第十二章 虚ろの玉座Ⅱ②
夏宮にあるレライアーノ公爵の執務室へ入る。
公爵は先に来ていて、書類に目を当てながら牛乳を入れたお茶をゆっくりと飲んでいた。
なんでも、蜂蜜と牛乳を多めに入れたお茶を飲み、朝食代わりにしているのだそう。最近、ちょくちょく見かける朝の風景だ。
ひょっとすると彼は、執務室に泊まり込んでいるのかもしれない。
時々タイスンが、仕事熱心なのもいいが、身体を壊すからちゃんと休めと苦言を呈している。
フィスタ砦での公爵と違い、彼は勤勉だ。
あのうざったいほどだった軽口やおふざけも、ここしばらくほとんどない。
あればあったで鬱陶しいが、こうしてほとんどなくなると物足りない。
第一番の理由は、現状に軽口を叩いたりおふざけをしているような余裕がないから……なのだが。
そんな状況でも飄々と軽口や冗談を言っているのが、エミルナールの知るレライアーノ公爵だった。
眉根を寄せて書類を読んでいる公爵を、エミルナールはそっと観察する。
元々怜悧に整っている顔立ちだ、こうして真面目に仕事に打ち込んでいる彼には、近寄りがたいくらいの雰囲気がある。
『瘋癲』を演じる必要がなくなったレライアーノ公爵は、エミルナールの目からは危ういくらい真面目だが、臣下や民が求める王族の姿としては、こちらの方が近いだろう。
『あんたにとっちゃ気味が悪いほど真面目でまとも、余計なことを一切しゃべらない、部下や従者に真っ直ぐ気配りする、いかにも王族らしい二枚目のあいつが多分、あいつの地なんだよ』
いつかタイスンが言っていた言葉を、このところエミルナールはちょいちょい思い出す。
挨拶をして自分の机へ向かおうとした時、公爵から
「コーリン」
と呼び止められた。
「近いうちにフィスタへ戻り、足の速い船でレーンの『レライラ』の島へ行くことになると思う。そのつもりで仕事の段取りを考えてくれ」
先程までと一転して、彼の顔には抑えても抑えきれない喜びが浮かんでいる。
「昨夜、妻が無事出産したという知らせが来た。日付から見て、生まれてもう一ヶ月は経つだろう。黒髪に菫色の瞳の女の子で、母子ともに健康だそうだ」
「それは……おめでとうございます!」
エミルナールの寿ぎに、公爵は実にいい顔で笑った。
久しぶりに見た、とても綺麗でいい笑顔だった。
五日後、レライアーノ公爵はタイスンを連れてフィスタへ発った。
ルードラントーとの交渉を含めた戦後処理の為、少し前まで公爵はフィスタにいた。
王都に戻って十日ほどで再びフィスタへ向かうことになったが、今度は個人の嬉しい用での出立だ。
旅立つ公爵の顔も明るい。
これに関しては以前から執政の君が、公爵夫人の出産後、レライアーノ公爵自身があちらへ妻子を迎えに行くようにと言って下さっている。
ご自身も母である執政の君ならではの配慮であろう。
放っておくと限界を超えて仕事をするレライアーノ公爵を、これを口実に休ませようという執政の君のお心遣いであるのかもしれない。
前回はエミルナールもフィスタへ随行したが、今回は王都で留守番になる。
レライアーノ公爵の公的な立場は未だに『海軍将軍』だが、宰相のいない昨今、執政の君の補佐が出来るのは公爵だけと言っても過言ではない。
新しい人材が育ち、過不足なく機能するにはまだ時間がかかる。
初代ラクレイド王時代からの臣で、保守派の首魁たるリュクサレイノが国を裏切るなどという、開闢以来の不祥事の余波はやはり大きい。
古い勢力が大きく退けば、いい面もあるが弊害もある。
宮廷の要職の多くを担ってきたのは、保守勢力の老人とその息子たちだ。
彼らの穴を埋められる即戦力の人材が、現状不足している。
エミルナールに公爵の代わりなど逆立ちしても不可能だが、ずっと公爵の補佐をしてきたエミルナールにしかわからないことも少なくない。
見送りから戻り、エミルナールは執務机を一瞥する。
執務机の上にうず高く乗っている書類の前で、大きく息をついた後、エミルナールは腕まくりをした。
可能な限り処理しなくてはならない。
大海原に繰り出す船乗りのような気分で、エミルナールは、自ら進んで書類の海へと飛び込んだ。




