第十章 乱Ⅱ③
その宵。
フィオリーナの寝室へ、足音をひそませるようにして母が来た。
フィオリーナは未だに寝たり起きたりの日々をくり返している。王都へ戻って、もう半月になるというのに。
どこがどうという訳ではないがいつも身体がだるく、疲れやすくなった気がする。
何をするのも億劫で、何を食べても心から美味しいとは感じない。
気鬱の病だろうと侍医は言っている。
もう少しあたたかくなり、状況……フィオリーナの体調もそうだが、緊迫した内外の状況が落ち着き次第、どこか気候の穏やかな場所で静養をする方がいいかもしれないとも言われた。
まるでデュクラの王子が来る前の母のようだと、フィオリーナは枕に頭を乗せたまま思い、小さく嗤う。
先日、ルードラントーの軍がフィスタへ攻めてきた、将軍レライアーノ公爵がそれを退けた、という話を母から聞いた。
フィスタ砦の領主邸で聞かされた話を、フィオリーナは思い出す。
将軍としても叔父としてもレライアーノ公爵は、全力を尽くしてフィオリーナとの約束を守ってくれたようだ。
(叔父さまが……レライアーノ公爵がいらっしゃれば。ラクレイドは安泰だわ)
天蓋越しに宵闇の窓を見上げ、フィオリーナは思う。
余裕を持って……とまでは言えないものの、レライアーノ公爵は未知の恐ろしい敵を退けた。
あちらの指揮官を捕虜にし、和平交渉を進める流れも取り付けたらしい。
彼の台頭を面白く思わないリュクサレイノの曾祖父さまを始めとした保守派も、難癖はつけるであろうが、ここまでの実績を無視することも出来まい。
『彼らをフィスタより先へ進ませない』という、非公式ながら執政の君への宣誓として記録されている言葉を、レライアーノ公爵は守ったのだから。
(彼がいればラクレイドは大丈夫。では……わたしは?)
思うと胸がふさぐ。
フィオリーナの価値は今のところ、現ラクレイド王家唯一の『正統なる王の血筋』であること。
でもそれは、レライアーノ公爵が御位に就けば変わってくる。
彼が王になれば、彼の血筋の者が『デュ・ラク・ラクレイノ』だ。
今現在、レライアーノ公爵は正妃マリアーナとの間に一男一女をもうけていて、そしてかの妃は身ごもっていらしてもうすぐ臨月をお迎えになる。
普通に考えれば、将来の『デュ・ラク・ラクレイノ』は彼の血筋からすでに三人いることになり、夫妻の年齢を考えれば、もう一人か二人くらい、増えてもおかしくない。
また、考えにくいとはいえもし将来、彼が側室や愛人を持てば『デュ・ラクレイノ』が増える可能性もある。
もちろんフィオリーナ自身が王女であること、そしてデュ・ラク・ラクレイノであることが打ち消される訳ではない。
が、同時に彼女がデュクラのデュクラータン王家の血筋であることも、決して打ち消されない。
フィオリーナはため息をつく。
かつての友好国は今、裏切り者となり果てた。
この身に流れる血の半分は、裏切り者の血だ。
ふたつの王家の血が彼女の身体には流れていて、その血を利用しようとする者も少なからずいる。
特に敵側の人間にとって、フィオリーナは有効な駒である。
フィオリーナはアチラに与する気など微塵もないが、フィオリーナの意思など関係ない。
フィオリーナの身体に流れる血、だけが必要なのだから。
(わたしなんか……病んでこのまま死ねばいいのに)
ラクレイドの王女でありながら、生きているだけでラクレイドの迷惑になりかねない自分。
いっそいなくなればすっきりするのではないだろうか?
すべてが平和に収まる一番簡単な方法は、それではないだろうか?
最近の物思いの結論はいつもそうなる。
上掛けを頭まで引きかぶり、フィオリーナは、寝床の中できつくまぶたを閉じた。
閉じたまぶたが熱くうるんだ。
寝室の扉が静かに叩かれた。
聞こえていたが、答えるのも億劫だ。
フィオリーナは更に上掛けの中へもぐりこみ、寝返りを打つ。
「フィオリーナ」
近付く気配と共に名を呼ばれるが、底に押さえ込んだ怒りがにじむその声は、母のものだった。
怒る母など、フィオリーナは今まで見たこともない。さすがにそろそろと掛け物の陰から目を出す。
豪奢な赤い髪を簡単にひとつにまとめ、簡素な部屋着の上にあたたかそうなガウンをはおっていた。
いかにも寛いだ服装だったが、顔は険しくこわばっていた。
「フィオリーナ、少し聞きたいことがあります」
そう言うと母は、一度深い息をついた。
「貴女が色々と悩むのはわかりますし、その悩みはあなたにとって必要だとも思います。でも、貴女はラクレイドの王女です。その自覚はありますか?」
フィオリーナはのろのろと掛け物から顔を出し、半身を起こした。
「どういう……意味ですか?」
しばらく考えた後、フィオリーナは母に問うた。
「文字通りの意味よ」
そっけないくらい簡単に母は答えた。
「貴女はご自分が、ラクレイドの王女であるという自覚が本当にありますか?」
何かがフィオリーナの中で、かちりと音を立てた。
さながら、パズルのピースが嵌ったような感触だった。
「あります」
考えるより前に、フィオリーナの唇は動いていた。
「あります。わたくしはラクレイドの王女 フィオリーナ・デュ・ラク・ラクレイノです。それ以外の何者でもありません」
母のエメラルドの瞳が、ふっとゆるんで軽くゆらいだ。
「わかりました。では……こちらへ」
そう言うと母は、寝室の隅にある備え付けの洋服箪笥へ向かった。両開きの箪笥の戸を開け、ざっと寝間着や部屋着を片方へ寄せた。そして奥の背板をざっと確認し、触れた。
「ここは隠し扉のひとつなのよ。おいでなさい、フィオリーナ。本当は少し早いんだけど……貴女に会わせたい人がいますから」




