第十章 乱Ⅱ④
靴下をはいて一番あたたかいガウンを着、ランタンを持ってついてくるようにと母は言う。
フィオリーナが支度をしているうちに、母は箪笥の背板を軽く押した。かちりという音がして、背板は静かに横へすべった。
箪笥の後ろ、背板に隠されていたそこには、人ひとりが通り抜けられるくらいの、四角く穿たれた暗い穴があった。
穴から黴のにおいと一緒に冷たい風が吹いてきて、フィオリーナの顔を打った。思わず顔をしかめる。
「隠し通路よ。この先に貴女に会わせたい人が待っているわ。ただ、彼らに会えば後戻りはできないの、本当は成人を待ってから明かす王家の秘密のひとつなんだけど。でも『ラクレイドの王女以外何者でもない』と言い切った貴女を、わたくしは信じます」
フィオリーナは一瞬、寝台へ逃げ帰りたい気分になったが、踏みとどまった。
唇を噛み、ランタンを持つ手に力を込める。目顔で促す母の後ろから、フィオリーナは穴をくぐった。
穴の先は階段になっていた。おそるおそる、フィオリーナは降りる。
暗いので、やはり怖い。ランタンを持っていない左手を、そっと壁に添えるようにしてゆっくり降りる。
思いがけないくらい長い階段だ。
フィオリーナたち王族の私室は春宮の二階部分にあるが、一階部分はもちろん、半地下になるくらいまでは降りたのではないだろうか。
降りた先は細い通路だった。
向こうから人が来て、すれ違えるほどの幅しかない。
時折奥からかび臭い風が吹いてくる。
先を行く母も手に小さなランタンを持っているが、その灯りは彼女自身の身体に遮られ、ほとんど見えない。
フィオリーナは再びランタンを持つ手に力を込める。
寒いのに、手だけは異常に汗をかいていた。一度ランタンを左手に持ち替え、てのひらの汗をガウンの胴でぬぐった。
ただまっすぐ伸びる通路を、母と娘は無言で進んだ。
ランタンが照らす手元や足許以外はっきりしないから、言い切れはしないが。
この階段や通路は、確かに長く閉め切られていただろうが、朽ちる寸前まで放置されていた、訳ではなさそうなのに、フィオリーナは不意に気付く。
さっき触れた階段の壁板も、ささくれなどもなくなめらかで、軽い違和感があった。
(ひょっとして、定期的に手を入れているのかしら?)
隠し通路なのに?
疑問は増える。
母が立ち止まったので、フィオリーナも立ち止まる。
正面に扉があるのか、母は軽く叩いて合図をした。ややあってあちらから叩き返す音が響く。
もう一度母が、トントントン、と、三度扉を叩いた。カチャリと音がして、奥へ向かって扉が引かれた。
「どうぞ」
柔らかな声と同時に、暗闇に慣れたフィオリーナにとってかなり眩しい光が瞳に刺さった。一瞬まぶたを閉じた後、眇めながら彼女は母に従い、前へ進んだ。
目が慣れてくると、そこが決してとんでもなく明るい場所ではないことに気付く。
春宮の上級侍女にあてがわれる部屋程度の広さだから、狭いと言うほどではないが、それほど広いとも言えない部屋だ。
室内にいたのは三人。
近衛武官の制服を着た二十代半ばから後半の男、同じ年頃の、秋宮の侍女の仕着せを着た女。
そして、下働きらしい壮年の男。
立場も性別もバラバラな三人だった。
「お初にお目にかかります、フィオリーナ王女殿下」
近衛武官の制服を着た男が口を開いた。
「秋宮近衛部隊の隊長を務めさせていただいております、セルヴィアーノと申します。以後お見知りおきを」
「お初にお目にかかります、フィオリーナ王女殿下」
次に口を開いたのは侍女の仕着せを着た女だった。
「わたくしは只今、秋宮にて執政の君にお仕えしております。こちらではクリスタン夫人と呼ばれております。以後お見知りおきを」
「俺は他の皆さんと違って丁寧な物言いに慣れてねえ、山出しのおっさんだからな。だから今後もこんな感じで失礼させてもらうよ」
下働きらしい男が口を開いた。
ぎょっとするほどくだけた口調だ、フィオリーナは一瞬、むっとした。が……男の静かな目に値踏みするような光を認め、フィオリーナは口を閉ざしたまま男を見据えた。
男はへらりと笑み、軽く頭を下げた。
「はじめまして、姫殿下。俺は通称『犬養い』。所謂……〔レクライエーンの目〕『地』を務めていて、ついでに頭も任されているおっさんでしてね。以後よろしくお願いしますよ」
(レ……レクライエーンの目?)
フィオリーナは思わず目を見張った。
話くらいは聞いたことがある。
初代ラクレイド王から仕えている、王直属の諜報部隊であり、暗殺部隊でもある組織。
正式には認められていないが、隠然たる力を持つ組織。
しかし本当に実在しているのかわからない、半ばおとぎ話のように語られている組織でもある。
ずっと王宮に住み、父王の近くで過ごすことの多かった『正統なる王の血筋』たるフィオリーナすら、今まで見かけたことのない組織だ。
話として聞いたことくらいあるが、実在しているとは正直思っていなかった。
「実在しているとは思わなかった……そんな顔をしていますね、姫殿下」
〔レクライエーンの目〕『地』であり、頭でもあるという『犬養い』と名乗った男はそう言い、へらりと笑った。




