第十章 乱Ⅱ⑬
夜が明けた。
彼のことだ、仕事は無事済んだだろう。
思いつつ、フレデリールは起き上がって寝室の窓を開けた。
眠ったのか眠らなかったのか、自分でもよくわからない。
明け方の冷たい空気が流れ込んでくる。冴え切った夜明けの空気は、ぼんやりと痛む頭を小気味よく殴りつけてくれる。
そろそろ冬も終わりに近い。
東の空が白むのも、ずいぶんと早くなってきた。
(神よ……)
白む空を見ながら無意識で祈っている自分に気付き、フレデリールは苦笑いをする。
(神?一体どちらの?)
幼い頃からなじんできた、白い峰であろうか?
それとも、青年の頃に初恋の彼から聞かされた、遠い異国の全知全能の神であろうか?
(……神など、いない)
少なくともフレデリールは信じていない。
仮にいたとしても、フレデリールには関係ない。
神は神できっと勝手に存在していて、フレデリールを始めとした人間たちをどうこうしようと思っていまい。
そして、仮に神が万物……最終的に人間を作っていたのだとしても。決して思う通りに出来上がらなかったのではないか、とも。
要するに、親の思うように育つ子が稀なのと同じ理屈だ。
(……父上。あなたの息子は最初から最後まで、あなたの思惑を乱すどうしようもない子のようですね)
普段の彼らしくない、昏い笑みが彼の頬をゆがませる。
(でも。これでようやく自由になりました……あなたも私も)
軽く目を閉じてフレデリールは、胸いっぱいに夜明けの空気を吸い込んだ。
こちらへ向かう乱れた足音が響いてきた。
フレデリールは頬を引き、寝室の扉へ顔を向ける。
「だ、旦那様!」
扉の向こうから聞こえてくる取り乱した声は、長くリュクサレイノの屋敷で執事を務めている老爺のものだ。
彼が取り乱しているのなど初めてかもしれないな、と、フレデリールはのん気な感慨を持つ。
「何事だ、騒々しい」
不機嫌そうな声を作り、フレデリールが自ら動いて扉を開けてやると、老執事は驚いたような顔でフレデリールを見上げた。
リュクサレイノの親戚筋の生まれである執事は、父と同じような青い瞳をしていて、父と同じようにその瞳が白く濁り始めている。
改めてそれに気付いた瞬間、フレデリールは、訳もなくこの老執事が哀れでならなくなった。
「も、申し上げます」
老執事は姿勢を正した。
「ご、ご隠居様が……」
フレデリールは訝しげに眉を顰めてみせる。
「父上?父上がどうかなさったのか?」
老執事は不意に顔を下に向けると、絞り出すようにこう言った。
「く、詳しいことは不明ながら、お亡くなりになったとの連絡が、たった今……」
その瞬間自分が何を思ったのか、フレデリールはきちんと思い出すことが出来ない。
喜びでも悲しみでもなく、焦燥でも安堵でもましてや己れの罪への慄きでもなかったのは確かだ。
ただ、途轍もなくあっけないというか拍子抜けというか期待外れというか、そんな虚しさが胸をかすめていったのだけは、ぼんやりと覚えている。
同じ頃。
春宮の一室でフィオリーナは、気を落ち着けようと何度も深い息をついていた。
やれる機会は限られている。
『犬』たちにとっては慣れているあれこれだろうが、フィオリーナにとっては初めての『謀』である。
「殿下」
クリスタンのささやき声に、フィオリーナはビクッとする。
「気を落ち着けて下さいませ。殿下はただ、あちらへ行っていただくだけでいいのですから」
言われ、フィオリーナは苦笑いをもらす。
そう。自分はただ、あちらへ行けばいいだけだ。
緊張しすぎている方が、かえって不審がられるだろう。
もうひとつ息をつき、フィオリーナは、ややぎこちなく笑ってみせた。
「ええ。そうね。その通りだわ」
同じ頃。
王都へ着いたばかりの高貴な被疑者を出迎える、近衛部隊があった。
執政の君直々の命令書を携えた彼らは、秋宮と冬宮の警備を管轄する、セルヴィアーノ子爵が部隊長を務める隊であった。
「しかし、そんな話は聞いておりませんが」
困惑気味にセルヴィアーノ子爵を見るのは、壮年の黒隊の隊長だ。
「我々の命令書の日付の方が新しい。つまり、こちらが優先される命令です」
すました顔でそう言うセルヴィアーノ子爵へ、難しそうに顔をしかめるのは黒隊の隊長だ。
今回の任務は色々と異例尽くしで、彼としては困惑することも多い。
「今回の被疑者は前例に照らしてもあまり類を見ません。やんごとない辺りでも錯綜している部分が、有り体に申し上げるのならございます」
黒隊の隊長がうなずく。
錯綜と混乱はこの命令を受けて以来、彼と彼の部下のものでもある。
「そもそも冬宮は、色々な意味で気を遣う客人の為の離宮。かの方のような扱いの難しい被疑者を一時的に勾留する施設として、必ずしも相応しくないとは言えないのではないでしょうか?」
少し悩みながらも黒隊の隊長は、最終的に被疑者たちをセルヴィアーノの隊へと引き渡した。
執政の君直筆の命令書に、そもそも彼らが逆らえるはずもない。
こうして、レライアーノ公爵以下四名の被疑者は、黒隊の管轄する留置場ではなく冬宮で、弾劾の日までの二日ばかりを過ごすこととなった。




