幕あいの章Ⅲ 貴賓牢にて
フレデリールは格子のはまった窓から外を見る。
ここ最近、一気に春めいてきた。吹く風に、かすかに若草のにおいが混じっている。
窓を細く開け、彼は早朝の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
不思議と気持ちは落ち着いている。
人生でこれほど気持ちが落ち着いていた頃が、果たしてあっただろうかと思うほどに。
(牢に囚われ、断罪を待つ身だというのに)
簡素ながらも清潔な寝具が備えられ、決して豪華ではないがきちんとした食事が供される。
が、窓には格子が嵌められ、扉には外側から太い閂がかけられていて、そこに黒隊の者が見張りとして立っている。
身分の高い罪人を捕らえておく牢で、『貴賓牢』というふざけた別名があるが、牢には違いない。
そこがこれほど居心地が良いとは。
(つまり、これこそが私に相応しい場所・相応しい待遇という訳か……)
大国ラクレイドの宰相など自分の身の丈に合わなかったのだと、改めてフレデリールは納得し、深呼吸を繰り返す。
吹く風の中にひそむ、かすかな甘さ。どこかで花がほころび始めているのかもしれない。
(……アンリ)
十四歳だった彼を初めて抱きしめたあの日も、こんな早春の朝だった。
当時フレデリールはニ十歳。
デュクラで、政治学を始めあらゆることを幅広く学ぶ為、彼は留学していた。
生来融通が利かず、女性と上手く付き合うことも苦手な長男に業を煮やした父が、一度外国で修行してこいと叩き出したのが実情だ。
父とデュクラのチュラタン侯爵が個人的に親交があったこともあり、フレデリールはそちらで世話になっていた。
留学の期間が間もなく終わるというある朝、フレデリールは日課の散歩に出てアンリと出会った。
ずいぶん前からそこにいたらしく、寒そうに顔を強張らせて彼は立っていた。
「……アンリ?」
どうしたのと問う前に、少年は抱きついてきた。
反射的に彼を抱き留める。
両腕と胸元に感じる、少年の骨ばった細い身体。
ぞわッと肌が泡立つ。
全身の血が沸くような衝動に、フレデリールの呼吸が乱れる。
女に触れた時と同様、否、それ以上の陶酔感。
溺れ切る直前に何とか踏みとどまる。
意味することが何か知っていたが、フレデリールはあえて目を背ける。
「フレデリール……」
くぐもった声で名を呼ぶ少年の顔を覗き込む。鼻の頭を赤くし、涙で濡れた緑の瞳が一心にフレデリールを見上げいる。
「あなたは僕のことなんか、ただのうるさい子供だって思っているでしょう?……それでもいい。馬鹿にされてもいい。でも、これだけは信じて」
「……アンリ?」
少年は一瞬目を閉じ、次に、睨み付けるようにフレデリールの瞳を見返した。
「悔しいけど、あなたが好き。あなたは……僕の初恋なんだ」
ラクレイドに帰らないで!
うめくようにそう言う彼を、フレデリールは強く抱きしめた。
あの一瞬の為にフレデリールの人生があったと言っても過言ではない。
ほどなく深い仲になり、フレデリールはアンリに溺れ込んだ。
だけどあの瞬間ほどのときめきは、夢中でアンリを抱いていた最中を含めても他にはない。
(君の夢は叶わなかったね……)
そもそも無理のある、無茶な話だった。
だけどお陰で、父を代表とするこの国の腐った幹の大半は消えた。
少なくとも消える大きなきっかけになった。
腐った幹を消した後に育つ若木が、ルードラの王国であろうと黒髪の神の狼が作る王国であろうと、フレデリールのような凡人から見れば大して変わらない。
あの弾劾の日以来、フレデリールは拘束されている。
取り調べには素直に応じ、包み隠さずすべてを話している。
この件に関わった者、関わらざるを得なかった者の名を言い、『関わらざるを得なかった』者へ温情を賜るよう、彼は繰り返し頼んでいた。
「リュクサレイノへの温情はいいのですか?」
やや意地悪くそう問う取り調べの司法官へ、フレデリールは笑う。
「リュクサレイノ侯爵家は取りつぶし、領地は没収して下さい。ただ、私の養子にはまったく罪がありません。彼が今、領地として治めているカワティだけは取り上げず、子爵位でも男爵位でも何でもかまわないので賜っていただき、暮らしが立つようにしてやって下さい。後の弟妹とその親族には……父と私の私財を適当に分け与えてやれば十分かと思いますので」
どうせ彼らは、リュクサレイノという名の大木に巣食うしか能のない、寄生虫のような連中だった。
フレデリールとしては他人以上にうとましい、嫌な連中なのだ。
連中は今頃、今後の人生で期待していた色々なことの当てが外れ、腹を立てているだろう。が、そんなことはフレデリールの知ったことではない。
(……ああ。そう、か)
フレデリールは、父その人を憎んでいたのでも疎んでいたのでもない。
父の姿をした、うとましいしがらみだらけの『リュクサレイノ侯爵家』を憎み、疎んでいたのだと不意に覚った。
覚った瞬間、長年の悩みからようやく解放されたような、清々しい気分になった。
(……私は十分、生きた)
こんな人生だが、悔いはない。
静かに彼はそう思った。
窓辺に寄り、早春の空気を深く吸いながらフレデリールは、白髪だらけの髪をまとめている銀の髪留めを取った。
いぶし銀の髪留めの中央に、オニキスの飾り玉がある。
ラクレイドの貴人男性が使う、ごく一般的な髪留めといえる。
フレデリールは落ち着いた手つきで飾り玉を外す。中に、西瓜の種ほどの丸薬が入っていた。
「もし、拷問されそうになったら」
最後に肌を合わせた日、彼は言った。
「これを嚙み割って、すぐに飲み込んで。きっと苦しまずに死ねるから」
怯えたような目をしていたのだろう。アンリは幼子をなだめるようにフレデリールの髪を撫ぜた。
「心配しないで。たとえどちらが先でも神の御園で必ず会えるから。僕が先でもあなたが先でも、いずれは神の御園でおち合って、それから後は永遠に一緒にいようよ。……誰よりも愛しているよ、僕の初恋」
(君の語る【おとぎ話】の通りになるのかどうか、それはわからないけど……)
フレデリールは頬をゆるめる。
(そうであろうとなかろうと。君のいないこの世で、これ以上生きている意味なんかない)
言うべきことは言い尽くした。
調べもすすんでいるようだ。
そもそもの始まりは、リュクサレイノの優秀な『犬』たちに王子襲撃などという罪深くも下らない仕事をさせたことだ。
以来、リュクサレイノは彼らからあきれられ、見放された。
リュクサレイノの『犬』は、元々〔レクライエーンの目〕と同程度とさえ言われた優秀な『犬』たちだった。
優秀な犬は主を選ぶ。
癖の強い駿馬が乗り手を選ぶようなものだ。
その彼らが主を見限った。
少しずつ少しずつリュクサレイノから優秀な者が逃げてゆき、そのうち数人がデュクラへ流れ、アンリに雇われるようになった。
(リュクサレイノは絶える時期に来ていた……)
父上。シュクリール・デュ・ラク・リュクサレイノ。
あなたはリュクサレイノの最後の輝き、消える直前の蠟燭のともし火だったようですね。
てのひらの丸薬を、フレデリールは何の感慨もなく口に入れ、噛み砕いてすぐ飲み下した。
意外にも味らしい味はしなかったが、音を立てるような感じで血の気が引き、立っていられなくなった。
何かにつかまる暇もなく、フレデリールは床に倒れ伏した。
扉の外で見張りが声を上げているらしいのがぼんやりと感じられるが、強烈な眠気に引かれ、フレデリールはまぶたを閉じる。
……リール!……リール!
フレデリールの愛したただ一人の少年が、満面の笑みを浮かべ、早春の野原を走ってくる。
フレデリールも満面の笑みで彼を迎え、腕の中に抱きしめる。
「永遠に一緒だよ、僕の初恋」
子供の名残りを残す高い声に、フレデリールはうなずく。
「ああ。永遠に一緒だよ。私の初恋にして……最後の恋人」
アンリ・ドゥ・チュラタン。




