第十章 乱Ⅱ⑤
挑発するようにそう言う男の顔を、フィオリーナは黙って見据えた。
返答に詰まっても、相手から目をそらせば負けだと思った。
睨むのではなく、見据える。
あちらがフィオリーナを試すつもりなら、安易な返事、あるいは激昂や逡巡などの態度を見せるのは賢くない。
とっさにそう判断し、フィオリーナは静かに相手の次の言葉を待つことにした。
犬養いはふっと、真顔になった。
「フィオリーナ王女殿下」
声に真摯さがこもる。
「試すような真似をしたことをお詫び申し上げる。貴女様は確かに、神の狼の系譜に連なるお方だ。十歳そこそこの子供とも思えないクソ度胸でいらっしゃる」
言葉遣いにはやや難があったが、侮りや皮肉は感じなかった。
フィオリーナは小さく、ふっと息をついた。
どうやら当面、この恐ろしい犬(と何故か、フィオリーナは思った。犬養いというよりも彼は、犬……それも狼に近い、山犬の頭という気がした)に侮られず済んだようだと知る。
「殿下」
セルヴィアーノと名乗った近衛武官が口を開く。
「〔レクライエーンの目〕について、どのくらいご存知でいらっしゃいますか?」
「何も。ほとんど何も知らないわ」
少し迷ったが、フィオリーナは正直にそう答えた。
ここは、はったりや鎌かけを使うべきところではなかろう。本当に知らないのだから、知らないと素直に言うべきだ。
彼らからもたらされる情報を精査するのは、後でも出来るのだから。
「お父君からは何も?」
重ねて問うセルヴィアーノへ、
「何も。亡き陛下は当時のわたくしに、この件は知らせるべきではないと判断なさっていたのでしょう」
と、フィオリーナは静かに答えた。
教えてもらえなかった事実は哀しいが、さっき母も『本来なら成人後に明かされる秘密』だと言っていた。
十歳の子供に明かせる訳がなかろう。
「まあそうだろうな」
犬養いはつぶやく。
「なら最初から説明しましょう、姫殿下。貴女様の血脈と我々の、そもそもの契約のはじまりから」
まあお座りください、と犬養いは奥にある椅子を母子へ示し、彼らは部屋の隅から粗末な椅子を持って来て座った。
傍らの小卓にランタンを置き、フィオリーナたちは座った。
犬養いやセルヴィアーノ、時々補足するクリスタン夫人の話を総合すると、以下のような内容になる。
初代ラクレイド王がまだ、神山ラクレイの麓を治める一領主の息子だった頃。
祖父の代から散発的に続いている、周辺との小競り合いに終止符を打つべく、まだ少年だった彼は起つ決意を固めた。周辺を平らげ、統一国家の樹立を目指すと。
その為に彼はまず、頻繁に市井へ降り、身分に関係なく様々な者と親しく付き合った。
農夫に職人、商人、木こりや猟師にも分け隔てなく付き合い、目をきらきらさせながら彼らから話を聞き、時には教えを請うた。
人懐っこい、だけど相当な変わり者の若様として、軽く見られながらも彼は慕われた。
領主令息に相応しくない浮薄な行動だと年寄りたちはいい顔をしなかったが、成人後にはどこかの婿になるしか道がない次男坊、多少の瘋癲は親兄弟に目こぼしされていたらしい。
それが、市井に埋もれた有能な者を探し出し、自身の腹心として取り立てる為にしていたことだったのだと周囲が知ったのは、彼が政敵を退けて正式に領主の座につき、その挨拶の場で、辺り一帯を下して自らが王になると宣言してしばらく後である。
「古くからの臣ほど、この新しいご領主の言葉をまともに受け取らなかった。元々長子ではなかったかの方が跡を継いだのも、戦で兄君より活躍なさったからだが……それでも。主として戴いたとはいえ、若輩のかの方を侮る空気が残っていたからな」
見てきたかのように犬養いは言う。
「我々の先祖は、かの方が少年の頃から付き合いのあった木こりや猟師でね。かの方とその血脈に神の気……王気を感じる限り、どこまでも従うと誓ったんですよ」
「始祖王陛下に、ですか?」
初代ラクレイド王の尊称でフィオリーナが問うと、犬養いは頭を横に振る。
「いや。神に。ラクレイアーンに誓約したんです。古い言葉でいう『うけひ』にあたる神聖な誓いでしてね、姫殿下。神の気を持つ始祖王とその血脈を裏切った場合、子々孫々『永遠の罪人』となってもかまわない、そういう誓いです」
フィオリーナは息を呑んだ。
『永遠の罪人』とは、転生を禁じられてこの世の終わりまで罰を受け続ける存在を指す。
償うこともやり直すことも禁じられ、ひたすら罰を受け続けるこの存在は、ラクレイド人が最も恐れる神が人間へ与え得る究極の罰だ。
犬養いは真っ直ぐフィオリーナを見つめている。
「昔は今以上に、この誓いは重く神聖だった。そのくらいは、我々も姫殿下も理解出来るでしょう?今だって『違えれば永遠の罪人になってもいい』なんて誓いをすることは滅多にない。売れない娼妓が客を繋ぐ為に弄ぶ文言として、ちょいちょい使われることはありますがね、そんな羽より軽い色町での誓いとは訳が違う。神山から昇る新年朔日の日の出に向かい、我らの先祖は誓ったと言い伝えられています」
『新年朔日の日の出』は、最も神聖な気に満ちるとされている。
王の即位式が行われるのも、喪が明けた次の年の『新年朔日の日の出』だ。
「つまりはそれだけ、始祖王陛下と彼の血脈に、我々の先祖は賭けていたということなんです。戦の度に土地や森が荒れて、一番困るのは結局、我々下々ですからね」
フィオリーナは唇を噛み、かすかにうなずく。
セルヴィアーノが口を開く。
「神の気が感じられる限り裏切らないという誓約は、逆に言うと神の気を感じなければ、王の血脈であろうと従わないということでもあります」
犬養いは軽く眉を寄せた。
「子爵、あんた言いにくいことをズバッと言うねえ」
「この辺は何よりも一番にお解りいただかなければなりますまい。違えれば子々孫々『永遠の罪人』になってもいいというほどの誓いなのです、主に戴くに足る方でなければ……我々は文字通り、犬死にの憂き目にあうのですから。現に、王の血脈や姻戚であっても我々を知らずに死んだ者もいます」
「まあな。最近なら、第九代シラノール陛下の父君と叔父君に、我々は姿を明かさなかったらしい。シラノール陛下はともかく、あの方々は話に聞くだけでも王気を感じられなさそうだし」
「つまり」
今まで黙っていた母が、急に口を開いた。
「確認ですが。フィオリーナ王女殿下には王気があり、わたくしは王女の母として認められ、ラクレイド王家を裏切らないとあなた方に信頼された……と。そういうことでしょうか?」
犬養いとセルヴィアーノ、クリスタン夫人が居住まいを正す。
「そうです、王妃殿下。我々は貴女方の『犬』になります」
犬養いは真顔で言った。
「国を守り、民を守る神の気、王に相応しい器をお持ちの王の血脈に従う『犬』として、我々は忠誠を誓います。我々はカタリーナ陛下、レライアーノ公爵の『犬』でもありますが、フィオリーナ王女殿下とその母君アンジェリン王妃殿下の『犬』としてもお仕え致します」
フィオリーナは深く息をついた。
色々な事柄を一気に聞かされ、正直混乱していたが、ひとつ疑問が湧いた。
「大体のことはわかりました。まだちゃんと整理出来ていませんけど」
『犬』になると誓った一筋縄ではいかない大人たちの目が、射抜くようにフィオリーナを見つめる。
「でも、今、こんな混乱した時期にわざわざ姿をさらし、子供のわたくしに忠誠を誓うなどと言い出したということは……急がなければならない、もしくは、わたくしを味方に引き入れなくてはならない、そんなような事情が出来たということではないの?」




