表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お狐さま、働かない。  作者: きー子
千年因果録
84/94

八十四話/最後の一日(後)

「やあやあ。無事に攻略が済んだようだね」

「――貴様か」


 イブリス教団普遍主義派拠点。

 明日の決戦を控え、リグは暗闇の中で静かに身を休めていた。


「負傷した時はどうなるかと思ったけどね。ちゃんとやることはやってくれたってわけだ」

「多少の事故は想定して前倒しで進んでいただけだ。どうということも無い」

「それは実に重畳。――それで、本当に君は行かないのかい?」


 暗闇の教官室を訪うはクレラント。

 総主教の姿で信徒たちへの演説を済ませ、そのままこの場所にやってきたのだ。

 明日の決戦に備えるために、と。


「そのつもりだ。私が向かう必要はもはや無い」

「本当に? また彼女らの待ち伏せを受けるとも知れないよ」

「――私には及ばないが、十分に精鋭と呼べる僧兵を解放部隊に組み込んだ。指揮は彼らと司祭長に委ねてある。多少の遅れが予想されるが、敵を押さえながら奥へ進むことは十分に可能」


 それに、とリグは言葉を続ける。


「彼女らの一人は、私が潰す。問題はない。仮に彼らが失敗しようとも、私が改めて最深層へ向かおう。我が愚弟を仕留めた後に」

「そうかい。そこまで言うのなら異論はないさ。僕は止めないよ」

「たが、ひとつ、気にかかったことはある」

「――――なんだい?」


 クレラントはしなやかな眉をぴくりとひくつかせる。

 リグは端的に言う。


「先日は彼女らが迷宮に潜った様子は見られなかった。動向を確認することもできなかった。――最も死に物狂いになって然るべきにも関わらずだ」

「……へぇ、そいつは奇妙だね。君としてはどういうつもりだと思う?」

「諦めた、という印象を受ける。実際、彼女らの攻略速度が私達に追いつくことはなかった。そして、今日明日の探索で追いつくことも現実的な方策とは言えない」

「なるほどねぇ。つまり、次善の策に移行したとも考えられるわけだ。まさか、今日明日で街中の人間を逃がすわけでもないだろうしね――」


 クレラントは顎に手を当て思索する。

 公教会が避難勧告のお触れでも出せば、瞬く間に迷宮街は大混乱に陥るだろう。その情報はイブリス教団にも間違いなく届くはずである。


 つまり、とクレラントは結論する。


「街周辺の警戒線を厳重にするとしよう。下手に逃がすのは上手くないからね。それに、ちょーっと想定外な要素も考えられるんだよ」

「――想定外?」


 今度はリグが眉をひそめる番だった。

 クレラントの念頭にある想定外の存在とは――言わずもがな。


「滅多なことはまさか無いとは思うんだけどね。……いや、わからないな。念のため、置き土産でも残していってないか確かめておこうか」

「何の話をしている」

「あぁ、君が気にする必要はないよ。君は君がやるべきことをやってくれればそれで良い。魔術に関しては僕がやるべきところだからね。少なくとも、計画に差し支えはないはずさ」


 そう――クレラントにとって、支障はない。

 彼にとっては、ユエラさえ仕留められれば……魔王イブリスがどうなろうが、街がどうなろうが、ほとんどのことはどうでも良いのだから。

 極端なことを言うなれば――彼にテウメシア討伐を要請した聖王家がどうなろうとも、構いはしないだろう。


「話はそれだけか」

「いいや、肝心なことがまだあるよ。一応、君にも伝えておこうかと思ってね。サニエルくんにも伝えておいたんだけど、君が予備になるなら今のうちに言っておくに越したことはない」

「何のことか」


 リグが静かに問いただすのに、クレラントは飄々と応じた。


「――魔王イブリスを蘇らせる鍵について、さ」


 ◆


「……いよいよ、ですか」

「枢機卿猊下。本当によろしかったので?」


 公教会ティノーブル支部長室――


 キリエは物憂げに夕暮れの空へ目を向ける。

 他に部屋の中にいるのはただ一人。キリエ枢機卿の傍仕え、祓魔師アルマ・トールのみ。


「無論です。私から可能であったのはほんの申し訳程度の支援ばかりでした。いかなる結果に至ろうと、もはや後悔は――――いえ」


 キリエはそこまで言ったところで頭を振る。


「後悔は、するでしょうね。……公教会として正式にアルフィーナ殿へ救援を要請するべきか、等。何度考えたことかも知れません」

「……ですが、それは」

「ええ。事実上、公教会単独では事態の収拾が不可能であることを意味しましょう」


 キリエ枢機卿が手配していた所はただ一点。

〈封印の迷宮〉最深層を支配下に置き、長期的に管理するための方策だった。


「――そう公言できたならば、あるいは楽だったかもしれませんね」

「……枢機卿猊下」


 キリエは各方面との調整に奔走した。迷宮街に滞在する商家の私兵部隊からも兵力を抽出し、あるいは契約探索者の協力を取り付ける。

 そういった用意を整えるためには、公教会ティノーブル支部という看板が必要不可欠だった。

 それゆえに、公教会への信頼を断じて貶めるわけにはいかなかったのだ。


「結果は……裏目に出た、ということでしょうか。上手くは行かないものですね。彼女らを信じていたといえば聞こえは良いですが、その実態はといえば、ほとんど丸投げしていたようなもの」

「……まだ、失敗と決まったわけでは無いのでは? 今からでも、最深部への侵攻を阻止することは可能かもしれません」


 アルマはキリエの背中を見つめながら提案する。

 だが、キリエは振り返りもせずに頭を振る。


「先ほどの報せを聞きましたでしょう」

「……? はい」


 キリエは先ほど繰り広げられた一幕を指して言う。

 そう、ほんの先刻――とある一人の聖堂騎士団員が、ひそかにキリエへ知らせたのだ。

 聖堂騎士団員の総員を駆り出しての避難誘導想定訓練。一体何が起こるというのか、という危惧である。


 それは聖騎士長レイリィを差し置いての密告などではない。

 なぜその意図を知らせないのか。言うなれば義憤、正義感に基づく類の陳情であった。


 キリエは事実を告げずに言葉を濁し、ただの一言だけを伝えた。

「分かる時が、必ず近いうちに訪れるでしょう。……心して待ちなさい」と。


 聖騎士長レイリィにしても、騎士団員が何かしら勘付くのは覚悟の上だろう。

 それでもキリエは彼女への感謝を禁じ得ない。このような状況に至ってなお、キリエ枢機卿――ひいては公教会の意向を汲んでくれたのだから。


 言うなればそれは、聖騎士長の苦肉の策にほかならない。


「実際の攻略を行っている当人が、備えざるを得ない状況なのです。……後方の我々こそは、彼女らの事実認識を率直に見るべきでしょう」

「……もはや止めようもないということなのですか。……我々は、座して滅びを待つか――もしくは、存在すらも定かではない救済を祈る他にはないと?」

「無論、そのようなつもりはありません」


 キリエの現状認識は正確ではない。まさか、あえて魔王を蘇らせようとしているなど思いもよらないだろう。この件にはすでにアルフィーナも一枚噛んでいる、ということも知らないのだ。


 しかし、あながち間違いとも言えない。

 魔王イブリスは近日中に復活するであろう、という事実をはっきりと認識しているのだから。


 ――そして彼女は、緊急事態への対策を速やかに実行できる立場にあった。


「……どういうことですか。キリエ枢機卿」

「聖堂騎士団員のみならず、頼れる兵は全て動かします。総員を緊急警戒として街中に配置し、緊急時は避難誘導を速やかに実行させるのです。そして我々は速やかにこの街を破棄し、都市機能を外部へ退避させなければなりません。各地の支援受け入れ、避難民の生活保障――我々が引き続きなすべきことは決して少なくありませんから」


 キリエは日が暮れゆく景色を眺める。

 事態を把握できるのがもう少し早ければ良かったのだろうが――

 過ぎた時間を悔やんでも仕方がない。


 キリエはこつんと靴音を立て、アルマのほうを振り返って言う。


「今すぐにでも動き始めます。つきましては、アルマ。あなたには言っておくべきことがあります」

「……なんです?」

「このような事態においてもあなたが私に最後まで付き合う必要はありません。ですから――」

「嫌です」

「――――……え?」


 ずるり、とキリエのかけていた眼鏡がずれ下がる。

 アルマは構わずに言葉を続ける。


「俺に先に避難しろというつもりでしょう。俺のような下っ端にそこまでの責任は負わせるわけにはいかない、と」

「……序列で判断するわけではありません。ですが、これは命を左右する危機的な状況ですから――」

「だからでしょう!」


 アルマは支部長室の机に手を突いて言いつのる。

 ずるずる、と鼻の下までキリエの眼鏡がずれ下がる。彼女はあわてて眼鏡のつるを指先で押し上げる。


「だからこそあなたを補助するものが必要でしょう! あの時もそうだ! あなたは一人で全てを抱えこんで、あなただけが痛い目を見たではありませんか!!」

「……あ、あの時とは話が異なりましょう。現に私はこうして生きておりますし、ですが、今度ばかりは……」


 キリエはアルマの剣幕に圧倒されつつも負けじと言葉を返す。

 あの時とは言わずもがな、公教会事変のことを指しているのだろう。あの時の拷問で、キリエは一週間以上の休養を余儀なくされるほどの衰弱状態に追いやられた。


 そしてアルマには負い目があった。あの時、キリエの傍から自分が離れなければ――あるいは、と。


「そうは参りません。今度ばかりはいくらあなたが命じられようと、枢機卿猊下のお傍で最期まで勤めさせて頂きたく存じます。強制するべきでないとするならば、退勤を強制することも人の自由意志に反しましょう」

「……アルマ補佐官。あの時、私の傍から離れなければ、という思いがあるかもしれませんが、それは全くの逆です。あなたが私の傍にいなかったからこそ、あなたは無事であるのです。それに度を越した長時間勤務は人倫に反するわけで――」

「キリエ枢機卿。あなただけで都市機能の退避を完了できるわけが無いでしょう。どれだけ作業量を削り落とそうと、それを捌き切れるつもりですか?」

「……ぅ」


 キリエはかすかに震える手で、ゆっくりと眼鏡を押し上げる。

 アルマは真っ直ぐ、目をそらさずにキリエを見つめている。あまりにもまっすぐな崇敬が込められた視線。


 ……はぁ、とキリエは大きなため息を吐いた。


「…………分かりました。やむを得ませんが、許可しま――」

「ありがとうございます!!」

「お、落ち着きなさい。良いですか。あなたが望む限りはいつ避難に移られても結構ですから、その時にはいつでも――」

「問題ありません!! この一身、枢機卿猊下附きの補佐官として冥府の畔までお供させて頂きます!!」


 キリエを目の前に、素早く完璧な敬礼の姿勢を取るアルマ。

 キリエは再び大きく、深いため息を吐き――――「本当に、仕方のない方ですね」と、神妙に呟いた。


 ◆


「明日、ですね」

「うむ」

「この後は……いかがなされますか?」

「近ごろは根を詰めておったであろう? 今夜のところはゆっくり身を休ませよ。夜更かしなどするではないぞ」


 ユエラとテオの声が反響する。かぽーん、と湯桶を置いた音が甲高く響く。

 ユエラ邸浴室――二人は一日の終わり、揃って浴槽に身を委ねていた。


「ユエラ様」

「……どうかしたかえ?」

「明日には、一体どうなるのでしょう」

「さてのう」

「ユエラ様にも分かられませんか」

「分からぬことのほうが多かろうよ。今まではどうにかなっておったがな――」


 そう。今までのことは難なく対処することができた。

 ユエラの掌の内であった、といっても過言ではないだろう。


 だが、今度ばかりは違う。

 事態はほとんどユエラの制御の外側へ行ってしまった。あまりに多くの思惑が渦巻いており、それらを完全に把握し切ることはユエラにも難しかった。


「今度ばかりはどうにもならぬな。……こんなに早う、私の手を離れてしまうとはのう」

「上手くはいかないものですね」

「全くだ」

「ユエラ様の望みは……変わっておられぬのでしょう?」

「あぁ。……たぶん、これからも変わらぬであろうさ」


 平穏無事な、怠惰で愉快な日常こそ、ユエラ・テウメッサが望むもの。


 これから、があるとすればだが。

 いや、とユエラは頭を振る。これから、が無くなることなど考えることもできない。

 ユエラは死ねない。生物としての死を忘れてしまった。


「ユエラ様」

「なんだ」

「死にたい、と思われることはありますか」

「……無いではないかのぅ」

「無い、とは仰せられぬのですか」

「おまえが生きておるうちは死ねんよ。……まぁ、世の中何があるとも知れんがのぅ」


 本来、死とは唐突で理不尽なものだ。

 極端な話、風呂にのんびり浸かりすぎたせいで心肺が停止するということもあり得よう。


「そういうものですか」

「そういうものよ」

「ならば、何としてでも私は生き延びねばならぬということですか」

「うむ。頼むぞ?」

「心得ました。是非もなく」


 結局のところ、不意にテオが〈魔術の器〉を覚醒される……といった幸運は起こらなかった。

 テオの強い要望に則り、ユエラの〈魔術の器〉を示す器官――しっぽの感覚を維持し続けてはいるが。


「テオ」

「なんでしょう」

「湯の中のしっぽをやたら撫でるでない」

「申し訳ありません。あまりに心地がよく……」


 肩まですっぽり浸かったままの二人――テオが密かに伸ばした手からユエラはそそくさと身を逃す。

 テオはユエラを追わず、湯面をじぃっと凝視する。


「ユエラ様」

「……うむ?」

「ずっと思っていたことがあるのですが」

「どこを見て言うておる」

「お湯に浮いてくる抜け毛、もったいないと常々思っていたんです」

「食うたりするでないぞ」

「…………いえ。食べはしません」

「なんじゃ今の間は」


 テオは露骨に目をそらす。

 ユエラはじっと彼女を見つめ返す。


「そういえば私も思うておったのだが」

「なんでしょう」

「おまえ、成長期であるのにあんまり大きくならぬなぁ」

「人はそうすぐ育つものではありません」

「左様かえ? もう三ヶ月も経つであろう?」

「ユエラ様の基準で言うと一年もあれば人間は大人になるでしょう」

「人をけだものみたいに言いおって……」


 実際、けだものなのだが。

 ユエラのいかにも人間らしい振る舞いは、けだものの本性を隠し通すための努力の産物とも言えた。


「テオ、おまえは大きくなれよ」

「ユエラ様は、変わらないのですね」

「変われぬのよ、これが。魂の鋳型みたいなものよな。まぁ、幻術でいくらでも誤魔化しは効くがのぅ」

「わかりました。ユエラ様の分も私が大きくなります」

「うむ。片手で私を抱えられるくらいになるとなお良いぞ」

「それはいささか敬意不足の振る舞いでは……?」

「楽は敬意に勝るぞ? ――さすがに歩くくらいは自分でやるがのぅ」


 ユエラはくつくつと笑い、肩まで深く湯に沈み――そして、不意にざぱぁと湯面から飛び出した


「どうかなさいましたか」

「熱い」

「浸かりっぱなしでしたからね……」

「つい浸かりすぎたわえ……」

「上がりましょう」

「うむ」

「では」


 ユエラは全身を丹念に拭いたあと、テオとともに浴室を出る。

 湯だり火照った身体に夜気の涼しさが心地よい。


 手早く着替えを済ませたあと、湯冷めしないうちにユエラはテオとともに寝床に入る。

 あまりにいつも通りの夜。あまりにいつも通りの日常。


 ユエラはテオの身体を抱きまくら代わりに抱きすくめる。

 細く、ちいさな身体。ユエラ自身よりは大きくても、彼女が華奢な少女であることに変わりはない。

 ユエラと同じくらい火照った暖かな体温。少しでも温もりを逃さないように、ユエラはそのちいさな身体を擦り寄せる。


「テオ」

「はい」

「……これ、持っておれ」

「なんでしょう」


 ユエラはテオの耳元でそっと囁く。

 同時に、彼女の手の中へふわふわとしたものを忍ばせる。


「……やわらかいですね」

「うむ」

「ふわふわしています」

「悪くはないかえ?」

「いつまでも触っていたい感じです」

「……そ、そこまでかの」

「ユエラ様のしっぽに死ぬほど似ているような気がします」

「……私の冬毛を編んだやつであるからのう。戦場のお守りというやつよ」

「ありがとうございます。国宝にします」

「せめて家宝に留めておけ」


 家宝でも十分な気恥ずかしさであったが。

 テオは力強く断じ、しっぽのお守りを懐にしまいこむ。


「ユエラ様」

「……うむ?」

「――おやすみなさいませ」

「うむ。……おやすみよ」


 テオの手がユエラのちいさな頭を、薄い背中をそっと撫でる。

 ユエラは静かに目を閉じ、そして、あっという間に眠りに就いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ