四十七話/千年の縁
「これは妙なことを仰せられる」
と、ユエラは戯けたように言う。
「先に言ったであろう。私は自堕落に、末永く、のんびりと過ごせればそれで満足だ。決して嘘は言うておらぬぞ?」
「本当のことを仰ってもいないでしょう」
ユエラの言葉にもキリエは一向に動じない。
なるほど、食わせ物だ。その上、話が通じない相手では決してない。
ユエラは額に掌をあてて勘案する。その様子をテオは不安げに見つめる。
「よし、わかった。テオ、ちょいと席を外しとくれ」
「わ、私がですか」
「うむ」
「私が聞いたら困るようなことですか」
「困りはせんが、あまり聞かせたくはないな」
ユエラは端的に言う。テオが泣きそうな目になる。
恨めしげにじっとユエラを見つめるテオ。ユエラはあくまで視線を逸らさず、彼女を見つめ返す。
きっかり三十秒後、テオはいよいよ諦めたように席を立った。
「かしこまりました。しつこい女……もとい従者は嫌われましょう。もし何かあればお呼びください。すぐにでも駆け付けさせて頂きます」
「すまぬな。……そう長くはかからんよ」
黒い目を泣きそうに潤ませながらテオは支部長室を辞す。
後で慰めてやらねばな、と思いつつキリエに向き直る。彼女は先ほどの一部始終、律儀に無言を守り続けていた。
「うむ。待たせたな」
「いえ。差し支えのあることでしたら聞かずにおきますが。――私としては、ユエラ殿、貴女が穏やかに過ごしてくださるならば、それ以上のことは望みません」
「いいや、特に困りはせんよ。……おぬしと私にはさしたる親交も無いからな。親交を深めることも無かろう。そしておぬし自身、深入りを望むまい。だからこそ、安心して言えるというものよ」
「……そのような性質のことでしたら、お聞かせ願いたく」
キリエは頷き、前に乗り出すように耳を傾ける。
ユエラはゆっくりと言葉を選びながら話し始める――順序立てて説明する必要があるからだ。
「まず、私の寿命についての話をさせてもらうがな。私は長生きだ。呆れるほどに長く生きる。それこそ、嫌というほどにな」
「……具体的には? いえ、今あなたはお幾つなのですか?」
「八歳」
「冗談は抜きでお願いします」
「ほんに冗談の通じんやつよのう――千二百年飛んで八歳、だ。正確にはのう」
瞬間、キリエは目を見開く。その年月を耳にすれば、否が応でもユエラの正体に思い至ったか。
「……それは、つまり、貴女は……貴女の、本当の名前は」
「テウメシア、といえば通りが良いかえ? ――――それよ。それこそが、私だ」
ユエラは笑い混じりに告げる。キリエはにわかに指を震わせ、ゆっくりと息を深くする。
この期に及んでも表面上の冷静さを保っているのは流石だった。キリエは取り乱しもせず瞑目し、ちいさく頷く。
「……それを存じておられる方は、他には?」
「テオとリーネ――ここにはおらぬが、私のもう一人の従者だ。そして今、そこにおぬしの名も加わったというわけだのう」
「あまり知りたくなかった事実ですが……いえ、承知せざるを得ないでしょう」
キリエはそう言って続きを促す。
現実問題、テウメシアとは神話の中でのみ語られる存在だ。討伐などそもそも可能かも怪しい。否、神話においても討伐はなされていない――ただこの世界から追放されたのみである。
そう。神話の時代においても、ユエラを――テウメシアを殺すことは叶わなかったのだ。
「とまあ、私は長生きだ。何度かは死んでおるが、それはあくまで肉体の死に過ぎぬ。魂……つまり私の意識は千年の昔から連続しておるし、恐らくはこれからもそうだろう」
「死は貴女の救い足り得ない、ということですか」
「それで救われるなら私はとっくに死んでおるよ。……魂だけで時空をさまようよりは、地に足を付けて生きるほうがまだしも良いのでな」
それを長生きというのは、あまりにも控えめな表現だったろう。
結局のところ、ユエラの言葉が意味するものは――
「……死ねない、ということですか」
「ご明察」
ユエラは皮肉げに笑う。
死ぬこともできぬのならば、せめて享楽と慰みに満ちた生を。自堕落で、何に煩わされることもなく、永遠にも思える生をやり過ごすこと。
それこそが、ユエラの――テウメシアの真の目的だった。
「だから、まあ、実のところ……多少騒がしかろうが私は構わん。邪魔が入るのもちょっとした退屈しのぎにはなる。だが、人間どもに疎まれながら生きるはめになるのは御免こうむるのでな。なるべく平穏に、折り合いを付けながらやっていきたいというわけだ」
「……私の理解が及ぶ範疇ではありませんが、納得は行きました。少なくとも私が目指す方針と相反することは無いでしょう」
「ほう?」
ユエラはぴょこんと狐耳を立てて首をかしげる。
キリエはすでに幾ばくかの平静を取り戻していた。
「私の望みは秩序と均衡。そしてユエラ殿、貴女が積極的に力を行使しない限り、均衡を致命的に破壊する程の影響力には成り得ないでしょう」
「そうかえ? 私が与するスヴェンの影響力は増しておるぞ。あれは良いのかえ?」
「彼の影響力が増した以上、他方からの風当たりも強くなるでしょう。そしてスヴェン殿はそういった抵抗を押し切るような無理をする御仁ではない、と解しております。理性的な対話を行う限り、貴女の強大な力をも均衡を織り成す一部分に過ぎません」
「……そいつはちと、過ぎた望みに思えるがのう」
人間の心とは一筋縄ではいかない。いつも理性的でいられるとは限らない。ましてや、キリエ・カルディナのようには、とても。
あれだけ痛い目にあって、キリエはまだそれを分かっていないのか。
あるいは――まだ、人間理性などという儚い幻想を信じているのか。
「そうかもしれません。ですが、だからこそ、誰かがそうしなければなりません。感情のままの動物に成り下がれば、後には争いの連鎖が残るばかりです」
「……ま、せいぜい気張っておくれ。おぬしの後進を引き継げるような奴がおれば良かろうがな」
どこかぶっきらぼうに言う。キリエが少し眉をひそめるのに、ユエラは遠慮無く言葉を続けた。
「人間、生きてせいぜい六十年。それだけ経てば、今生きておる人間はみーんな死ぬ。……フィセルもリーネもテオも、おぬしもな。――――そして私は、生き続ける」
そう。
結局のところ、それこそがユエラの目的を決定付ける要因だった。
人が滅びることはない。今日もどこかで赤子が産声を上げていることには違いない。それでもいつか、ユエラを慕ってくれる者たちも――皆、先に、死んでいく。
「……貴女は……」
キリエもさすがに言葉がない。
ユエラの葛藤は、あまりに人智を逸してしまっている――人間の想像を絶している。
「……ま、あやつらも年を食えば男子の一人二人は捕まえてくるであろう。それに子が産まれれば、私はさしづめ意地悪な叔母といったところかの。……それも悪くはなかろうさ」
そのくせ、ユエラの語り口はあまりにもあっけらかんとしていた。口端をいたずらげに歪め、どこか自嘲げに笑う。
それを見てキリエは深くため息をつく――聞くのではなかった、と言わんばかりに。
「……付かぬことをお聞きしました。これ以上は、もう、良いでしょう。……貴女と利害の一致が見られたのは、まだしもの幸運だったと考えます」
「その点については私も同感だのう。まあ、何か魂ごとぽっくり逝けそうな手段が見つかったら教えとくれ。そいつには大いに興味がある」
ユエラはけらけらと軽く笑いながら立ち上がる。対するキリエはもはや苦笑するほかない。
「まずご期待に沿うことは致しかねるかと思われますが。……しいて言うならば、かつては貴女を追放した魔術師もいらっしゃるのでしょう。人間の可能性に望みを賭けたほうが有意義ではないかと考えます」
「望み薄だがのう。……うむ、まあ、確かにあれは中々できるやつだったな」
ユエラは天井を見仰ぎながら記憶を掘り返す。
かつて、千年前にユエラをこの世界から追放した魔術師の名前。
あれは何という名前だったか。そう確か――――
「あれは確か、うむ、クレラントとか言いおったかの――」
「――く、クレラント? 〈賢者〉クレラントですかッ!?」
「……こゃーん?」
キリエは執務机に掌を叩きつけながら立ち上がる。その眼は驚愕に大きく見開かれていた。
何をそんなに驚くことがあろう。ユエラは首を傾げながら問う。
「どうかしたかえ? 賢者とはまた大層な二つ名を……はて、そんな風に呼ばれておったか」
「……違います。ユエラ殿、そうではありません。よく聞いてください。〈賢者〉クレラントはこの世界で最も名の知られた魔術師です」
「ほぅ」
――私の宿敵、そんなに名が知れておるのか。確かに変わった名前だからな。もうとっくに死んでおろうが。
続くキリエの言葉は、そんなユエラの思考を吹き飛ばして余りある衝撃をもたらした。
「……〈賢者〉クレラントは"三百年前"、〈勇者〉アルベイン・ウェルシュとともに魔王封印を成し遂げました。……彼と同じ名前の魔術師がいるなど、寡聞にして聞いたこともありません」
◆
アズラ聖王国と商業都市連合を隔てる森林地帯。
迷宮街ティノーブルのおよそ南西に位置するこの土地は、今なお人間が踏み入ることを許されない秘境として扱われていた。
昼夜を問わず漆黒の闇が広がる悪天候。大気は超高濃度の魔素に満ち、視界の通らない茂みには凶悪な魔獣が潜んでいる。侵入者を飲み込む底なし沼なども数多く、地元の人間は近づきさえしない。
アズラ聖王国、商業都市連合が共にさじを投げた悪魔の土地。ゆえにこの土地は、人々から〈魔の森〉と称されていた。
そんな森のど真ん中。くちばしになにかを咥えた鳥が一羽、他と全く見分けがつかない一本の針葉樹に降り立った。
樹上で停止するやいなや、その鳥は突然に息絶えて地に落ちる――〈魔の森〉の魔素に当てられたのだ。
常人ならば一日と経たないうちに内臓が腐り落ちて死ぬほどの魔素。おまけに、魔素の濃度は森の中心に近づくほど否応なく高まる。ただの小鳥がそれに耐えられるはずもなかった。
――だが、その小鳥の死を看取るものはいた。
「お? 珍しいな」
それは、人間だった。
少なくとも人の形を保っていた。
彼は地に落ちた小鳥を見下ろし、それが咥えていたものを抜き取る。
それは羊皮紙の巻物。表面には聖王国の刻印がくっきりと刻まれている。許可無く紐解けば死罪もありえるほどの代物だ。
彼はそれを何の迷いもなく開き、文面にざっと目を通した。
「……へえ?」
彼は身長160suそこらの少年だった。少年にしか見えないほど小柄で、透き通るような水色の髪を持ち、肩からは汚れひとつない白衣を羽織っていた。
「魔王でも蘇ったのかと思ったら……へぇぇ……狐人ねぇ……」
彼の所在を知るものは多くない。聖王国を筆頭に、各国の元首が知っているかどうか。
後はかつての同胞たち。すでにずいぶん長い年月が経っているから、もうとっくに忘れられているかもしれないが。
少年は文面を何度も繰り返し確認したあと、ぼっと手の中で巻物を焼きつくした。
「……魔王よりは、骨があるかもねぇ」
少年は赤い目を爛々と狂的に輝かせる。断じて尋常のそれではあり得ない。そもそも〈魔の森〉に人間がいること自体が不自然なのだ。
彼は小鳥の死骸を見下ろし、埋めてやろうと考える。密書を送るために遠方から遥々飛んできたのだ。自分のもとに手紙が届くことなどいつぶりだろう。少なくともここ百年は平和が続いていたのだが。
「スコップ、スコップ……っと」
少年は足元の土に手を突く。瞬間、掌が光を発したかと思えば、彼の手中に鉄製のスコップが収まっていた。
彼は早速それを使って地面を掘り始める――と、にわかに大きな音が聞こえた。
ずしん、ずしん、と。
巨大な質量が地面を踏みしめる音。
大気の鳴動に気を引かれ、少年は音のする方を振り返る。
巨大なものの正体はすぐにも知れた――それは木と木の狭間を縫うように飛び、着地するたびに大きく地が沈む。
横幅にして100su近くあろうか、身の丈はゆうに350suを超えている。人間の戦士など問題にすらならない巨躯。重量は一般的な個体でさえ500dsを数える魔獣――その名を俗に羆という。
餌――小鳥の死体を嗅ぎつけてやって来たのだろう。羆はけたたましい鳴き声をあげ、少年を鋭く威嚇する。
「お目当てはこいつかい?」
少年は手に持ったスコップで小鳥を指す。
もっとも、魔獣に言葉は通じない。おまけに羆は腹を空かせていたようだ。天を仰いで咆哮するやいなや、羆は少年に向かって四脚で駆け出した。
「……面倒くさいなあ」
少年はため息をつき、空っぽの掌を羆にかざす。
その瞬間――――羆の土手っ腹に巨大なうろ穴が空き、そこにあったはずのものは跡形もなく吹き飛んだ。
肉片も、血液も飛沫を上げることはない。
一切の詠唱すら無く、彼の行使した"なにか"はたった一撃で羆にとどめを刺した。
羆は魔獣の中でも極めて危険な部類に入る。たった一頭で村一つが滅ぶこともあるほどの怪物だ。〈魔の森〉においてはさして珍しくもないが、それを一人で討伐できる人間はあまりにも少ない。
ましてや、これほど容易く討伐できるものなど、果たして現世に一人でも存在し得ようか?
「あーあ……」
もっとも、討伐を果たした当の少年には何の感慨もなさそうだった。がしがしと頭を掻きむしり、再び穴を掘り始める。
完成した穴は予定よりもはるかに大きなものだった。
彼はその穴に羆、そしてその上に小鳥を入れ、再び穴を埋め始める。
「……ひょっとしたら、君なのかい。ねえ、テウメシア?」
千年を経た今なら、彼女を殺せるだろうか。
それとも、彼女が自分を殺してくれるだろうか。
彼――――〈賢者〉クレラントは千年前の記憶を思い返し、笑った。




