五十九話/頂上会談
迷宮街に海はない。各国の国境線が交わる内陸の土地であるからだ。
しかし水には事欠かない。豊富な水資源として周辺を流れる川があり、それらの風景はティノーブルの夏の風物詩として享受されていた。
「……ふむ。ちと早かったか」
テオの修行が一応の期限を迎える日のこと。
ユエラは一人で街の外に繰り出し、心和む自然の風景を見渡していた。
テオを放ってきたというわけではない。テオが修行に集中しすぎて構ってもらえない、というわけでもない。ちゃんと個人的な約束があって、ユエラは街近くの川べりにやってきたのである。
暖かな風。川のせせらぎ。虫の声。
この街にやってきた時は少し涼しい春だったが、今はもう夏が近い。半ば夏と言っても良いだろう。
おかげで近ごろのユエラは毛が抜けて抜けて仕方がなかった。髪の毛はさほど抜けないが――夏毛に生え替わる頃合いなのだ。
「すみません。少し遅れましたか」
川の流れに耳を傾けていれば、ふと後ろから声がして振り返る。
そこには――まるで飾り気のない、そこらの町娘のような少女がいた。地味な色のブラウスにロングスカート。白金色の長い髪を隠すように頭巾を被り、眼鏡だけはいつも通りのものをかけている。
紅き枢機卿の衣を身にまとう時の面影はまるで無い。威厳がなさすぎてユエラは思わず困惑するほどだった。
「――いかがなさいましたか?」
「い、いや。見違えすぎて腰が抜けるかと思ったでな……」
「そうですか。なにぶん、私的な装いで人と顔合わせすることなどめったにないもので」
――――キリエ・カルディナ。
公教会ティノーブル支部の頂点に立つ枢機卿とは思われない、あまりに芋臭い少女がユエラの目の前にいた。
「……おぬし、もうちょっとなんとかならぬのか?」
「確かに貴女はいつも洒落た格好をしておられますね。それは御自分で?」
「感性はちゃんとしておるのだな……これはテオの仕立てだが」
対するユエラは白いワンピーススカート。腰にはワンポイントの青いリボンが結びつけてある。頭には糸で編まれた麦色の帽子をかぶっていた。
洒落ているというほどのものではないが、少なくともキリエよりはお金がかかっているだろう。
若い女性としていかがなものか。そんな苦言を呈しそうになるキリエの姿だが、当の本人はてんで気にした様子もなく川べりの草原に腰を下ろした。
釣られてユエラもその隣に座る。
「――――で、キリエよ。おぬし、どうしたってこんなところに私を呼び出しおったのだ?」
「少し貴女と情報共有をしたく思いまして。ですが、あまり貴女を頻繁にお呼び立てするのは好ましくありませんし、私から伺うことは立場的にも許されません。――ですから、こうしてお休みの日にお話をさせていただこうかと思いまして」
「休みの日まで仕事かえ……頭がおかしくなって死んでも知らんぞ? ちゃんと休んでおるのだろうな? 前の休みの日はいつじゃった?」
「…………確か、五月の半ばごろでしたかと」
「ふむ。先月ぐらいかえ」
「いえ、去年の」
「過労で死んでしまえ」
ユエラとは正反対と言っていいほどの働きぶりだった。
同じことをやったらユエラは速やかに気が狂うだろう。
「必要上のことですので。好きでそうしていたわけではありません」
「嘘こけ。トップが休みも取れん体制なぞいつ崩れるかも分からぬぞ。おぬし一人おらねば回らんということではないか。ちゃんと他人に任せることを覚えよ。どう考えても構造的な問題があろうが」
「――――そう仰せられてはぐうの音も出ません」
キリエは仏頂面になりながらも頷く。責任感と生真面目さはクラリス同様――否、彼女以上のようだった。
だが、それがいつでも幸いするとは限らない。何でも背負い込むことがかえって災いを招くこともある。
「で。……情報共有とは、何かえ?」
「――〈賢者〉クレラント」
「……が、どうかしたかえ」
その名を聞いてユエラはにわかに眉をひそめる。
「彼を名乗る少年らしい人物が公教会を襲撃。一部を破壊し、アルバートに接触しました」
「ほう。……で、あやつはどうしておる?」
クラリスに様子を聞いた限り、大人しくしているようだったが。
「自ら望んで地下独房に入りました――『俺はいよいよ狂を発したかもしれない』と」
「自分の正気を疑えるようになったのかえ。だいぶ頭は冷えたようだのう」
「そう仰られるとは思いも寄りませんでした」
「まぁ、私はあやつにさしたる興味は無いからのぅ」
だが、クレラントが彼に接触したとすれば何らかの意味はあろう。
「何のためにかは聞いておるのか?」
「ええ。――貴女の討伐の手伝いをしてほしい、だそうです。つまり、私が知る限り、彼は貴女を排除したがっている」
「で、あろうな。――――私もあやつを見かけたからのう」
「……! それは、」
「ああ本物だとも。間違いない。三百年前のことは知らんがのぅ――あやつこそは千年前、私を現世から追いやった魔術師に違いあるまいよ」
それで情報共有、ということか。ユエラは納得げに頷く。
「そしてもう一つ、私から言えることがある」
「――なんです?」
「クレラントはイブリス教団の主教格と肩を並べておった。つまり、あやつらは協力関係にある」
ユエラがそう告げると、キリエはさすがに驚愕を隠せなかった。
瞳をぱちぱちと瞬かせ、信じがたいと言わんばかりにユエラの顔を覗きこむ。
「本当だとすれば信じがたいことです。……真のことなのですか。魔王封印の英雄その人が、教団のものと協力関係にある、と?」
「利害関係がどの程度一致しているかは知らぬがな。単に駒として使い捨てるつもりかもしれぬ」
彼はおそらく、ユエラとの直接対決を望んでいる。その露払いとして利用するつもり、という可能性は大いにあるだろう。
アルバートに接触したというのも、おそらくはその一環に違いない。
「ユエラ様。率直に、私が懸念するところをお伺いいたします。今の私には、あまりに情報が足りておりませんので」
「うむ、なんでも聞くが良い。答えられる範囲ならばなんでも答えてやろうぞ」
「――――魔王復活の兆しに、どの程度の関係があるとお考えですか」
これ以上ないというほどの直球。
ユエラは、ふむ、とちいさく頷く。
「あまり危機を煽るようなことを言うつもりはないのだがな」
「貴女ほど煽動が得意な方は早々おられないでしょう」
「……それを言うでないよ」
痛いところを突かれたユエラは苦い顔。
しかしこればかりは濁しても仕方がない。ユエラは端的に告げた。
「あやつは手駒を増やすために、手段を選ばずアルバートに接触した。そして、飽くまでも私ならばそうするという話だがな――魔王も手駒に使う、という選択肢があるとは思わんかえ?」
「…………いくらなんでも、それは無理筋ではありませんか。仮にも〈勇者〉の血統であるアルバートと、魔王を蘇らせるのとでは、あまりに被害規模が違いすぎます。彼が引き起こした騒動に比べ、魔王が復活した時に引き起こす災害はあまりに桁外れでしょう」
キリエは動揺を押し殺して私見を述べる。しかしながら、彼女のちいさな手はかすかに震えていた。
「確かにその通り。しかしな、キリエよ。――クレラントがこの街を、この世界を慮っていると信じ得る理由がどこにある? 現実として魔王復活の兆しがあるのであろう? 何よりもこの世界を慮るならば、私の前にそっちの問題を片付けるべきではないかえ?」
ユエラの危険度を大きく見ている、という可能性は無論あるが。
クレラントは千年前、テウメシアの跳梁跋扈を目の当たりにした時代の人間なのだから。
「――すみません。正直なところ、私は冷静に判断しかねています」
「ほう?」
「……私の祖先の名は、ドーラ・カルディナ。かつて、四人の英雄――〈勇者〉アルベイン・ウェルシュ、〈賢者〉クレラント、そして長耳の従者エルファリア・セレムと共に魔王を封印した英雄の、一人です。彼の――〈賢者〉クレラントの存在は、私の起源に関わるものです」
キリエはそれを誇るでもなく、卑下するでもなく、あくまで淡々と口にする。
ユエラはそのことにむしろ感心した。よくもあけすけに言えるもの、と。
「なるほどのぅ。確かに、冷静に判断しかねても無理はなかろう――だが、これだけは言うておく」
「はい」
キリエはうつむいたまま頷く。ユエラはゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをしながら言う。
「三百年前がどうであろうと、あやつはもはや善良なものではない。善良なものではありえない。起源に縛られた死にたがりの怪物に過ぎぬよ」
「――――ッ」
彼がどのような軌跡を辿ってきたか。それはユエラの知るところではない。
しかし現実として、クレラントはユエラを排除するため、人ならざるものに成り果てた。それゆえに千年という時を生き、取り返しが付かないほど歪んでしまった。
彼はもはや、単なる化け物に過ぎない。
ユエラ・テウメッサと同類の。
「おぬしが自らの起源を振り返り、省みられるのなら――おぬしのほうが、あやつなどよりいくらか上等よ。覚えておくが良い」
それはもしかしたら、ユエラなどよりも、よほど――――
「ではのぅ。……ごたごたが片付いたら、今度はちゃんと遊ぼうではないか。それならば大いに歓迎するぞ?」
「――――あいにくですが、そうも参りません。私が貴女と必要以上に親しくすることは、必然的に枢機卿としての資格問題になりかねませんので」
「……堅物め」
キリエはユエラを見据え、きっぱりと言い切る。
その曲がらない鉄のような理性が、ユエラにはかえって好ましかった。
笑ってひらひらと手を振り、背を向ける。
彼女ならば良いようにするだろう。そう考え、アルバートの件などは気にもかけなかった。
◆
「――ほぅ」
昼下がり――時間を感じさせないユエラ邸地下の大広間。
彼女の様子を見に足を運べば、ユエラは思わず感嘆の息を吐いた。
薄褐色の肌にお仕着せ服の少女――テオは依然として極限の集中状態にあった。
さながら演舞の如き鮮やかな身のこなしを見せ、仮想敵との演習に没頭する。
しかし、ユエラが部屋の中――石畳を一歩踏んだ瞬間のこと。
「ユエラ様」
「うむ。……もう気づきおったか。早いのぅ」
「いえ――お迎えに参られず申し訳もない次第です」
集中を継続しながらも周囲環境はきちんと知覚しているようだ。それも、視界は閉ざされたままに。
たった二日間でずいぶんと変わるものである。ユエラは思わず目を細める。――まるで早熟な娘の成長を見守るような気持ち。
あいにく、娘など持ったことはこれまでに一度も無いが。
「おまえほどでも、知覚範囲を家全体にまで広げることは厳しかろうさ。それこそ魔術の域であるからのぅ」
「……上達を自覚したからこそ、痛感せざるを得ないことかと」
神業の粋に達した戦闘者は、時に魔術師をも上回る力を発揮し得る。
しかし、それは単純に魔術師以上であることを意味しない。生体反応や魔力を探知する能力において魔術師を超えることは至難の業である。
「しかしながら、ユエラ様」
「うむ」
「一定の成果は見られました」
「……ほぅ? 言うてみよ」
「これならば師に打ち克つ、とまでは申し上げませんが――しかし、互角に打ち合う程度のことならば、十分に可能であるかと存じます」
てらいなくきっぱりと言い切るテオ。
修行三日目。一日目を寝込んで過ごしたことを思えば昨日の今日である。
通常ならばそう容易く成果をあげられるような期間ではない――だが。
「ならば、うむ、そうだな――私を構わなかった罰と行こうではないか」
「申し訳ございません。私がこちらに注力することも考慮の上でしたかと」
「……こゃーん」
軽い気持ちで言ったのだが実のところ結構寂しかった、なんて言えたものではない。
ユエラはうろんな啼き声を漏らしつつ、体内の魔力を注いで力を行使する。
それはテオの記憶から引き出した影を呼び起こすもの。
――――幻魔術・夢幻泡影――――
瞬間、それはテオの前に突如として立ち現れた。
身の丈は優に170su以上もあろうかという長身。ローブに覆われた身体は細く、そして縄のように練り上げられている。黒い髪は一つ結びにくくられ、白いうなじに流れていた。
テオはにわかに目を見開き、そしてすぐに平静を保つ。水面に浮き立つ波紋がすぐに掻き消えるかのように。
「――これに勝て、ということですね?」
「うむ。おまえの記憶に準じるものであるからな、本人よりはおそらく温かろう。……つまり、これを倒せねば実物には絶対に勝てぬ、ということだ」
「了解致しました。――――ご笑覧下さいませ」
率直に言えば、三日前のテオではまず敵わなかったろう。記憶に依存した虚像とはいえ、テオに暗殺技術を伝授した傑物なのだ。他を圧倒する武術家には違いない。
今のテオならばどうか。成長が見受けられるのは間違いないが、それはどれほどのものか。
相手はあくまで幻影だ。下手を踏んでもテオが負傷することはない。
だが、ユエラはそれを伝えなかった。万が一にも気の緩みが起きてはならないから。
リグが懐から短剣を抜く。それが鍛錬時の日常風景であったに違いない。
テオのかつての日常を、ユエラは幻影を通じて垣間見る。
テオはそれに動じることなく、袖から短剣を抜いて腕を垂らす。淀みない所作で幻影のリグと相対する。
「――然らば、始めよ」
ユエラの宣言。
「いざ」
テオは端的に応じ、静謐を湛えたまま短剣を構えた。




