四十五話/ゆめのあと
公教会ティノーブル支部の襲撃と制圧。
急進派司教のヨハン・ローゼンクランツを首謀者とする一連の事件は、そう長い時間をかけないうちに幕を下ろした。
軟禁されていたキリエ・カルディナ枢機卿は無事に救出。極端に衰弱しており、打撲の痕跡が見られたが、命に別状は無かった。
建物全体の奪還についても昼前までには完了。奪還を主導した聖堂騎士団に負傷者はほとんど無く、死者は防衛に当たっていた傭兵たちが大方だった。その傭兵たちにしても半数ほどは無傷での投降、ないし捕縛がなされた格好だ。
首謀者格とされたアルバート・ウェルシュ、エルフィリア・セレムの両名もまた捕縛済み。ヨハン・ローゼンクランツは行方不明。彼らの敗北を知った傭兵たちが戦意を保つことは到底不可能だったのだ。
「感謝する、ユエラ殿。貴殿のおかげで無事に枢機卿猊下をお救いすることができた。貴殿の言葉がなければ我々はどうなっていたか……真に感謝の念に堪えない」
「おぬしらがようやったということであろう。ほれ、あやつ……」
公教会門前。
ユエラとレイリィは互いの武力を解散させたあと、ちょっとした立ち話を交わしていた。
レイリィの護衛対象――キリエ枢機卿はすでに公教会の医務室に運び込まれている。
初めはキリエ枢機卿の自邸に運びこまれたのだが、後に聖堂騎士団が独自の判断で移動させたのだ――枢機卿猊下の住居はあまりに質素すぎる、と。
「アルマ殿か」
「うむ。あやつがようやったと聞いたぞ」
なんでも、第一次迷宮遠征時代から名の知れた古強者を一瞬で薙ぎ倒したとか。レイリィはうむ、と重々しく頷く。
「……ああ。あれは一人前の聖騎士に勝るとも劣らない……いや、認めよう、それ以上と言ってもいい力量だった。火事場の底力というものかも知れないが、まさに悪魔のような奮戦ぶりであったな」
「それは実に面白い。……いやはや、人間わからんものよなあ」
何の変哲もないように思われた青年が、それほどの底力を秘めていようとは。
言動から察するに、アルマ・トールはおそらく根っからのキリエ枢機卿の心酔者。慕情などの生温いものではないだろう。極まった信仰が超常の力をもたらした例は歴史上、枚挙にいとまがない。
「で、肝心のそやつは何を?」
「すでに枢機卿猊下の身辺警護に当っているはずだ。身の回りの世話や治療にはクラリス司祭殿を筆頭に、公教会が総出で当たっている。今しばしは面会謝絶とせざるを得ないかと思う」
「……ま、そんなところであろうな」
早いうちに恩を着せたいところだが、今はそうもいくまい。
ユエラとて他にやるべきことはあった。その証拠というわけでもないが、フィセル、テオ、そして支配下に置いた屍兵などはこの場にはいない。彼女らには別の任務を命じておいたからだ。
任務。それはさして特筆に値することでもない。
以前からランドルート家、ないし〈鵯の羽休め亭〉などに刺客を送り込んできた有力者ども。彼らをこの機に乗じて一気に片付けてしまうのだ。
ユエラは彼らへの反撃には一貫して慎重姿勢を崩さなかった。自らの危険度をむやみに高め、いたずらに注目を集めかねないからだ。
だがすでにその心配はない。彼らは一人の例外なく公教会に牙を剥いた逆賊どもだ。徹底的に討ち滅ぼすことはむしろ公教会に協力的な姿勢を示すことともなる。
フィセルなどは屍兵と彼女自身の隊を率い、喜び勇んで出撃した。彼女の宿を焼き討ちしようとした連中を一網打尽にできるのだ。未遂で終わったにしてはあまりに高い代償だが、同情の余地は全くなかった。
「あの二人はどうしておる?」
この状況であの二人、といえば意味するものは自明。
アルバート・ウェルシュ、そしてエルフィリア・セレムの二名である。
「高級捕虜の扱いになる。いずれは聖王国と解放交渉をすることになるだろう」
「……ほう? ずいぶんな高待遇ではないかえ?」
「枢機卿猊下が直々に御命じになられた。猊下のご指示に背くわけにはいかない。それに、彼らとて爵位を有する貴族であるからな。対応としては妥当だ。……実に、猊下らしい判断だとも」
そういうレイリィの声は少し残念そうだが、一方では安心しているようでもある。
ユエラも率直に言って感心した。キリエ枢機卿が救出された状況からして、拷問を受けていたことは明らかだろう。
そこから一転して自由の身になれば、傷めつけられた意趣返しを考えても決しておかしくはないはず。救出直後の心神喪失状態で下した指示となればなおさらだ。
「怪物、であるな」
「……どういうことだ?」
「いや、失礼。……怪物的、と言うべきかのう」
にも関わらずキリエ枢機卿の判断は適切だった。私怨の類が一切含まれていない、といっても過言ではなかろう。
それはおよそ人間らしさというものを欠いている。理性の怪物、とでも言うべき有り様ではあるまいか。
彼女の指示により、おそらく捕虜二名の処遇は先延ばしになるだろう。交渉相手――アズラ聖王国、ひいてはウェルシュ家当主の対応次第、といったところか。
「貴殿のような本物の怪物が言うのもいかがなものかな、ユエラ殿」
「……くくっ。いや全く、同感だ。して、レイリィ殿。ひとつ頼みたいことがあるのだがな」
「私の権限の範疇内であるならば」
レイリィは控えめにそう言う。が、現時点では彼女こそ公教会ティノーブル支部の実質的な最高責任者に他ならない。
ユエラは問題なく受け入れてもらえることを確信し、言った。
「うむ。まあ、なんということはない――アルバート・ウェルシュとの面会を願いたい。ちょいとキツい仕置きもしておかねばな」
◆
死は覚悟の上だった。
全てが失敗に終わったその時は、おめおめと生き延びようなどとは思いもしなかった。
しかし現実にはどうだ。
自らの従者さえも巻き添えに、アルバートは囚われの身となった。
断ち切られたはずの腕はすでに繋げられた。が、神経系には誤魔化しきれない違和感があった――まるで他人の腕が繋がっているかのような感覚。
そもそも〈勇者〉の血統にある肉体は、精霊の祝福を受けているという。
だとすれば斬られた腕が元通りにならないのも道理であった。これはアルバートだけの肉体ではなく、いつか精霊に返すべきものなのだ。
どのような責め苦を受けるだろうかという思いとは裏腹、彼が入れられた室内は実に快適だった。外から鍵をかけられること、厠が室内にあることを除けば一般的な宿と変わりがない。
むしろベッドなどは良心的と言っても良いだろう。寝ていても背中が痛むようなことは無いのだから。
いっそ自害できれば良かったろう。だが、彼女は――クラリスは別れ際、アルバートに言い残して行った。
『どうか、逃げないで下さい。あなたが死ねばエルフィリアがどうなされるか、まさか思い至らないほど愚かではないでしょう?』
――まさに楔を打たれたような気分だった。
どうなるか? 自明だろう。エルフィリアはまず間違いなく自分の後を追って死ぬ。万が一死なずとも、彼女にアルバートの責任をも負わせる羽目になる。
アルバートは短慮で、功名心に満ち、そして劣等感にまみれている。だが、それでも、近しい人の行く末に考えが及ばないほど愚かなわけではない。
人間の愚かしさというものには、悲しいかな、限度がある。中途半端に賢しいからこそ、彼らは時に途方もない愚行をしでかす。
「……嗚呼」
その結果。
アルバートは室内の椅子に座り、何をすることもなくぼんやりと天井を見上げていた。頭の中では取り留めのない思考が堂々巡りを繰り返す。考えが全くまとまらない。
いっそ痛めつけてくれたらば。アルバートは心底からそう思った。そうしてくれれば、自らの罪悪感が少しは和らぐだろう。それは決して反省したからではなく、自己本位な考えに過ぎないことは言うまでもないが。
何となれば自分で傷つけてみようか。武器は没収された後だが、日常品でもその代わりにはなりそうだ。アルバートは漫然と部屋の中を見渡し――
その瞬間、不意にかちゃりと音を立てて部屋の扉が開かれた。
「……誰だ……?」
以前までとは比べ物にならないほど鈍い反応。
アルバートが目を向けた先、部屋に入ってきたのは誰を隠そう――ユエラ・テウメッサその人だった。
「……な」
「おうおう、まーたしけた面しておるのう。それで本当に〈勇者〉とやらの血族かえ?」
なんの遠慮もせず、警戒もなく。
護衛の一人すらつけず、彼女は平然とアルバートに相対した。
「……なにを、しにきたのです。私をあざ笑いにでも来ましたか」
「まさか。いや、もうちょい骨のありそうな奴を期待しとったのだがな。思うたより腑抜けだな――これならあざ笑っても構いはせんか」
「……笑えば笑うが良い。私はすでに敗者だ。今さら語る言葉などあるものか」
「なーにを不貞腐れておる。私の命を取る気だったんだろうに」
ユエラはトン、と自らの薄い胸に親指を突き立てる。
思えば、アルバートが彼女を直に目にするのは久方ぶりだった。
以前の機会は公教会で行われた査問会――あの日、傍聴席で彼女の凄まじい幻術を目の当たりにして以来のことだろう。
「……そうだ。その通りだ。だが、あなたの身に刃を届かせるどころか――あなたの護衛を討つことすら敵わないとはな」
アルバートは如何ともしがたく歯噛みする。
フィセル・バーンスタイン。彼女との戦いについて、まず最大の失敗は、二手に分断されたことだった。確実に、エルフィリアと二人での各個撃破を試みること。それならまだしも勝ち目はあったろう。
もっとも、それは純粋に実力を鑑みての話。あの時、フィセルはアルバートに対して精神的にも優位に立っていた。彼女はアズラ聖王国の内情をいくらか知り得ており、アルバートの抱える劣等感をも見透かしていたのだ。
「うむ。私に相まみえることすらなく敗れてはさぞ無念だろうと思ってな。――おぬしに、ちょいとチャンスをくれてやろうと考えたのだ」
「……な、に……?」
その言葉を聞き、アルバートの胸中に様々な感情が渦巻く。屈辱か、怒りか、あるいはほんのかすかな希望。
乗ってはならない、とアルバートは懸命に自制する。相手は凄まじい幻術を操る狐人。気づいた時には取り込まれていた、なんてことにもなりかねない。
「そう警戒するでないよ。なにも取って食おうというわけではない。むしろ全くの逆だ」
「……無駄話なら結構です。単刀直入に頼みたい」
「うむ。――――おぬしには絶対に私を殺せん、と思い知らせてやろうと思ってな。全力で撃ってきぃや。ちょちょいと片手でいなしてやろう」
ぐ、とアルバートは歯噛みする。あまりに露骨な挑発だ。
彼女個人の武力はさほど高くないだろうが、魔力は人並み外れている。アルバートの術を何度か打ち消すくらいのことは確かに容易いだろう。
「まぁ、そのつもりも無いというのならば無理強いはせんがな。それならばわざわざおぬしに思い知らせるまでもない。……そら、どうする?」
「やる」
アルバートは即座に応じる。ほう、とユエラは口端を歪めて笑む。
「殺せない、と突きつけられるならばそれでも結構です。だが、それに脅えて逃げることだけは致しかねる」
「……くく。うむ、良い心がけだのう」
ユエラはちいさく笑い、アルバートと数歩分の距離を取る。貴族の捕虜を捕らえておく部屋のため、室内は十分な広さがあった。
アルバートの手元に剣はない。だが、術は十全に扱える。精霊はまだアルバートに力を貸してくれる。掌を中心に魔素が集い、詠唱を厳かに紡ぎ上げる。
「この部屋はすでに結界の影響下にあるのでな。どれだけ暴れようが外に影響が出ることはない。存分にやるが良かろうさ」
「ならば、遠慮無く。――――『降り注げ』!!」
――――精霊術・極大雷光呪――――
それは一直線上に放つ稲妻の砲撃。
短期決戦を吉と見て、アルバートは真っ先に最大出力の一撃を選択した。狙い違わず破壊の白光は彼我の距離を埋め尽くし、ユエラの肉身に到達する――
瞬間、バチンと音を立てて尾を引く雷光が消失する。
「――――な……!?」
魔力によって打ち消した、というにはあまりに唐突。
肉体で受けたにしてはまるで堪えた様子もない。
ユエラは平然と狐耳を掻きながらニヤリと口端を笑みに歪める。
「これで終いかえ?」
「……それこそ、まさか、だ!!」
ちいさく肩を揺らすユエラ。アルバートはそこに更なる攻撃術式を重ねる。
だが、そのいずれもユエラには通用しなかった。否、到達するまでに効力が消失してしまうのだ。まるで全てが水面に映りこんだ鏡像を撃つかのように。
「……だから、無駄だと言ったであろう?」
「馬鹿な……ッ!!」
アルバートの精霊術の破壊力は相当なものだ。それは彼個人が引き出した魔力のみならず、超自然の存在――精霊の力によって何倍ものエネルギーが乗せられている。
いくらユエラが莫大な魔力を有するとはいえ、それだけで全ての術式を安々と無力化できるとは考えがたいのだ。
ならば、なぜ通用しないのか。
考えられる理由はただひとつ。
「……幻術だな!? ユエラ、貴様、どこにいるッ!?」
「ここさ。おぬしが今見ている私こそが、本物のユエラに他ならぬとも」
「戯れ言を……ッ! いつから幻術をかけていたッ!?」
「何を勘違いしておるのかえ? ――――今からそうするに決まっておろう」
ユエラは微笑し、不意にゆっくりと前方に歩み出す。
アルバートは他に手立てもなく魔素を集約させる。有りったけのエネルギーを注ぎこみ、最大出力の術式を起動する。
「『薙ぎ払え』ッ!!」
――――精霊術・極熱獄炎呪――――
瞬間、炎の壁がユエラの眼前に立ちはだかる。彼女をそれ以上決して進ませまいとする。
――――だが。
「猪口才のう」
ユエラは淡々と炎の壁を突っ切り、踏み越える。
身に着けていた白いワンピースが焼け落ちるのも構わない。白い頬には煤けた痕跡の一つもない。
そして、ユエラはぬぅっと手を伸ばした。
彼女の繊細な指先がアルバートの額に触れる――まるで何かを掠め取られるような感覚を覚える。
アルバートは咄嗟に飛び退き、ユエラと幾ばくかの距離を置いた。
「……何をした?」
ユエラは「今から」と言った。その言葉は全く信用に値しないが、何かをしでかすつもりなのは間違いがない。
「なぁに、見てのお楽しみというやつよな」
ユエラは笑ってそう言い、虚空に掌をかざす。
その時、少女のすぐ目の前――ちょうど二人の間に立ちはだかるように、小柄な影が突如として出現した。
「……なッ……!?」
瞬間、アルバートは恐れおののく。慄かないではいられない。
彼の目の前に出現した小柄な影――明らかな幻術の産物であるそれは、アルバートのよく見知った人物だった。
まるで炎のように朱く長い髪。意志の強さをうかがわせる気丈そうなブラウンの瞳。身体つきは細く幼気で、しかし背中には異様に長大な剣を帯びている。150suにも満たない小柄な体躯は、薄絹の白いドレスと胸甲が一体化したような着衣に包まれていた。
その名を――アルバートと瓜二つの瞳を持つ少女の名を、アルバート・ウェルシュは如何ともしがたく知っている。
「……あ、アルフィーナ……ッ!?」
アルフィーナ・ウェルシュ。
アルバート・ウェルシュの実妹にして、彼以上に精霊に愛された〈勇者〉の血族の末裔。
「ユエラ、貴様、どうやってッ!? ……小癪な真似をッ!!」
こんなところにアルフィーナがいるはずはない。彼女は国家間の抑止力を担う存在として、国外への移動を堅く禁じられているからだ。
ゆえにこれは幻術だ。幻術でしかあり得ない。
「お兄さま」
――幻術でしかありえない、というのに。
彼女はアルバートの記憶通り、妖精のように可憐な声でうそぶく。
「お兄さまは、責任を取らなければなりません。ウェルシュの名を背負うものでありながら、このような失態」
彼女ならばそう言うだろうか。齢十五にも満たぬうちに『アズラ聖王国秘蔵の国防兵器』とすらあだ名された人外の存在。
初代〈勇者〉――アルベイン・ウェルシュの再来とも囁かれる圧倒的な才覚の持ち主。彼女を前にすれば、アルバートの力も一般的な範疇に収まるほど。
「ッ……や、やめろッ!!」
彼女こそは、まさしくアルバートの劣等感の源泉だった。
その少女自身が、アルバートの目の前ですらりと巨大な剣を抜き払う。瞬く間に剣身が渦巻く炎を帯び、燃え盛る焔はすぐにも天井へと達する。
幻術だ。幻術に過ぎない。
そう分かりきっているはずなのに、身体が、動かない。
「ですが、お兄さま自身が自害しなかったのは賢明です。エルフィリアまで巻き込んでしまうこともありません。ですから」
アルバートは何かを叫ぼうとする。もはや言葉も出なかった。
「私が、直々に手を下してさしあげます」
少女はアルバートに向かって大剣を振りかざし、そして――――振り抜いた。
◆
「……ちと、やり過ぎたかの」
気絶してしまったアルバートを置き去りに、ユエラはそっと扉を閉じる。
ともあれ、これでユエラを殺そうなどとは二度と考えるまい。そんなことは不可能だと思い知っただろうから。
「……何をなさったのか」
外で見張っていたレイリィが思わずというように問う。悲鳴でも漏れ聞こえたのだろうか。
「ちょいと悪い幻覚を見てもらっただけだ。すぐに目覚めようさ」
「もし彼に何かがあれば、枢機卿猊下にお叱りを受けるのは私ですので」
「なぁに、心配するほどのことでもなし。夢見が悪かったというくらいのものよ」
ユエラはいつから幻術を使っていたのか。
その結論は身も蓋もない――ユエラが部屋に入る前から、だ。
アルバートの術が部屋に影響を及ぼさなかったのもそのためである。
「……さて、私の用は済んだのでな。枢機卿の調子が良うなったら連絡をおくれ。一度は顔を合わせておきたいからのう?」
「……少々不本意だが、承知した。貴殿が恩人であることに変わりはない。一番に伝令を送らせるとしよう」
「うむ、頼むぞ」
ユエラは彼女に礼を言って公教会を辞す。そろそろフィセルやテオたちも片がついた頃合いだろう。
――また酒を用意しておかねばな。ユエラは今夜の享楽を想い、人知れず笑みを浮かべた。




