第18話 不知火明日香⑥
「ぁ……ぁ……」
言葉が出なかった。
目の前の光景が信じられなかった。
頭の中が真っ白になって、目の前の事象を理解するのを拒んでいるように思えた。
しかし、それでも徐々に、私は理解し始める。
不知火さんの頭にかぶりついた巨大鼠。
それに、不知火さんはピクリとも動かない。
……死んだ? 不知火さんが?
いや、こんなところで怯えている場合ではない。
このままでは、次に殺されるのは私だ。
逃げるか……いや、戦わないと。
この敵を倒さないと、日本に帰れない。
だったら戦わなければならない。
変身して、魔法少女として、この化け物と戦わなければ。
……本当に戦えるか?
私なんかに、この化け物を倒せるのか?
何をやっても平均並で、あの不知火さんですら倒せなかったあの化け物を?
私が……?
「ぅぁッ……」
その時、ジンッと手のひらに熱が籠ったような感覚があった。
見ると、先ほど尻餅をついた際に手のひらをすりむいていたようで、皮が剥けて血が滲んでいた。
このままじゃ死ぬ。不知火さんのように。
だったら、ここで……私は……!
「……まだ、まだぁッ!」
血が滲んだ手でアリマンビジュに触れようとしたその時、くぐもった声がした。
私はそれに顔を上げ、目の前の少女の頭を咥えている巨大な鼠を見つめる。
ギギギッという音が似合いそうなぎこちない動きで、徐々に巨大鼠の口が開く。
そこには、両手で鼠の口を開かせている不知火さんの姿があった。
「不知火さん!」
私が名前を呼ぶと同時に、不知火さんは巨大鼠の口から頭を出して、その口を掴んで巨大鼠を背負い投げする。
鼠の体はグルンと回転し、そのまま地面に叩き付けられる。
ビタァンッ! という音を立てて、巨大鼠はその動きを停止させた。
「危ない危ない……」
そう言って汗を拭うような素振りをする不知火さん。
徐々に私は、彼女が生きているという事実を飲み込み始める。
すると体中に安堵が溢れ、胸が熱くなり、涙が滲む。
「良かった……不知火さん、生きてて、本当に……」
「ははっ……大丈夫だよ」
彼女は笑顔でそう言いながら、私の目の前でしゃがむ。
そして徐に私の顔に手を伸ばし、頬を伝っていた涙を拭う。
私の顔から手を放し、不知火さんは優しく笑った。
「葉月ちゃんに涙は似合わないよ。笑って」
「しら、ぬいさ……」
私が名前を呼んだ時、巨大鼠が立ち上がる。
すると不知火さんは立ち上がり、私に背を向けて立った。
「……てかさ、『不知火さん』って呼び方……呼びにくいでしょ」
突然言われた言葉に、私は首を傾げる。
すると不知火さんは私を見て、優しく笑った。
「明日香で良いよ。……葉月」
「しら……明日香!」
私が名前を呼ぶと、明日香は笑顔で頷く。
それから鼠に向き直り、両手の拳と拳をぶつけ合った。
「さぁ、掛かって来い!」
「ヂュウウウウウウウッ!」
明日香の挑発に巨大鼠は怒気の籠った鳴き声を発する。
そして強く踏ん張り、明日香に向かって突進した。
明日香はその動きを見切り、鼠の攻撃を躱して拳を打ち込もうとする。
しかし、鼠はそれを見越して、尻尾を鞭のようにしならせて攻撃をした。
「甘い!」
だが、明日香はその動きも見切って躱しながら、巨大鼠の懐に潜り込む。
そして右拳を、巨大鼠の腹にぶち込む。
「ヂュッ!」
短い鳴き声と共に、巨大鼠の体は吹き飛んだ。
明日香はそれに強く踏ん張り、腕を引く。
すると明日香の腕に炎が纏わりつく。
……え、何? 必殺技?
「でりゃあああ!」
突然の炎に私が戸惑っている間に、明日香は叫び、拳を突き出した。
すると炎が巨大鼠の体を焼き、灰と化していく。
明日香の炎が巨大鼠を焼き切ると同時に、彼女は膝をつき、その場に両手をついた。
なんで勝ったのに敗者のポーズ的なのやってんの?
「明日香!?」
「ご、ごめん……この、技みたいなのやると……疲れる、みたい……」
明日香はそう言うと、変身を解いた。
顔色は悪く、汗だくで、息がかなり切れている。
彼女はその場に座り込むと、大きく深呼吸をして、私を見て力なく笑った。
「……ちょっと休憩してから、帰ろうか」
私はそう呟いてから、明日香の隣に腰かけた。
今度は、距離は取らなかった。
「……葉月」
そんな私を見て、明日香はどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
私はそれになんだか気恥ずかしくなって、顔を背けてしまう。
「……わ、私がさっき大変だった時、横になったら、結構楽になったから……それに、今日は助けてもらったし……」
目を逸らしたまま、私はそう言ってみる。
それから自分の膝をポンポンと軽く叩いてみると、明日香がクスッと笑ったのが分かった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言って、明日香は私の膝に頭を置いた。
自分からやったことだが、なんだかすごく恥ずかしい。
彼女の顔が見れなくて、私はひたすら斜め上を見続けた。
ていうか、本当によく彼女はさっき私に同じこと出来たな。
「……今日はありがとう」
その時、明日香が突然そう言って来た。
咄嗟に明日香に視線を落とすと、彼女は私を見て微笑んだ。
「ありがとう……って、私何もしてない」
「まぁ、確かに葉月は何もしてないね」
「……」
改めて真っ直ぐ言われると、途端に罪悪感が溢れ出てくる。
まぁ事実だけどさぁ……。
私が落胆している間に、明日香は「でも」と言って私の顔に手を伸ばし、その手を私の頬に添えた。
「あの時……鼠みたいな化け物に頭を食いちぎられそうになった時、葉月に言われたことを思い出したんだ。僕は帰って、練習しないといけないって。……日本に帰って、ソフトボールをするんだって」
そう言って私の頬を撫でる。
彼女は続けた。
「それにね、僕がここで死んだら、葉月が戦わないといけない。……葉月は僕が守らないといけないって考えたら、力が湧いて来て。僕一人だったら、負けてたよ。ありがとう」
「……いや、そもそも私がいなかったら、あんなピンチにならなかったし」
私がついそう否定すると、明日香は「んー?」と言って不思議そうな顔をした。
それからニカッと笑った。
「細かいことはどうでもいいや!」
その言葉に、私はため息をついた。
……しかし、私のせいで彼女がピンチになったのは事実。
やっぱり私は、足手まといになるんだ。
でも、変身する勇気は無い。
意気地なし……やはり、彼女達と一緒にいる資格なんて無い。
そう思っていた時、突然頬を抓まれた。
「あふは?」
「なんか変な顔してる。……よく分かんないけど、少なくとも、僕は葉月のこと足手まといとか思ってないよ」
「へ、へほ……」
「僕は葉月と一緒にいたい。……それだけじゃダメかな?」
そう言って表情を緩め、私の頬を抓む力を弱める。
一緒にいたいだけ……か。
一緒にいても良いのかじゃなくて……私の意志……。
私は……。
「……うん。私も、明日香や皆と一緒にいたい」
「ん。良い顔」
明日香はそう言って微笑むと、私の頬を軽くペシペシと叩いた。
今までグダグダと考えていたのが、なんだかあほらしくなった。
彼女の単純さがどこか温かくて、私は自分の胸が熱くなるのが分かった。




