第十二章 虚ろの玉座Ⅱ③
空や風にはっきりと夏の気配を感じるようになった頃、レライアーノ公爵は家族ともども王都の公爵邸へ戻った。
その知らせと一緒に、エミルナールを夕飯に招待する旨も伝えられた。
夏宮で仕事をするようになって以来、エミルナールは宮殿内にある文官の宿舎で暮らしているから、公爵邸へ行くのは久しぶりだ。
エミルナールは早めに仕事を終えると、湯を浴びて身支度を調えた。
迎えに来た馬車に乗り、少しばかり緊張しながら彼は、公爵邸へと向かった。
公爵邸にはかつての活気が戻り始めていた。
使用人が少しずつ戻ってきているらしく、見知った顔をそこここに見かける。
「ようこそお越しくださいました、コーリン殿」
出迎えてくれた執事のデュ・ロクサーノ氏はひかえ目にほほ笑み、頭を下げた。
「ご無沙汰しております、本日はお招き……」
挨拶の言葉の途中で
「エミーノ!」
という複数の子供の声が聞こえてきた。
そちらへ顔を向けると、公爵家の子供たちとタイスンの息子ルクリエールが走り寄ってきた。
「エミーノ久しぶり!元気だった?」
ほんの半年ほどで驚くほど背が伸び、日焼けしてたくましくなったシラノールが言う。
別れた頃は幼児だった彼も、すっかり少年らしいたたずまいに成長していた。
「あれ?ひょっとしてエミーノ、髪を染めた?」
すでに髪の先端にしか染料の名残りはなくなっているが、ルクリエールは目ざとく気付いた。
染料自体も髪から抜けてきた最近は、かつて髪を染めていたと他人に気付かれなくなってきていたので、素直に驚く。さすがは『荒鷲のタイスン』の息子、目が敏い。
男の子たちから少し離れて、ポリアーナが近付いてきた。
背が高くなったのももちろん、なんとなく手足も長くなり、大人びたような印象だ。
涼し気な水色の、麻仕立てのストンとした簡素な形の部屋着がよく似合っている。あちらで仕立てた服なのかもしれない。
日焼けをしているし髪も少し傷んでいたが、高貴で凛とした雰囲気が別れた頃より増している。
山の主や森の主と呼ばれる獣のような、荒々しさと物静かさが同居するようなそのたたずまい。
彼女の従姉であるフィオリーナ王女を、何故か彷彿とさせられた。
「エミーノ」
ポリアーナは片頬に、かすかな笑みを浮かべた。
その笑みに『神の狼』の笑みの片鱗を見て、エミルナールはぎくりとした。
「わたしとの約束を覚えてる?」
一瞬詰まった。
約束なんかしたか?と焦った次の瞬間、あどけなくも真摯な願いを口にした公女の、真っ直ぐな瞳を思い出した。
時間としてはわずか半年ほど前とはいえ、もう十年は昔の出来事のような気がするかすかな記憶。
『エミーノにお願いがあるの。おとうさまから、離れないであげて』
『あのね。おとうさまはね、すごい寂しがり屋なのよ。おかあさまやわたしたちとあんまり長く離れていると、きっとしょんぼりして元気がなくなっちゃうから、エミーノはマーノと一緒にいつもおとうさまのそばにいて、元気出してねって慰めてあげて欲しいの』
エミルナールはうやうやしく膝を折り、片膝をついて目を伏せた。
「公女ポリアーナ・デュ・ラク・レライアーノ姫」
顔を上げ、エミルナールは真面目に幼い淑女の名を呼んだ。
「もちろん覚えております」
ポリアーナは真顔で小首をかしげた。
「じゃあどうして、エミーノはおとうさまから離れたの?『レライラ』の島へ迎えに来たのは、おとうさまとマーノだけだったわ」
記憶がもうひとつ、よみがえる。
『エミーノ。エミーノもお仕事が済んだら、おとうさまと一緒にわたしたちのお迎えに来てくれるの?』
あの日、エミルナールはそろえた書類の再確認をしていた手を止め、片膝をつく形でしゃがんで公女と同じ目の高さになり、笑みを作った。
『そうですね。エミーノはおとうさまの秘書官ですから、おとうさまがついて来いとおっしゃるのならどこまでもついて行きますよ』……
「姫のおっしゃりたいことはわかります」
少し考え、エミルナールは答える。
「ですがエミーノは、姫に忠誠を誓う騎士である以前に、姫のお父君の秘書官であります。ですから、お父君がついて来いとおっしゃらない限りは動けないのです。今回に関してはお父君がエミーノへ、王都で留守番をしながらたまった仕事を片付けなさいとお命じになられたので、泣く泣く王都で皆様方のお帰りをお待ちすることに……」
「おいおいコーリン。ポリアーナにいい加減なことを言わないでおくれ」
ようやく首がすわったらしい赤子を抱き、部屋着姿の公爵が現れた。
何故かひどく苦い顔をしている。
「それにさっき小耳にはさんだが、『姫に忠誠を誓う騎士』とはどういう意味だ?君はひょっとして、幼い女の子と遊ぶのが好きな特殊な趣味の男だったのか?……もしそうなら今すぐ出て行くように。今後、我が家への出入りを厳しく禁じるからそのつもりで」
「ち、違います、閣下」
エミルナールはあわてて立ち上がり、背を伸ばす。
「その、この誓いは最も本来的な意味での誓い、つまり主たる方のご息女へ至上の敬愛を捧げる誓いで……」
「そうよ、おとうさま。それにおとうさまは言ってたじゃない」
ポリアーナが心外そうに口をとがらせる。
そんな仕草は年齢相応の少女だ。
「『姫に忠誠を誓う騎士』は、おとうさまやシラノール以外で大切に思ってくれる、身内じゃない独身の男の人のことだって。だったらエミーノはそうでしょ?」
「え?ええ?い、いや……ええと……」
公爵は目を泳がせた。どう説明するべきか悩んでいる様子だ。
その時、公爵の後ろから、わはははとでもいう無遠慮な笑声が響いてきた。
タイスンだ。
「おいおい閣下様よ。コーリンが『特殊な趣味』の男じゃねえくらい、毎日のように鼻を突き合わせて仕事してたんだ、わかるだろう?娘に近付く男は純然たる兄貴分でも気になるのかよ。天下のレライアーノ公爵閣下様も、娘の前じゃただの馬鹿親父だな」
言いたい放題に言われ、公爵はむっとしたが……否定はしなかった。
ただ
「……閣下に様を付けるな」
と、八つ当たりのような小言を小さな声で、ボソリと言った。




