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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
99/115

十九

 凜たちが望内の町に逗留して、十日が経とうとしていた。

 その日は朝から雪が降りしきり、風も相まって吹雪に近く、外を出歩くような天候ではなかった。

 肉付きが薄く寒さに弱そうな割に毎日のように凜を連れ回していた陽鞠も、火鉢のそばで凜にくっついている。

 

 渚に付き添った日のことを、凜は最上のことも含めてすべて陽鞠に伝えていた。

 陽鞠はただ静かに話を聞き、それから一切そのことに触れてこない。


「そろそろ刀の研ぎも終わる頃かしら」

「そうですね」


 十日ほどかかると言っていた雪宗の言葉を、凜は思い出す。


「刀が戻ってきたら凜はどうするの」

「一度、大公に報告に戻らなければならないでしょう」


 状況自体は、望内に留まる案内人に書状を渡して陽鞠がすでに報告していた。

 それはそれとして、直接赴く必要があった。そうでなければ、報酬を受け取ることもできない。


「うん。その後は?」

「さて、どうしたものでしょうか」

「北玄州にしばらくいる?」


 話しながら、陽鞠は凜の手を取って甲を指先で撫でる。

 その撫で方が少し扇状的に感じられて、凜の背筋が粟立つ。


「陽鞠はどうしたいですか」

「私は凜といられればどこでもいい」


 ずるい答えだと凜は思う。

 それが本心なのだと分かってはいるが、それはそれとして好みはあるだろう。そういった意見くらいは聞かせてくれてもいいのではないか。

 それとも、そういったことも考えたことがない凜に、考えさせるために言わないのだろうか。

 陽鞠は頭と気が回りすぎて、先回りしすぎるきらいがある。


 凜は何かを答えようとして、何一つ決断できていないことに気がつく。

 そして、決断したこと以外を口にしようとしていないことに。性分というものは簡単には変えられないものらしいと、凜は内心で苦笑する。


「陽鞠」


 名を呼びながら、凜は空いた方の手で陽鞠を抱き寄せる。

 少しだけ驚いた気配が伝わってきて強張った体は、すぐに弛緩して凜に体を預けてきた。

 その耳元にゆっくりと語りかける。


「私は寒いところが苦手だと、ここに来て分かりました。寒さが嫌だというより、気が塞ぎます。ですが、以前に訪れた南朱州は少し暑すぎますね。人の多いところはそれほど好きではありませんが、田舎の密な関係も煩わしく思います。陽鞠が働きたいのは知っていますが、外に出られるのは色々な意味で心配です。家で芸事の師匠などはどうでしょうか。私は正直、剣を振る以外の何ができるか分かりません。自分一人なら何とでもなりますが、陽鞠に落ち着いた生活をさせてあげるにはどうすればいいのか悩んでいます。北玄大公や渚様の誘いも断る理由も、積極的に受けたいとも思えず困っています。陽鞠との暮らしを考えれば受けた方がいいので、余計に悩みます」


 胸の内をまとめなが、しかしひと息に言って、凜は小さくため息をついた。


「…済みません。何も決められなくて」


 苦笑いを浮かべる凜を、陽鞠が呆然と見つめていた。

 その顔が次第に嬉しそうに歪んで、眦にじわりと涙が浮かぶ。


「凜がそんなに心の内を話してくれるなんて嬉しい。私…私は」


 少し喉を詰まらせるようにした陽鞠は、言葉を選ぶように続ける。


「凜のそばにいられれば、ずっと旅をしていてもいいのは本当。でも、どこかに落ち着けるなら、その方がいいとも思っているの。そのための準備もしているのよ」


 陽鞠は襟元から書状を取り出して、凜に握らせる。


「これは?」

「私たちの人別送り証文」

「え…?」


 人別送り証文とは、人別帳の移動を許可する証文だ。これを新しく住む場所に届け出て、発行された請負証文が元々住んでいた場所で受理されれば人別帳の移動が完了する。


 しかし、凜が記載されている人別帳など、どこにもないし、陽鞠は貴族の謄本である分限帳にその名がある。人別送り証文など二人とも発行できる立場ではなかった。


「これがあれば、気に入った町で住民になれるから。だから、仕官とかは気にしないで」

「こんなものどうやって…」


 まともに手に入れられるようなものではなかった。

 巫女の陽鞠に発行されるわけもないし、巫女をやめた陽鞠にそんな伝手はない。

 そこまで考えて、ようやく凜は気がついた。


「蘇芳から、ですか」


 陽鞠は曖昧な微笑みで答えなかったが、それがもう答えだった。

 凜は手にした書状に目を落とす。


「…呆れた人だ。いつから、こんなことを考えていたのですか」

「ずっとよ。これが手に入ったのはただの僥倖だけれど、凜と一緒にいるために何が要るかは、いつも考えているから」


 これがこの人の本質なのだろうと、凜は改めて思い知らされる。

 陽鞠は他人に期待しない。だから夢を見ない。望みがあるなら、自分が現実に何ができるかしか考えない。

 結局どう生きるかすら決めあぐねている凜より、よほど世故長けているのかもしれなかった。


「もしかして、今回の件を引き受けたのも?」

「ええ。凜が言ったことでしょう。女が二人で生きていくのは簡単なことではないって」


 確かに言ったことは凜も覚えているが、随分と昔のことに感じる。

 あの頃の凜は、陽鞠をもっと世間知らずだと思っていたのだ。いや、世間知らずは今も変わらないが、その奥の芯の強さを見誤っていた。


「でも、大抵のことはお金があれば何とかなるでしょう」

「ふふ。確かにそうですね」


 浮世離れした陽鞠から出た俗な言葉に、凜は思わず笑いを漏らした。

 もちろん金銭も北玄大公の仕事を受けた目的の一つだと分かってはいたが、もっと深い理由もあるのだと思っていたのだ。


 そうであるなら、領主の館で感じた陽鞠が巫女に囚われていると感じたのが、ただの杞憂であることが分かる。

 あれはただ、仕事だからそれらしく振る舞っていただけなのだろう。


「私の望みは年老いて死ぬまで凜と一緒にいられること。手の届かない遠い夢だと思っていたけれど…」


 それは、誰でも願えるような小さな夢だった。

 そんな小さな夢が、陽鞠には夜空の星のように手の届かないものにずっと見えていた。


 この想いに応えたいと、凜は思った。

 そうするべきではなく、そうしたいと自然と胸の内から気持ちが溢れてきた。


「…やはり、大公や渚様の話は断ります。誰かに仕えれば、そこに責任が生まれます。私はあなたのこと以外に責任を負いたくない」


 凜が今まで陽鞠のことで何もかも擲つことができたのは、誰にも何にも縛られていなかったからだ。

 例え守り手ではなくなり、陽鞠との関係が変わってもそれだけは変えたくなかった。


「凜には私にだって責任なんてないのよ」

「いいえ。あります」

「何の責任があると言うの」


 凜は自分を見つめる金に輝く瞳を見返した。

 この人を守らなければという庇護欲を強く感じる。しかし、それとは相反するように陽鞠のすべてを自分のものにしたいという欲求があることに気がついた。


「あなたを幸せにする責任が」


 凜は寄りかかる陽鞠の体を、畳の上にゆっくりと横たえる。

 陽鞠はされるがままに、凜に組み敷かれた。


「私は勝手に凜についていって、勝手に幸せになるから、凜が責任を感じる必要なんてやはりないけれど。それでも凜がそう言ってくれるのは嬉しい」


 どこか期待という名の熱が籠った目で、陽鞠は凜を見つめていた。

 凜が頬を撫でると、陶然と目を細めて薄く唇を開く。

 顔を近づけると、応えるように陽鞠の目が閉じていく。瞼が閉ざされるのと、唇が重なるのは同時だった。


 三度目の口づけは、しかし凜にとって今までとはまったく違うものだった。

 今までももちろん不快なわけではなかったが、どこかくすぐったいようなもどかしさの方が強かった。

 しかし、今触れている陽鞠の小さな唇は、甘く、柔らかく、震えがくるほど心地よかった。

 もちろん、唇に味などするはずがない。そういう感覚でしかないことは凜も理解していたが、夢中になるには十分な甘露だった。


 蕩けた顔で唇を受け入れる陽鞠の体から、くったりと力が抜けていく。

 その背中に手を回して、背筋を指先で撫でると口づけの合間に甘い声を漏らす。

 抱きしめるようにしていると、華奢だが柔らかな陽鞠の体が、自分と同じ女であることを凜に強く感じさせた。

 何度も撫でていると、くすぐったいのか逃げるように背中を反らすせいで、唇が離れる。


 体を起こした凜が見下ろすと、陽鞠は乱れた着物を直しもせずに、焦点の合わない涙目で荒い息をついていた。

 乱れた襟から覗く胸元や、裾が割れて晒された足の白さが背徳的で、暴力的ともいえる衝動が凜の中に芽生える。


 凜の指が帯紐に触れると、微かに身動ぎした陽鞠が手を重ねてくる。

 肌を見られることを嫌がる陽鞠に、流石に抵抗されるかと凜は思ったが、重ねた手が動きを妨げることはなかった。


「陽鞠…」


 名を呼んだのは、あるいは止めて欲しかったのかもしれない。

 この帯紐を解いて自分が何をしようとしているのか、凜はまったく分かっていなかった。


「り、ん」


 あどけない、しかし凜のすることをすべて受け入れる深い情愛を感じさせる陽鞠の声に、心のたがを溶かされるようだった。

 重ねられた陽鞠の手のひらが、自分を逃さないようにしているようにすら感じられる。


 凜の手が帯紐にかかったその瞬間だった。

 家の外から乱暴に戸を叩く音が聞こえてきたのは。

 戸は何度も、危急を告げるように叩かれている。


 凜の頭は一瞬にして醒めた。

 しかし、それとは裏腹に体はまったく動かなかった。普段であれば何があっても対応できる体勢に移行するはずが、陽鞠を組み敷いたまま身動き一つとらない。


「…何かあったみたい」


 陽鞠の声からは先ほどまでの色は失われ、それが凛を現実に立ち返らせた。


「そのようです」


 自分の中のわけのわからない熱を吐き出すように息をついて、凜は身を起こした。

 合わせるように体を起こした陽鞠が、乱れた襟を引き寄せながら、凜の耳元に触れそうなほどに唇を寄せる。


「あとで続きをしてね」


 囁くような陽鞠の声は、脳を蕩けさせるように甘さを含んでいた。

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