第十章 乱Ⅱ⑰
「落ち着け、コーリン」
公爵の声に、エミルナールはハッとする。
意味もなく椅子から立ち上がっていたのに、そこで初めて気付いた。
「執政の君には今のところ、お命に別状はない。……今のところは、な」
セルヴィアーノがうなずく。
「ええ。ただ、彼らにとって『殺すべき時』が来れば、最後のひと押しを押しに来るでしょうね。その『殺すべき時』がいつなのか、残念ながらこちらにははっきりわかりません」
予測は立てられますけど、と、セルヴィアーノは言葉を濁す。
「その旨はすでに彼らの方から、執政の君へお伝えしているそうだ」
公爵は言い、一瞬、軽く目を閉じた。
「デュクラ……つまりルードラントーの工作員が、思っていた以上にこちらの宮廷の奥深くへ入り込んでいるのがはっきりした。奥も奥、時の王のすぐ近くまで。まさかここまでとはな。己れの甘さを痛感しているよ」
「閣下……」
声をかけたもののどう言葉を続けるべきか迷ってしまったエミルナールへ、公爵は『くせ者将軍・レライアーノ公爵』の顔になってニヤッとした。
「情けない顔をするな、コーリン。反省はしているが萎えはしない。今後は後手に回らないよう、気を付けて戦うだけだよ。……その辺りを踏まえ、今夜日付の変わる頃に、執政の君とフィオリーナ殿下がこちら、つまり冬宮のこの部屋へいらっしゃる。我々と今後の話をする為に、な」
公爵はさすがに苦笑いする。
「私より身分の高いご婦人方にご足労いただくのは、畏れ多くも心苦しい話だが。こじんまりした冬宮の方が、護衛も警戒も行き届くというセルヴィアーノの意見だ。彼は元々、秋宮とこちらの宮を管轄している。その辺のことは彼の意見を尊重したいし、するべきだと判断した」
「そもそも執政の君もそうするようにと仰せです」
セルヴィアーノは言って、少し顔を曇らせた。
「もちろんお二方は我々の方からお迎えに上がります。執政の君のお身体が少し気がかりですが、かの方ご自身が強くそれをお望みですので。我々の頭である『犬養い』が直々、責任を持ってかの方の送迎を行います。ですが、会合の時間そのものはあまり長く取れないでしょうね」
「そんなにお悪いのか?」
心配そうな声音の公爵へ、セルヴィアーノは微かな苦笑いを返す。
「お悪いと申しますか……我々が知らない毒である可能性が高いので、どういう症状が出るか読めないのです。本当を言うと、かの方は安静にしているのが一番ですから、他の方々があちらへ行く方が良いのですけど。秋宮にいる従者が、信用できない昨今ですから」
その後、セルヴィアーノから幾つか情報を聞き、簡単な打ち合わせを幾つかした。
こちらへ来て小一時間ほどで、エミルナールは再びタイスンに連れられ、隠し通路を通って自室へ戻った。
深夜にもう一度迎えに来ると告げ、タイスンは帰った。
タイスンを見送った後、エミルナールはしばらくぼんやりと、彼が消えた衣装箪笥の扉を見ていた。
ややあってひとつ息をつき、のろのろと寝台へ近付いて再び横たわった。
なんだかがっくりと疲れた。
(……リュクサレイノ侯爵があちらの工作員に協力しているとはな)
彼は、父親の老リュクサレイノに比べれば保守派の中でも穏健で、冷静に常識的な判断が出来る人物だと思っていた。
その人がまさか祖国を裏切り、父親を黙って殺されるままにしていたとは。
(老リュクサレイノまで殺されるとは思っていなかった可能性があるとは、セルヴィアーノも言っていたけど……)
そもそも、どこまでリュクサレイノ侯爵本人があちらへ与し、意図的にあちらの工作員の便宜を図っているのかは未知数だとセルヴィアーノは言った。
だが、老リュクサレイノが自領の白葡萄酒を持って執政の君を訪れて以来、二人は体調を崩したという話だ。
体調不良の症状も、二人ともほぼ同じだったそうだから、毒を盛られたのはその時……つまり、白葡萄酒に仕込まれていたと考えるのが最も合理的だ。
白葡萄酒を用意して父親に託したリュクサレイノ侯爵が、そのことを知らなかった可能性は低い。
エミルナールはもう一度大きく息をつき、寝台の上で寝返りを打って目を閉じた。
いつも少し困ったような顔をして静かに立っている、宰相・リュクサレイノ侯爵の顔を思い出す。
自らが王になるのではなく、王の片腕であるのが似合う人だという印象があった。
統領より補佐役が似合う能力の質が、自分に近しいともエミルナールは漠然と思っていた。
そんな人であっても王に取って代わり、己れが王になりたいと思うことがあるのだろうか?
どんな大義で売国奴になり、父殺しすら容認したのだろうか?
それとも……実は殺したいほど、自分の父親を憎んでいたのだろうか?
仮にそうだとしても否定できないなとエミルナールは思った。
かの御仁が父親ならば、エミルナールもうんざりするような気がする。
だが、かと言って本当に殺そうまで思うかどうか……。
気付くと何度もため息をついていた。
(……感傷だ)
リュクサレイノ侯爵の心の中を、エミルナールがあれこれ考えても仕方がなかろう。
エミルナールはレライアーノ公爵の駒として、己れの使命を全うする。
それ以外、道はないのだ。




