八十六話/覚醒
「……始まった、かえ」
「――そのようですね」
ユエラとテオ。
二人は迷宮街を見晴らせる郊外――〈ヴェルトの丘〉にいた。
この場所こそ、〈賢者〉クレラントが指定した決戦の地。
一方でテオの相手――リグの所在は定かでなく、結局ユエラに付いてきたのだが。
自邸の地下にはアリアンナを置いてきた。家の周りには結界を敷設しており、下手に出歩くよりは何倍も安全である。
彼女の父親にも誘いをかけてみたが、彼は首を縦に振らなかった――「店を空けるわけにはいかんからな」と。
ユエラは迷宮街の上空――郊外から見てもはっきりと分かるほど巨大な竜に目をみはる。
確かにそれは強大で、凶悪だ。全人類の脅威といっても差し支えない。手が付けられない災厄と見做され、人々が恐れるに余りある。
「あれが……魔王、なのでしょうか?」
「おそらくは、な」
「……アルフィーナさんはあれを討伐すると豪語していましたが。正直なところ、とても人間が敵う相手とは思えません」
「仕留めてもらわねば困るのだがのう。……家が灰になってしまうわえ」
「行きつけの店が燃えてしまうかもしれません」
「その辺りは最大限の注意を払う、と言うておったがな」
二人は何気ない言葉をかわす。それは決戦直前とは思えないほど気が抜けている。
「しかし、なんというか」
「どうかなさいましたか?」
「……魔王というには、ちと、あまりに――」
と、ユエラが言いかけたその時。
ひゅんと空を切る音がして、彼は上空から姿を表した。
「あまりに知性がない、とでも言うつもりかい?」
〈賢者〉クレラント。
白衣の裾を風になびかせ、少年の姿をした怪物はゆっくりと地に降り立つ。
「あれではただの怪物ではあろう。王と呼べるような威厳も風格も何もありゃあせん。――――でかいけだものと何が違うというのかえ?」
「獣は君だろう、ユエラ。――あれは彼女の晒すべからざる本性とでも言うべき姿だからねえ。人間だって一皮剥けば獣だろう? それと同じことさ」
ユエラはふん、と鼻を鳴らしてクレラントの言葉を一蹴する。
瞬間、ひゅん、と何かが風を切った。
「ユエラ様――前方失礼致します」
テオは流れるように得物を抜いて弾き返す。
地面に叩き落されたそれは、どこからか投げ放たれた短剣だった。
さらに連続して二本の刃が空を駆る。
今度の狙いはユエラにあらず。
テオを正確無比に狙う刃――彼女は淡々と捌いていく。
「テオ」
「はい」
「存分にやってくるが良い」
「――――是非もなく」
ユエラの言葉に応じ、テオはその場から跳ねるように飛ぶ。
それと同時、物陰に潜む何者かもテオを追うように飛び去った。
その正体が誰かなど、もはや明らかにするまでもない。
ユエラ、そしてクレラント。
彼ら二人が相対した瞬間、先に口を開いたのは少年の姿のほうだった。
「待っていたよ、この時を。待ち望んでいたよ、テウメシア。どうだい、君は?」
「さっさと終わらせて帰りたいな。家が燃えておらぬか心配で仕方がない」
「ハハッ、つれないねぇ。でもさ、心配することはないよ――だって、もう君はどこかに帰る必要なんてないんだからね」
「そいつはおぬしの決めることではない」
ユエラはぶっきらぼうに言い捨てる。
クレラントはいとも愉しげに笑みを浮かべる。口端を三日月型に歪める笑み。
「なあ、テウメシア。人払いしてもらって安心しただろう? 君のかわいい従者に醜い獣の正体をさらけ出さずに済んだろう? そんな形をして誤魔化してるけどさ、君の本性は――雌狐そのものの獣だろう、なあ?」
「おぬしとは与太話もする気が起きん。さっさと片付けるぞ」
「ハハッ、それはそれは、嫌われたもんだねえ。でも、その姿のまま僕を片付けるってのは――ちょーっと無理があると思うぜ?」
ふん、とユエラは再び鼻を鳴らす。
確かにその通りだ。ユエラが今の姿のまま戦えば、おそらくは以前の二の舞いだろう。
だが、この場所ならもはや人目をはばかることもない。
「……そんなにお望みならば、やってやろうではないかえ。とびっきりにくそったれな人間め」
「勘違いしないでくれよ、テウメシア。僕がくそったれなんじゃあない、人間ってもんがくそったれなのさ」
「つまらぬごたくでおぬしのくそったれさを誤魔化すでないよ。――――その血肉を元の土くれに還してやるわえ」
と、ユエラが涼しげな眼差しをクレラントに向けた刹那。
ユエラの臀部からしっぽが"ぶわり"と伸びる――二本のみならず幾重にも。
総てで九本にも及ぶ灰毛のしっぽ。それはやがて全身へと広がり、ユエラの身体を覆い尽くしていく。ちいさかったユエラの身体は二回りも大きく見え、やがてその肉体は明らかに肥大化し始める。
否、それは肥大化にあらず。
これこそが千年を生きる妖狐――ユエラ・テウメッサの本来の姿であった。
「クッ、ハハッ! 懐かしいねえ、テウメシアッ! 本当に、本当に――その姿の君を、本当にぶち殺してやりたいと思っていたんだよッ!!」
丘上に風が吹き荒ぶ。クレラントは白衣をなびかせ、变化するユエラを前にして哄笑する。
――その身の丈はおよそ200suにも及ぼうか。
白色に近い灰色が描く輪郭はまさに狐そのもの。巨躯から伸びるしっぽは数えて九本。瞳だけは海のように深い青。
彼女はクレラントを睥睨し、しっぽの先をぴんと空に向けて逆立てた。
「――――やってみよ。できるものならば」
発する声もまた、明らかに幼い少女のそれではない。
熟れた妙齢の女が発するかすれ声とでも言おうか。重ねた年月を思わせる声音が喉を突き、人の言葉として発せられる。
「ああやってやるさ。やってやるとも」
クレラントの肉体がふわりと地面から浮かび上がる。
ユエラはにわかに身を低く沈め、逆立てたしっぽをあらわにする。
対するクレラントは空を滑るように疾駆し、
「殺してやる。僕が殺してやるよ。君も死にたかったんだろう、なぁ、テウメシ――――あがァッ!?」
「逝ね」
ユエラのしっぽに叩き落される。
瞬間、そこへ別のしっぽが矢継ぎ早に殺到した。
◆
「――――挨拶も無し、ですか」
黒衣の外套に身を包んだ敵手――リグからの応えはない。
テオはユエラの邪魔にならない場所まで誘導しつつ、飛来する短剣を弾き落とす。
森林にまで入りこむつもりはない。
テオは森の口で足を止め、構えを取るでもなく彼女を迎え撃つ。
一瞬後、リグは音もなく仕掛けた。
硬い土を踏みつけ、流れるような踏み込みとともに振られる刃。
テオはリグに合わせてそれを受け、流れに任せて外側へ流す。
リグの長身から繰り出される迅速な連撃。
テオは小回りを利かせた最小の振りでそれを的確に捌き、弾く。甲高い金属音が幾重にも響き、それが絶え間なく続く。
言葉もない。声もない。吐く息の音すら聞こえない。
テオはその事実をして理解する。
リグはテオを、殺傷に値する対等な敵と認識したのだと。
かつての弟子でもなければ、雑にあしらう木っ端でもなく、あるいは情報を搾り取る対象でもない。
殺傷することのみを目標として狙う、純然たる、敵。
彼女に刻んだ傷ゆえに、テオは彼女と対等な敵に成り得たのだ。
一対の銀の刃が激突する。
街の惨状にも関わらず、今は眼前に迫る死しか見えない。
テオは振り抜かれる一閃の鋭さに合わせ、意識的に魔素を偏らせる。その業前は周辺の魔素の力をまとうに十分なもの。
自然と引き寄せた魔素に加え、感応力をもって意図的に引き寄せた魔素がテオを後押しする。
そうして放たれた一撃は、テオ一人だけでもリグと拮抗し得る代物だった。
――大方、傷が完全には癒えていないのでしょうが。
テオはそれでも全く構わなかった。むしろ不調ならば好都合とすら言おう。
もっとも、それでようやく五分五分というのでは世話がない。それも、ふとした拍子に崩れかねない均衡なのだ。
静寂すら感じられる交錯。
刃が重なり、弾かれ、捌き合う。
火花が散り、骨肉が軋み、数知れぬ刃風が吹き抜ける。
「――腕を、上げたか」
その時。
ぽつり、とリグがつぶやきを漏らす。
「あなたを殺すためにはそれが必要でした」
「予想以上だった。――あの短期間で、これほどとは」
「あなたに褒められたいとは思いません」
「褒める?」
ひゅんっ。
声とともに短剣が突き出される。刃はテオの頬を掠め、一筋の傷を刻んでいた。
テオはそれをすんでのところで躱していた――少しでも回避動作が遅れれば終わっていただろう。
「褒めたのではない――惜しい、というだけだ」
「……そうですか」
「その才、私のもとに置いておきたいものだが――ままならないものだ」
ひゅん、とリグの刃が鮮やかな円を描く。
あまりにも鋭い一撃。
テオはそれを峰で受け、押し切られるところを危うく弾く。
「おまえは私の敵だ」
「端からそうでしょう」
「いいや。――おまえはようよう私の敵足りえる」
やはり、というわけでもないが。
先ほどのテオの直感は正しかったらしい。
「敵は殺さねばならない」
「同感です」
端的な言葉の応酬。
答えとともに死をもたらす刃が返ってくる。
リグに合わせて切り返しているにも関わらず、リグの剣捌きは加速度的に重さを増していく。
速さ、鋭さはさして変わらない。
刃を受けるたびに感じる重さ、威力、圧力。それが明らかに増し続けているのである。
――私が消耗しているだけ、にしては……。
テオが感応力を駆使するのに合わせ、リグも自らの力を調節しているとでも言うのか。
ありえない、などとはとても言えない。でなければ――均衡が緩やかに崩されていることに説明がつかないではないか。
「――――くッ」
追いすがる。
追いつかない。
刃の応酬がリグに一手遅れる。すんでのところで短剣を受け止め捌いた瞬間、歩くような何気なさで蹴りが飛ぶ。
「ッ、は……!」
テオは咄嗟に飛び退き、前方に短剣を投射。
間合いを取りつつ新たに短剣を抜き放ち、態勢を立て直そうとする。
しかしリグはあっさり短剣を叩き落とし、そのまま流れるように踏み込む。
離した分の距離を埋め尽くされる――瞬く間に間合いを詰められる。
「何度やっても同じことだ」
ひゅん、と突き出される短剣。
切っ先がテオの喉仏を狙い撃つ。
テオは足捌きのみで上体を反らし、剣先をすれすれのところで躱す。
「同じでは、ありませんでしたね……ッ!」
以前のままならば首を獲られていただろう。
しかしより多くの魔素を得られる今、テオの反応速度は明らかに向上しているのだ。
テオは回避と同時に身をひねりながら切り返す――円を描く軌跡で短剣を振り放つ。
「――――ハ」
リグはそれを真っ向から受け止め、刃の根と根を噛み合わせた。
お互いに刃を突きつけて鬩ぎ合う絶死の間合い――鍔迫り合い。
「ッ、は……!」
この状況下で退くことは許されない。
さすれば不可避の死あるのみ。
噛み合わせた刃を挟んで二者の視線が絡み合う――焦燥が滲むテオのそれと、人形のように透徹としたリグのそれ。
退かずとも、テオが押し切ることは困難を極める。
感応力を向上させ、それを最大限に活用してもなおリグの域には届かないのだ。
「――――ッ!」
テオは全意識をリグに傾ける。感応力の限りを尽くし、知覚し得る総ての魔素を注ぎ込む。
ガキン、と刃金が擦れ合う音色が響く。
瞬間――お互いの刃を押しとどめる拮抗状態が崩れ去った。
「くッ、ぅ……!」
テオの刃をすり抜けるようにして走る短剣。
狙いは先刻と同じ首筋。
テオはリグと軸をずらすように、ぎりぎりのところで身を躱し――
「獲った」
瞬間。
突き刺す一閃が突如転じ、テオの肩から胴にかけてを切り下ろす。
最小限の回避行動ではそれを避けきれず、リグの刃はテオの肌身に食い込んだ。
「――――ッ、ぐ、う……ッ!!」
テオは激痛を噛み殺し、それでも足を止めなかった。
身を刻まれながらもリグの間合いから逃れる。致命傷には至らない。
肌身にぶわっと滲む汗。
痛みと流血の不快感がテオを苛む。その上で、傷の悪影響は微塵も動作に表さない。
少しでも痛みによる隙が生じれば、それは即座に死に直結する。
リグは間合いを計りながら血を払うように刃を振り、言う。
「もはや終わりだ。諦めろ」
「なぜです?」
「分からぬか」
「ええわかりません。分かってやるつもりなどありません」
口を動かしながらも二人はじりじりと動き続ける。
胸元から血雫がぽたぽたと流れ落ちる。土くれを赤く濡らしていく。
「その傷で何ができる。先程以上の動きはもはやできまい」
「だからなんです」
「無傷のおまえが勝てない私に、手負いのおまえがどうして勝てる?」
「だから、なんだというのです?」
「――――あの雌狐がそれほど大事か」
リグは表情も変えないままぽつりと言う。
それを聞いたテオもまた、表情一つ変えなかった。
「それとこれとは別の話です」
「そうだ。気持ち一つで勝てるほど戦いは甘くはない」
「確かに、私だけではあなたには勝てないようです」
「二人がかりで引き分けが関の山、というわけだ」
「あいにく、そのようですね」
テオはいっそ素直に頷く。
認めざるをえない。
自分一人では、どう足掻いてもリグには敵わない、と。
だから、テオは――その"感覚"を思い出す。
二日間ずっと知覚し続け、存在するのが当たり前のように感じていた不在の器官。
「ならば、大人しく――」
「ええ。大人しく――二人で挑もうかと思います」
「……なに?」
その時、リグの表情が初めて歪む。
驚愕というよりは、むしろ憐れみに近い感情によって。
「いよいよ狂を発したか」
「確信しているだけです。一人ではない、と」
「それは狂信だ――――結局おまえは、縋る縁を乗り換えただけに過ぎなかったというわけだ」
憐憫すら浮かばせ、リグは一歩踏み込む。
流れるような鮮やかさで突き出される短剣。
それはテオの首をまともに貫き、引き裂いた――はずだった。
「――ッ!?」
リグは違和感にうろたえる。
確かに刃はテオの首筋へ突き立っているように見える――にも関わらず、手の中にはその感触が全く無かったのだ。
瞬間。
ひゅん、と鋭く風を切る音がした。
「そこです」
「――――なッ」
誰もいない場所から刃が飛んでくる――否。
リグが刃を突き立てていた"テオの虚像"が掻き消え、そのすぐ隣にテオの姿が出現していた。
リグは咄嗟に身をかわし、テオの間合いから逃れる。
自らテオとの距離を取る。
「――――なにを、した」
「あいにく今の私では、感覚にまでは干渉しかねるようですね」
「なにをしたと言っているッ!!」
「先ほど申し上げたでしょう」
テオは痛みに堪えかねて息を吐く。
彼女自身、なぜそれができたのかはわかっていない。
ただ、できるという確信だけがあった。
「私だけではあなたに勝てないようです、リグ。ですから――――ユエラ様の力をお借りすることに致しました」
そう呟くと同時、テオの姿が二つ重なる。
短剣も、影も、テオの全てが二重に重なって見える。
それはリグも一度は体験した感覚――幻覚、であった。
「――――、」
リグはテオを一瞥して言葉を失う。
彼女の姿にはある一点、先ほどまでとは決定的な異変が存在する。
少女のエプロンスカートを押し上げるように垂れた灰色の毛並み。
幻覚の産物などでは断じて無い――テオの臀部から、本物の狐のしっぽがてろんと伸びていた。




