第十章 乱Ⅱ⑪
王都でのあやしい蠢きがあった少しばかり前の話。
戦を終えた翌々日の朝だった。
騒然としているフィスタ砦へ、信じられない使いが来た。
「……はい?」
使者の顔と彼らを案内してきた海軍の事務官の顔を、エミルナールはしげしげと見た。
あまりに荒唐無稽で、悪い冗談だとさえ思えない。
今後のことを忙しく打ち合わせていた、将軍執務室。
エミルナールをはじめ、この部屋にいる者は皆、深い疲労に苛まされながらもそれぞれ仕事に奔走し、憔悴した顔の中で目だけをぎらぎらさせている。
殺気だった数多の目に刺され、使者は思わず一歩、後ろに下がった。
使者として訪れたのはフィスタ付き騎馬部隊の副部隊長である壮年の男だ。
そう親しい訳ではないが、ここ最近、作戦行動の打ち合わせで何度も顔を合わせているから、エミルナールもよく見知ってる。
実直で良くも悪くも真っ直ぐな、いかにも現場たたき上げの軍人というの雰囲気の男だ。
彼自身も困惑しているのだろう、瞳に落ち着きがない。
「……ですから。王都よりの命令をお持ちしました。宰相の直筆で書かれた執政の君からの命令です。海軍将軍レライアーノ公爵、並びに護衛官のタイスン、秘書官のコーリン、海軍医官長のラン・グダ。以下四名を国家反逆罪として逮捕拘束し、速やかに王都へ身柄を……」
歯切れ悪く言いながら彼は、携えてきた命令書を広げて差し出す。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
急き込むように声を上げたエミルナールへ、副部隊長はやや情けなさそうに眉をしかめた。
「おっしゃりたいことはわかります、コーリン秘書官。我々も訳がわからないのです。しかしこの命令書は執政の君の代行として宰相の直筆で書かれた正式な命令書です。まもなくこちらへ黒隊が来るでしょう」
エミルナールは息を呑む。
『黒隊』は王直属の、国や王家に弓引く者を捕らえる近衛隊の組織だ。
彼らは王命か、王命に準ずる命令しか聞かない。彼らが動いたということは……。
「王命、という訳か」
執務机に座ったまま、公爵はむっつりと言った。
目の下に濃い隈のある青白い顔で、彼はにっと不機嫌に笑んだ。
「まったく。事ここに至っても政争ごっこが止められないのか、アチラの方々は。確かに『戦が終わり次第、断罪を受ける』覚悟があるとは明言したがな、戦が終わって二日後にこんな命令が来るだと?戦勝の知らせと同時に逮捕と連行の命令を出したのか?」
愚か者めらが、と口の中でつぶやきながら、ゆらりと公爵は立ち上がる。
「しかしながら、それが王命ならば逆らう訳にもゆきますまい。ガルディアーノ副部隊長」
父親ほどの年配である副部隊長へ、公爵の濃い紫の瞳が穿つように向けられる。
「……それで。海軍の暫定的な指揮権は、フィスタの騎馬部隊へ移譲されるのでしょうか?」
副部隊長は後ろめたそうに目を伏せる。
「ええ。こちらへ来た命令書にはそうあります」
わかりましたと公爵は諾い、ふと、彼は心細いような表情を浮かべた。
「それならばあなた方へお願いがある。私自身は自業自得な部分が否めませんが。私に近しいと目された者は、理不尽な言いがかりをつけられて断罪される可能性があるでしょう。しかし海軍に属する者やフィスタの民に、国に弓引く者などおりません。国からの理不尽が降りかからないよう、あなた方に心を配っていただきたい」
ふうっとひとつ、公爵は深い息をついた。
「あなた方も目の当たりにしたはずだ。海軍の者は皆、命を賭して国を守る為に力を尽くした。今回の戦で深手を負った者も死んだ者も多くいる。彼らを……絶望から守ってやっていただきたい」
むしろ泣き出しそうな顔で、公爵は姿勢を正して頭を下げた。カルディアーノ副部隊長は息を止め、驚愕のあまり大きく目を見開いた。
「自分たちが命を懸けて守った国から、断罪などと言う裏切りを受けないように。どうか……守ってやって下さい」
「お、およし下さいませ閣下。あ、頭を上げて下さい!」
上ずった声で副部隊長は言い、慌てたように手を振った。
まさかデュ・ラクレイノが、自分ごとき名前だけの貴族に頭を下げるとは思ってもみなかったのだろう。
「お預かりする限りは責任を持ってお預かりいたします。もしも立場が逆の場合、我々がどう扱われたいかを常に考え、心を配ります。海軍の皆さんが満足のゆくように出来るかは心許ありませんが、ラクレイドの騎士の誇りをかけ、最善を尽くします!」
ようやく公爵の頬に、柔らかな笑みの影がひらめいた。
「よろしくお願いする。あなたの……あなた方の、騎士の誇りを信じます」
昼過ぎ。
黒隊の近衛武官たちが、物々しい装備でフィスタ砦へ乗り込んできた。
命令書を差し出す彼らへ特に抵抗する様子もなく、簡単な旅装を調えた被疑者たちは従う。
唯一抵抗したのは、拘束して連行すると彼らが言った時だ。
「我々は逃げない。連行するのは認めるが、拘束は断る」
しかしと言い募ろうとする彼らへ、公爵は怒りの極限を超えたとしか思えない凄絶な笑みを浮かべた。
「これはあまり言いたくなかったのだが」
ようやく傷が癒え、吊ることのなくなった左腕を彼は上げ、黒隊の武官たちに手の甲を向ける。
中指には、狼の紋章が刻まれた黄金の指輪が剣呑に輝いている。
「これでも私は王位継承権を持つ者。聞くが、君たちは誰に仕え、誰に忠誠を誓う存在なのか?私の指に黄金の指輪がないのなら、縄を打とうが足蹴にしようが好きにしろ。だが……」
魔物じみた、美しくも禍々しい笑みを再び彼は浮かべる。
「私の指に黄金の指輪がある間は、それなりに扱っていただく」




