六十七話/頂上決戦・前哨戦(前)
――ずいぶん遅れを取ってしもうたな。
ユエラは内心の焦りをかき消すように不敵に笑み、改めてクレラントを一瞥する。
彼の姿に千年前の面影は一切ない。その振る舞いにも、言葉遣いも全く似通ったところはない。同じものといえば、それは彼から感じられる魔力だけ。
彼の視線は、意識はもはや完全にユエラに向けられていた。
代わって、スヴェンたちへの殺意は見事に鳴りを潜めている。そんなものは初めから無かったように。意に介する必要もないと言わんばかりに。
「ハハハ、いきなりやってくれたねぇテウメシア。どうやったんだい今のは? 僕の防護を抜けるとは思えないんだけど?」
「魔力を帯びさせて殴っただけだ。それくらい分かろうが」
「それだけ? それだけだってのかい? そいつはまた相変わらず馬鹿げた魔力量をしてるね。やっぱり、君なら僕の全力をぶつけても何の問題もなさそうだ――」
クレラントが話す間、ユエラはひそかにスヴェンへ幻覚を聞かせた。
自分がクレラントを表口まで引きつけること。二人はその間に裏口から避難すること。
スヴェンはクレラントの後ろでちいさく頷く。これで後顧の憂いはない。
強いて言うなら、屋敷への被害を少なく済ませたいところだったが。
「ふん。まずはおぬしの厄介な防護壁を剥がしてやらねばな」
そもそも、根本的なことを言うならば――ユエラは直接戦闘が苦手である。
長命な怪物としてはだが、かなり戦闘が苦手なほうである。
クレラントのような超人と相対すれば、彼女の幻魔術は用をなさない。
無数の凶器を幻視させようが、彼らはそもそも凶器を恐れないのだから。
「こちとら早く殺し合いがしたくてうずうずしてたんだ。今すぐ祝砲一発ぶちこんであげるよ――ハハハッ!」
瞬間。
クレラントが掌をかざすとともに、屋敷中の大気が轟と唸りを上げた。
ユエラがそれを耳にしたときにはすでに遅い――莫大な質量の風圧が叩きつけられ、ユエラの矮躯は凄まじい加速度で後方へ吹き飛ぶ。
「ッぐ、ぶっ!?」
身に帯びた魔力量で抵抗するも、威力を完全には打ち消せない。
常人が喰らえば内臓が全損する威力。大砲の直撃にも匹敵しよう一撃だった。
「が、ふっ……!」
壁に叩きつけられる最中、ユエラは前方に目を向ける。
やはりというべきか、クレラントは吹き飛ぶユエラと並走するように肉迫していた。
ユエラは壁に足をつけ、蹴る。莫大な魔力量を乗せた拳を弾き出し、クレラントを返り討ちにして撃ち落とす――また途轍もない轟音が響き渡る。
クレラントは勢いよく床に叩きつけられて跳ね回るが、彼自身には傷一つ無かった。
「――圧縮空気を全身にまとわせておるのか。厄介なやつよ」
「へぇ。やっぱり見抜くかい」
「……ずいぶんやり方が変わったようだのぅ?」
ユエラが記憶する限り、クレラントは様々な魔術を状況に合わせて行使する万能型の魔術師だった。
だが、今の彼は決してその限りではなさそうだ。
「僕にはこれが一番いいってわかったのさ。特に、君を殺すにはね」
クレラントはそう言いながら腕を一振りする。
瞬間、ユエラは途端に息苦しさを感知する。
嫌な予感がした。
――すまぬスヴェン。
ユエラは胸中で謝罪を述べ、壁を殴り壊して外に転がり出た。
街に被害を及ぼすのもあまりよろしくはないが、世話になっている相手に押し付けるよりはマシだった。
「おっと。つくづく勘が良いねえ、テウメシア?」
「――酸素中毒かえッ!?」
「ご明察」
クレラントはにやりと笑みを浮かべる。
人間に化けたユエラの感覚器官は苦しさを感じるが、それでも死には至らない。
例え人に化けようとも、彼女は根本的に人間たり得ない。
ユエラは恐れを禁じざるを得なかった。
その魔術はユエラを死に至らしめることはない――だが、その術をこれほど簡単に振るえるということは。
それすなわち、クレラントがこの世を地獄に変えるのも容易いということだ。
「おぬし、そんなもんを街中で使うつもりかえ!?」
「おいおい、テウメシア、他の人のことなんか気にしてるなよ。僕と君の再会なんだぜ、千年ぶりの。思いっ切りやってやろうじゃないかい、ねぇ。それとも――周りに被害を出さずに済ませられるとでも思ってたのかい?」
ち、とユエラは狭い路地に転がり出ながら舌打ちする。
確かに認識が甘かった。相手は魔王なるものを蘇らせという男なのだ。町の人間の命などを慮るはずもなかった。
クレラントは壁の穴から外にゆっくりと歩み出て、言った。
「ああ、そうか。だから君は人間のカタチなんかを保ってるってわけだ。そんなに人の目が気になるのかい? あんまり僕をがっかりさせないでほしいねぇ。本気で僕を殺しに来てくれよ。じゃないと、僕は止まらないぜ?」
「戯けがッ……!」
こうしてまともに相対して分かる。
狂ったのだろうとは思っていたが――クレラントは本気で狂っていた。
あまりに大真面目に、正気のままで狂を発していた。
彼はもはや人間ではない。人間社会の一員足り得ない。人間であろうともしていない。
クレラントがユエラを殺そうとすることに意味など無い。そこに目的はない。
テウメシアを殺すこと。あるいは殺されること。それそのものが目的化しているのだ。
クレラントとは、もはやそのような概念存在に近い。
「やむを得ぬな」
ユエラは自覚的に自らの鍵を外す。
瞬間――少女の臀部から伸びる二本のしっぽに寄りそうように、三本目のしっぽが現出した。
「ハハ、少しはやる気を出したのかい? でもさ、それくらいじゃあ僕に――は、」
クレラントは再び掌をかざし、ユエラに風圧の砲撃を放とうとする。
瞬間――――ユエラは彼の行動に干渉した。
――――幻魔術・泡沫夢幻――――
クレラントの掌が、魔術を狙った領域が、彼自身に向けられる。
彼は自らに大風圧の砲撃を叩き込み、凄まじい轟音を立てて勢いよく後方に吹き飛んだ。
「がはッ……!?」
ユエラが得意とするは人を惑わし、人の意志を掻き乱す力――幻魔術。
ユエラの〈魔術の器〉は神経系の干渉に特化している。しかも彼女の特性はそれだけではない――しっぽ一本ごとに〈魔術の器〉を一つ有しているのだ。
つまりユエラが二尾であるならば、二つの〈魔術の器〉を有している状態ということになる。
「はッ……ハハハッ! テウメシアぁッ! 君らしさが出てきたじゃないかい、ええッ!?」
「おぬしに私らしさなど語られたくは無いがなァッ!」
これまでのユエラは魔術を行使するにあたり、二種の力を使い分けていた。
一尾の異能――直接対象に接触し、対象の脳神経系に干渉する力。
二尾の異能――対象への接触無しで神経電流を撹乱する力。
だが、今クレラントに行使した力はどちらでもない。
三尾の異能――対象への接触無く、神経電流を操作する力であった。
これはつまるところ、対象の行為そのものを支配下に置く。相手が思ってもいないことをやらせられるのだ。
ユエラは意識的にこの力を隠匿していた――この能力は、人間社会での生活を営む上で、明らかに許容範囲を逸脱しているからだ。
「僕がその化けの皮を剥いでやるよ、テウメシアッ!! そんな力があるくせにさ、人間の真似事なんざやってたって虚しいだけだろうよォッ!!」
対するクレラントは――ユエラの人間離れした能力を、むしろ喜ばしげに迎えた。
まるで自らの同類を目にしたかのように。
「あいにくだが、やめてやるつもりなんぞ全くない。私は適当にだらだら過ごせればそれで十分でな」
「嘘をつきなよ。そんなわけがない」
「嘘ではあるまいよ。少なくともおぬしには一刻も早く死んでもらいたいところだがな」
「ああ、殺してくれ。僕を殺してくれるってんなら、今すぐ殺してくれ」
クレラントは笑みに表情を歪める。その顔はもはや凶相といって差し支えない。
「僕を殺してくれよ――さもなきゃ君が死になよ、テウメシアぁッ!!」
クレラントは身を起こすとともに、腕を上から下へ振り落とす。
上空を渦巻く大気が巨大な塊のようにユエラの頭上へ降りそそぐ。凄まじい圧力を感じ、ユエラは咄嗟に前方へ疾駆する。
「……こんの、死にたがりめが」
「ああ死にたいね。死ねるもんならとっとと死んでしまいたいところだよ。それとも、なんだい、テウメシア。君は――――死にたくない、とでも言うつもりかい?」
がん、と横殴りの風圧がユエラを打ちのめす。建物の壁にまともに叩きつけられる。
彼の行動に干渉したいところだが、そのためには彼の行動を読み切る必要があった。
それほどクレラントの発動速度は速すぎるのだ。傍目には無詠唱で魔術を行使しているようにしか見えないほどに。
「――――ふん」
ユエラは答えずにちいさく鼻を鳴らす。
死にたくない、などとはとても言えない。ユエラの生きた永い年月を、そして生きることになる永い年月を思うならば。
人と同じように死ねるのならば――そう脳裏に過ぎることもあるほどに。
「なぁ、テウメシア。僕なら君を殺せるぜ。その力がある。僕が君を殺してやる。――――君は、死にたくはないのかい?」
「おぬしこそ嘘吐きだな。私を殺せる確証などあるまい。もしそれが可能というのなら――おぬしが、おぬし自身を殺しておるだろうよ」
ユエラが舌鋒鋭く指弾し、前へ踏み出す。クレラントはち、と舌打ちして掌を前にかざす。
その動きはユエラも読んでいた――彼の行動に干渉し、魔術発動を押しとどめる。
「ぐッ……!?」
そのまま思い切り殴りつけようとした瞬間、ユエラは低く呻く。
クレラントの周囲を渦巻く大気。それを体内に取り入れた瞬間、ユエラの臓腑が悲鳴を上げたのだ。
「ッ、ハハッ! 読まれることくらい読んでいるに決まってるだろう、テウメシア? 僕の守りは、さっき以上に頑丈だよ」
「――本当に、戦いと殺しだけは上手くなりおったものよな」
ユエラは咄嗟に飛び退き、自らの感覚に干渉する。
痛み、苦しさ、それら全てを感じないようにする。
もちろん問題はあるだろうが、後から取り返しは効く。今は何を差し置いてもクレラントを退けなければならない。
「……ま、その通りだよ。君を殺せるって確証はないさ。自信は、あるけどね」
「ならば聞かせてもらうがな、クレラント」
「あぁ。なんだい?」
ユエラは無感覚になるよう努めながら、言った。
「おぬし、もし私を殺せたのなら、それでどうするつもりだ? おぬしにその後があるのかえ?」
「さぁ、考えてもないな。僕が魔王を封印した後は、殺傷用の魔術を極めることにしたわけだ。それが何より、僕自身を殺すことにも繋がるだろうからね。だから、もし君を殺すことができたなら――またそれを続けるだけだよ」
「本当に、ずいぶん狂いおったものよな」
「それは違うねぇ、テウメシア」
クレラントは両手をゆっくりと広げ、魔術を行使する構えを見せる。
神経電流への干渉のみではどのような術式かは判別できない。対象との接触なしに、言語化された人の意志を読むことはできないからだ。
「君が正気すぎるんだよ。あんまりにまともすぎるんだ。どうしてそんなにまともに人間なんかやっていられるのか、僕にはさっぱりわからないんだ。――――だから、君も本性をさらけてくれよ、テウメシア」
ぴん、とユエラの狐耳がそばだつ。
かすかに風が吹く音がして、瞬間、少女の右腕が千切れ飛んだ。




