第十二章 虚ろの玉座Ⅱ①
新緑が風にゆれる中、エミルナールは今朝も夏宮へと向かう。
まばゆい陽射しに目を細め、彼はふと神山ラクレイを見上げた。
雪解けが始まった春の神山は、心なしか、これまでより柔らかい印象を受ける。
あの弾劾の日から、もう一ヶ月以上経つ。
思えば、怒涛のような日々だった。
国を裏切っていたのは、蛮族を母に持つ異端の王族たる瘋癲の海軍将軍ではなく、初代ラクレイド王の時代から従ってきた誇り高き名門・リュクサレイノ家の当主で執政の君の異母弟でもある宰相。
この事実に、ラクレイドの宮廷は当然ながらすさまじく混乱した。
特にリュクサレイノと近しい保守派の家は混乱した。
自分たちもリュクサレイノと共に国を裏切っているのではと邪推されまいとして、掌を返すようにレライアーノ公爵に取り入ろうとする者。
あわてて隠居し、領地の奥へと引っ込む者。
何を思ったか、外国に逃れようとする者も少数ながら現れた。
その混乱を、執政の君とレライアーノ公爵は不気味なまでに静観していた。
もっとも、宮廷内の勢力争いや地盤の強化より、やるべきこと・やらなくては立ち行かないことが多かったのも事実だ。
彼らは淡々と、戦後処理とリュクサレイノ関連の事後処理を官吏たちを指揮して進めた。
執政の君とその義理の息子であるデュ・ラクレイノの、粛々とやるべきことを進めている姿に廷臣たちの混乱は徐々に治まり……新しい秩序が育ち始めた。
少なくとも、レライアーノ公爵を忌避する空気はかなり薄まったと言えよう。
彼が根っからの瘋癲ではなく、誤解されがちな行動のあれこれも、実は真面目に国を思っての行動らしいとの見解が宮廷内で広まり始めた。
何より執政の君が、さながらかつてのセイイール王のようにレライアーノ公爵を信頼している。
そこはやはり廷臣たちも無視出来ない。
ルードラントー側から意外に早く、停戦の申し入れがあった。
あちらの大使は、今回の戦は軍の一部が功を焦り、王の意思を無視した形で起こした行動だったと説明した上で謝罪し、捕虜と引き換えにそれなりの賠償を提示してきた。
どうやら、ルードラントーでは王が亡くなり、お家騒動が勃発したらしい。
補給路の伸び切った辺境の地で、『ルードラの王国を作る為』という緊急性の低い戦をしている余裕がなくなったのがあちらの本音だろう。
しかしそれは、ラクレイド側にとって僥倖であった。
かつて大陸にその名を轟かしたラクレイドではあったが、騎馬や弓矢による戦術や、大将同士の剣での一騎打ちといった、古色蒼然とした戦い方しか知らないのが現状だ。
先進的な技術を持ち、ラクレイドとは違う組織や理論で戦う彼らと、本気で戦をする力など、残念ながら今のラクレイドにはない。
「あちらとの物理的な距離が幸いした。デュクラの位置にラクレイドがあったのなら……飲み込まれ、混乱していた可能性が高いな」
公爵は苦みの混じった口調でそう言った。
デュクラは結果的に、ルードラントーという巨大な後ろ盾を失くした上、ラクレイドを始め周辺諸国からの信頼も完全に失くした。
ラクレイドへ再びの同盟を求めてきたが、互いに不可侵の条約だけを結び、距離を置くことにした。
秘密裏に国を売っていたと、内外共に知られるようになったデュクラータン王家は、信頼と同時に国をまとめる求心力も急速に衰えた。
デュクラ国内でくすぶり続けていたあらゆる不満が、再び蠢き始めた様子だ。
なんでも、デュクラ北東部に領土を持つ先々代の王弟を祖に持つ公爵が、諸侯に呼びかけ反旗を翻すらしいという噂も流れてきている。
「デュクラは今後、大変だろう。まあ、食い詰めた難民が多量にラクレイドへ流れてくる事態にでもなるならともかく、あちらがどうなろうとこちらの知ったことではないがな。そもそもあの公爵は、王城の無血開城を迫っているそうだよ。なら、首がすげ変わるだけで民の暮らしにはさほど影響がない。当面我々が困る訳でもないということさ」
そこで公爵はふっと息をつき、軽く目を伏せた。
「この結果はデュクラ……デュクラータン王家にとって自業自得であろうが。あの無様な姿が、ラクレイドの未来だったかもしれないと思わなくもないね、やりきれない話だが」
遠い目をしてそう言う公爵へ、エミルナールは何も言えなかった。
否定出来る根拠が、残念ながら思いつかなかった。
足元で乾いた枯葉の音がして、エミルナールはハッと我に返った。
新緑の季節に似合わない枯葉。
常緑樹の中には、春の芽吹きと共に古い葉を落とすものがある。おそらくそんな木が散らした葉が風に乗り、ここまで来たのだろう。
エミルナールは何故か不意に、近衛武官に押さえられ、胸元をはだけられたリュクサレイノ侯爵の姿を思い出した。
張りのない肌の左胸は痛そうに赤くなっていて、不釣り合いにはっきりと刻み付けられていた青黒い刺青が、かすかにふるえていた。
異母姉である執政の君を見上げる彼の瞳は、この枯葉のように乾いていた。
彼は捕らえられた後、話すべきことは洗いざらい話したそうだ。
だが意外なくらい裏切りの規模は小さく、協力者も少なかった。
事情を知らされないまま協力させられた者も本当に最低限で、リュクサレイノ侯爵は彼らへの温情をくり返し願ったという話だ。
彼らの温情を願う反面、リュクサレイノ侯爵家の取りつぶしもくり返し願ったらしい。
その話を聞き、まるで病み疲れた者が安らかな死を望むようだな、と、エミルナールは思った。
彼が一体何故国を裏切る……つまり臣として究極と言える罪に手を染めると決めたのか、エミルナールには理解しがたかった。
もしかすると『リュクサレイノ侯爵家』という存在の壮大な自殺劇だったのだろうかと、最近ちょっと思わなくもない。
彼はつい最近、貴賓牢で服毒自殺した。
『毒師』の友人……いや。愛人であったアンリ・ドゥ・チュラタンが服用したのと、同じ毒だったらしい。
ひどく安らかな死に顔だったと聞き、自分の予想がそう外れていなさそうだとエミルナールは密かに思っている。
季節が移り変わるように、確実に時代は移り変わっているのだろう。
エミルナールはもう一度、神山を見上げて深い息をついた。
自分はどこを目指し、進むつもりなのだろうか。
彼はふと、そんな柄にもないことを思った。




