第十章 乱Ⅱ⑩
その宵。
宰相フレデリール・デュ・リュクサレイノ侯爵は久しぶりに屋敷へ戻り、湯を浴びて軽い夕食をとった。
食後にサラの白葡萄酒をグラスに一杯、いただく。
それほど酒好きではないフレデリールだが、サラの白葡萄酒だけは若い頃から好きだった。
この葡萄酒は口当たりが軽くてかなり甘く、柑橘系のいい香りがする。
食事と一緒にというより、食前か食後に軽く飲むのに適した葡萄酒である。
リュクサレイノ領の名産品のひとつで、フレデリールだけでなく、リュクサレイノの者は皆この葡萄酒が好きだった。
もっとも口当たりが軽い割には強い酒で、油断して飲み過ぎると悪酔いするから注意が必要なのだが。
(……まるでアンリのような酒だな)
柄にもなくそんなことをふと思い、フレデリールはかすかに頬を染めた。
そのアンリは今、屋敷にいない。
彼は彼の仕事をする為、屋敷を離れた。
屋敷の者たちには、彼は他の伝手を頼って出て行ったのだと思わせているが。
(……本当にこれでいいのか?)
今更ながら迷いが頭をもたげて心が激しくゆれたが、葡萄酒をひと息に呷って抑え込む。
彼の『仕事』がどういうものか、知っていながらフレデリールは今宵、目をそらせている。
今までのラクレイドでなくなった以上、国も王家もフレデリールを含めたリュクサレイノも、今のままではいられない。
最悪よりはましな道へとラクレイドを導くのが、凡庸の誹りを否めないとはいえ宰相を務める者の責務であろう。
忘れられない初恋の人が突然現れ、埋火の恋情に惑わされただけではないのかと疑問を持つ度にフレデリールは、自分にそう言い聞かせてきた。
これは決して、私的な恋着で判断したのではない。
宰相としての判断だ。
腐った大木に水や肥料をやっても意味がない、いっそ根元から切り倒して新しい苗を植え、育てるべきだ。
たとえ、そのせいでしばらく国中が混乱したのだとしても。
誰に言っているのかわからない言い訳を、フレデリールは胸の中で繰り返す。
……飲み足りない気分だ。
フレデリールは給仕に命じ、もう一杯、サラの白葡萄酒を持ってこさせた。
すでにこめかみがズキズキといやな感じに脈打っている。この分では明日は二日酔いになるかもしれない。
(どうにでもなれ、かまうものか……)
明日以降の嵐の日々を、素面で乗り越えられる自信などない。
見えない相手と乾杯をするようにフレデリールは、葡萄酒を軽く掲げ、一気に飲み干した。
視界がゆらぐ。大きく息をつき、彼はグラスをテーブルへ置いた。いつになく音を立ててしまったが、気を遣う余裕はなかった。
「……さようなら」
自分でも無意識のうちに、彼は別れの言葉を口にしていた。
何に誰に対する言葉か、よくわからなかった。
隠居屋敷の主の寝室で、シュクリール・デュ・ラク・リュクサレイノはうとうとしていた。
戦勝の知らせがあったあの日、執政の君とサラの白葡萄酒を飲んで以来、どうも体調がすっきりしない。
最初は、連日の緊張状態で疲れていたところに白葡萄酒を飲み過ぎ、体調がおかしくなったのだろうと軽く考えていた。
しかし、二日経っても三日経っても体調が戻らず、むしろ悪化している懸念を感じ始めていた。
(一体何だ、どういうことなのだ。手足に力が入らない。脚が思うように動かない……)
こころなしか息苦しい気もする。
何か悪い病にかかってしまったのだろうかと、さすがに不安になる。
「お疲れが出たのですよ、旦那様」
古くからリュクサレイノで抱えている、中老の医師が言う。
「こう申し上げては失礼でしょうが、旦那様は決してお若くありません。お若い頃のように動けなくて当然なのですよ」
子供に言い聞かせるように言うと、医師は煎じた薬湯を差し出す。
「これを飲んで、ゆっくり寝んで下さいませ」
納得は出来ないが、医者にそう言われるとどうしようもない。
渋い顔で寝台の上に半身を起こし、シュクリールは薬湯をすする。
飲み終わる頃にはまぶたが重くなってくる。
「ゆっくりお寝み下さい」
医師の声を聞きながら、シュクリールは寝台に横たわる。
何故かふと目が覚め、シュクリールは身じろぎした。
「なんだ、起きてしまわれたのですか?」
聞き覚えのない声が響き、ぎょっとする。
「眠ったままでいらっしゃれば良かったのに。結果は変わらないのですから」
薄闇の中で見知らぬ男は、楽しそうにそう言った。
どことなく歌うようなその口調は……デュクラ訛り、か?
上掛けを無遠慮に剥ぎ、男は、袖を無造作にたくし上げてシュクリールの上腕を出す。
「これで終わりです、リュクサレイノ卿。お疲れ様でした」
声と同時に上腕がチクリとした。
何をする、と叫ぼうとした。
しかし声は出なかったし手足が完全に痺れていた。
瞬くうちに目の前がかすむ。
(……カタリーナ!カタリーナ!)
かすむ意識の中でシュクリールは必死で呼びかけた。
カタリーナ。
我が子ながら出来過ぎた娘よ。
ライオラーナのただひとりの娘よ。
重い責務を背負いながらも、いつも背筋を伸ばし気高く立っていたお前。
お前にとって私は、決していい父親ではなかっただろう。
だけど愛していた、大切に思っていたよ、カタリーナ!
(逃げろ、逃げろカタリーナ!殺される前に!)
シュクリールが最後に見たのは、成人の儀を終えて貴色である薄紅のローブに身を包んだ、遠い日のライオラーナ姫のほほ笑みだった。
白い手袋に包まれた彼女の小さな手をわななきながら取り、永遠の忠誠を誓う臣下の礼として、その手の甲へそっと額を押し当てた遠いあの日。
何かが狂ってしまう前の、美しい青春の思い出だった。




