第十章 乱Ⅱ⑦
自分の寝室に戻り、フィオリーナは今、何事もなかったかのように寝台に横たわっている。
母は先程、足音を忍ばせて自室に戻った。
まぶたを閉じて何度も深い息をするが、胸のわななきは治まりそうもない。
聞かされたあれこれが、まだ頭の中で整理出来ていないのが本音だ。
(明日、いつもの時間に起きられるかしら?)
思うと少し心配になるが、寝坊をするつもりはない。
「姫殿下にお願いがある」
寝室へ戻る直前。
犬養いは、真面目な顔でフィオリーナを見つめて言った。
「近いうち……出来るのなら明日。執政の君を見舞って下さいませんか?」
「見舞うことそのものは、多分明日中に出来ると思うけど。何を調べる、もしくは何をお祖母さまへお伝えすればいいの?」
フィオリーナが問うと、犬養いは嬉しそうに口許をゆるめた。
「いいねえ、頭の回転が速い。深窓育ちの姫にしては身のこなしもキビキビしてて無駄がないし、王女殿下でないのなら俺の最後の弟子にしたいくらいだね」
「師匠。冗談はそのくらいで」
セルヴィアーノ子爵にたしなめられ、犬養いは軽く眉を寄せる。
「別に冗談じゃないんだがね。まああまり時間もないんだ、サクサクいこう」
犬養いは急に真顔になる。
「雑談にまぎらせて、かの方へこう言って下さいな。『犬を飼うことになった』あるいは『飼うつもりだ』でもいい。『狼の血筋に近い、野育ちの犬を』……と。それでかの方には通じる。我々が貴女様に従ったこと、水面下で動いていること……がね」
フィオリーナは諾った。
閉じたまぶたの裏で、ここ一、二時間ばかりで起こった様々な出来事が脈絡もなく浮かぶ。
そもそも、長く親しんできた自分の寝室に隠し扉があったことが驚きだ。
その扉の向こうの隠し通路、通路の果てにあった隠し部屋、その部屋にいた隠されてきた王家の『犬』という存在……何もかもがにわかには信じられない。
そしてその信じられない存在が、さらに信じられない可能性を口にした。
(リュクサレイノ侯爵が、裏切っている……)
この国の宰相であり、早くから始祖王陛下に臣従したと伝えられている、最古参の家のひとつであるリュクサレイノの現当主が。
おそらく、執政の君や自らの父親に毒を盛るようなことまでして。
(まさかって言葉がまず出てくるけれど……)
フィオリーナはゆっくりとまぶたを開け、暗い天井を天蓋越しに見つめる。
何故かいつも少し困ったような顔をしている、物静かな大叔父の姿が浮かぶ。
とりわけ強い親しみを感じている訳ではなかったが、親族の一人というだけでなく、フィオリーナは彼のひととなりにある程度以上の信頼を持っていた。
輝くような才気こそ感じないが、父の補佐を過不足なく行っていたという印象もある。
彼に、強い者に流されやすいあやうさ……があるだろうことは、子供のフィオリーナでさえぼんやり感じていたが、実直な彼に漠然ながらも好感を持っていた。
ある意味、リュクサレイノの曾祖父さま以上に信頼できそうだ、とさえ思っている。
(だけど、どんな『まさか』だってこの世にはあり得るわよね。王妃の実家であるデュクラ王家が平気でラクレイドをぺてんにかけるんだし。デュクラの王子が、自分は誇り高いルードラの戦士だと断言するくらいだし……)
どんな可能性も頭の隅に置いておかなくてはならない。
たとえそれが、信じがたいほど不愉快な内容であっても。
もっとも、リュクサレイノ侯爵に関しては『友人』だというデュクラの工作員に、何も知らないまま利用されている可能性もある。
あるいは『友人』にうまく丸め込まれ、裏切りの自覚もなく裏切りに加担している可能性もある。
寝返りを打ち、フィオリーナは重いため息をついた。
世界とはなんとややこしく、汚らしいのだろう。
一体、いつからこんなに汚らしくなったのだろうか?
……いや。世界は元々汚いのだ。
子供の頃は気付かなかっただけで。
そう思い、フィオリーナは更に深く大きなため息をついた。
ため息をつき、何度も寝返りを打つ。
ふと、可能性の先に更に不愉快な仮定を見出し、フィオリーナは思わず乾いた小さな笑声をあげた。
(私は……母方だけでなく父方も、裏切り者の血筋なのね)
もはや涙も出なかった。




