第十章 乱Ⅱ⑨
祖母の表情にはっとするかしないかの刹那、彼女は再び柔らかく笑んだ。
さっきの険しいまなざしが見間違えにしか思えないくらい、自然で優しい笑みだった。
「そう、それは楽しみね。オオカミ犬は賢くて、主に忠実だと聞いたことがあるわ。古い時代のラクレイド王や王子が、飼い慣らして狩りの手伝いをさせたという話、そう言えばわたくしも聞いたことがありますね」
ふと思いついたのか、祖母は側付きの者に指示して紙とペンを持ってこさせた。
「愛玩用の小さな犬も可愛いけど。フィオリーナには、侮られると主すら噛み殺すくらいの、強い犬の方が似合いなのかもしれないわね。でもそういう犬は、子犬の頃から正しく飼えば、決して主に逆らわないそうよ。いい『犬養い』が育てた子を手に入れなさいね、きっと貴女のいいお友達になるでしょうから」
かなり素早く手を動かし、祖母は紙に何かを書きつけながらそう言った。
「ええそうですね、そうします」
諾いながら、フィオリーナは祖母の一言一句を聞き漏らさないよう緊張した。
裏の意味があるに決まっているのに、祖母の口調はあくまでさりげなく、本当に犬の話をしているようにしか聞こえないのが怖ろしい。
「それはそれとして」
手を止め、少し息をついて顔を上げると祖母は、その青い瞳で一瞬射抜くようにフィオリーナを見た。
「せっかく貴女も刺繍に興味を持ったようだから、お祖母さまが宿題を出しましょう。これを……」
書きつけた紙を、祖母はフィオリーナへ差し出す。
「図案記号を書きました。貴女は幾何学模様の方が得意のようだから、そちらの図案にしました。そう難しくはない筈ですから、これを自分ひとりで読み解いて、図案に起こしてみなさいな。出来たら見せてちょうだい。……そうそう」
祖母は慈悲深い女神のように、美しくほほ笑んだ。
「その時は貴女が飼い慣らした犬を、是非見せてちょうだい。……待っているわ」
その後、茶菓をいただきながらふたりは少し話した。
祖母が疲れてきた様子なので、フィオリーナは秋宮を辞した。
春宮へ戻ると彼女は、少し疲れたので午睡を取りたいと言い、寝室に籠った。
寝台の上で、フィオリーナは祖母から渡された図案記号を図案に起こした。
実際に刺すのは苦手だが、記号を図案に起こすのは決して苦手ではない。
寝室に備えていた小さな筆記用具で、彼女は集中して図案を起こしていった。
「……え?」
出来上がったものに、フィオリーナは思わず絶句する。
図案に何か意味が込められているであろうことは察していたが、これは一体、どういうことだろうか?
図案記号を素直に図案に起こすと、こうなる。
『白地に黒。平刺し(最も基本の縫い取り)で。模様は以下』
そして指示の通りに針を置くと、こんな文字が浮かび上がることになる。
『ここから だして』
寝室の扉が合図される。
あわてて図案記号や図案を書いたものを上掛けの下へ隠した。
「フィオリーナ王女殿下」
聞き覚えがある声。フィオリーナは息を呑んだ。
少し迷ったが、入室を許した。
春宮の上級侍女の仕着せに身を固めた淑やかな『犬』が、控えめな笑みを浮かべながら深く腰を折った。
「お初にお目にかかります、フィオリーナ王女殿下。本日付けでこちらへ配属となり、ジャスティン夫人の下で殿下のお世話をさせていただくよう仰せつかりました。クリスタンと申します、以後お見知りおきを」
素知らぬ顔で初対面の挨拶をするクリスタン夫人へ、フィオリーナは複雑に笑んで口を開く。
「そう。これからよろしく、クリスタン夫人。さっそくだけどお願いしたいことがあるわ」
クリスタンは真顔になり、御心のままにと諾った。




