本当ですか?」
あまりにも意外だったので、エミルナールは思い切り目をむいた。
自慢ではないがエミルナール・コーリン、少年時代からモテたことなどない。
地元で幼児の頃から『神童』などと呼ばれてきたが、昔から顔色も青白くひょろひょろしていて、これで勉強が出来なかったらさぞいじめられていただろうなと思っていた。
元々小柄だった上、飛び級で進学し続けた弊害として同世代の者と接することもなかったから、異性からも同性からもずっと子供扱いされてきた。
そもそも男だと思われていないのだから、モテる訳がない。
職に就いてからは、若い女性が極端に少ない環境だったし、瘋癲閣下に振り回されてきた彼に恋人を探す余裕などなかった。
たまにフィスタの娼館で息抜き程度に遊ぶくらいはあったが、まあそれだけだ。
もちろん、縁があれば人並みに所帯を持ちたい思いはあるが、今の今まで具体的に考えたことなどなかった。
公爵は可笑しそうに頬をゆがめる。
そんな顔は、かつての『くせ者将軍』を思い出させた。
「そんなに驚くことかい?君はそもそも、官吏登用試験を首席で通るほど優秀だ。真面目で、官吏としても有能な上に容姿も性格もいい。結婚すればきっといい夫・いい父親になるだろう。そう思う者が、私以外に何人もいるのがそんなに不思議かい?」
誰の事だ、誰の!
エミルナールは心で叫ぶ。
お勉強と仕事以外に能のない、面白みのない男だと自分で思ってきたし、実際そうだろう。
そういう対象として見られることそのものが、想定外だった。
「あの……閣下。それ、本気でおっしゃっていますか?私は、仕事に関してはそこそこの自負や誇りを持っておりますが、後はその、頼りないと申しますか面白みがないと申しますか、そんな男ですし……」
レライアーノ公爵は一瞬驚いたような顔をした後、大笑いした。
「なんだなんだ、ウチの秘書官はとんでもなく自己評価が低かったのだな、もっと自信を持ちたまえ。君は品のいい顔をしているし、あれだけウチの子たちが懐くくらいだ、穏やかで優しい性格なのがわかるよ、子供にごまかしは通用しないからね。おまけに、去年の秋みっちり鍛えたお陰だろうが、身のこなしや立ち居振る舞いに文官とも思えない凛々しい雰囲気がある。性格のいい、文武両道に秀でた見目のいい青年に、縁談が来ない方がおかしいじゃないか」
言われたことが理解出来ず、茫然としているエミルナールの肩を不意に、公爵は強めに叩いた。
「取りあえず。君が、君自身の値打ちを正確にわかった後でもう一度、この話をしよう。今日は帰って、頭と身体をゆっくり休ませるように」
「み、御心のままに」
慣習通りにそう答えたものの、エミルナールはやはり、自分の評価が信じられなかった。
そんな気楽な話をした、翌日か翌々日の午後のことだった。
執政の君の容体が急変した、という知らせが、レライアーノ公爵の執務室へと届いた。




