十八
近年の北部開拓の拠点として発展した望内の町並みは、王国様式の煉瓦造りの建物がほとんどだ。
赤茶色の町並みに白い雪が降り頻る様子は異国情緒を漂わせていた。
それを物珍しがった陽鞠に付き合って町中を見て回った凜は、大きな通りなら大体は把握している。
渚と歩いている道は、初日に領主の館に向かったのと同じ道だった。
凜は渚の隣を歩き、その後ろを護衛の衛士が三人ほどついてきている。
衛士のうちの一人は、槐の護衛についていた瘦身の男だった。
陽鞠と離れることに若干の不安は感じているが、陽鞠の身に危険があるとは凜も思ってはいなかった。
本来であれば雪宗と二人きりにすることをもう少し警戒すべきかもしれないが、どういう意味においても凜は雪宗をあまり警戒していない。
それは雪宗の目に邪なものがないからではあるが、根拠としては薄いものであることも自覚していた。
それでも感じる不安は、陽鞠から離れることそのものに対するものだった。
あまり離れたくはないが、それが陽鞠に対する依存心からきていることも理解していた。自分で決めることに慣れる必要があるだろうとも思っている。
「凜様はこの町をどう思われますか」
渚の問いかけが漠然としてものに感じられて、凜は少しだけ答えあぐねる。
「…いい町ではないでしょうか。開拓で活気がありますし、見どころも多いです。この寒さは慣れませんが」
最後のひと言を凜は冗談めかして言ったが、渚は笑わなかった。
「私は好きではありません。土着の民と開拓民の土地をめぐる諍い。それを抑えるために軍部が強い力をもち、お父様はいつもその調停に苦慮しておりました。寒さで栽培できる作物は限られ、毎年何人も餓死者や凍死者が出ております」
淡々と語る渚の目は、為政者の目だった。
それは凜には持ちえない目だ。どんなに箱入りに見えても、渚の肩にはこの町の民の命が乗っている。
「いっそこんな土地を捨てて、もっと豊かな土地に移ってしまった方がいいと思いますが、人がこの島から消えれば大陸の侵略の橋頭堡にされてしまうでしょう」
だからこそ、朝廷は北玄州の開拓に莫大な予算を割いている。
言葉を選ばなければ、朝廷のある西白州を囲む他の州は侵略時の壁と言えた。
「私はこの町を離れられません。私がいなくなれば、叔父様と軍部の力が強くなりすぎます。軍部を抑えられる方を夫に迎え、お父様の後を継いでもらわなければなりません」
渚が吐いた小さな白い息は、どこに行くこともなく消えた。
軍部を抑えるだけの力を持つのなら、それは二十歳や三十歳の若者ではないだろうと凜にも想像できた。それこそ、父親と変わらない歳の人物の可能性が高い。
歩む先に目を向けたまま、渚は言葉を紡ぐ。
「凜様たちが羨ましい、と言ったらきっとないものねだりなのでしょうね」
「そんなことはないかと思いますが」
「何もかも投げ捨てて、市井で生きていくことなど私にはできません」
「立派なことだと思います」
自分たちが責務から逃げていると詰られるのは、仕方のないことだと凜は思っている。
先に切り捨ててきたのは国の方ではあるが、その国の中で生きるなら、そのための責務は果たさないといけない。
「いいえ。責任感などではなく、そういう生き方ができる力がありません」
「力、ですか」
「畑を耕す人が明日から職人として生きられますか。無理でしょう。私には市井で生きる覚悟も力もありません」
それが普通だろうと凜も思う。
凜とて、陽鞠が巫女の地位を捨てて生きられるとは思っていなかった。
もし、王国の暗躍がなく陽鞠が巫女の立場を追われることがなかったら、果たして陽鞠は今のように自分についてきただろうか。それは凜にも確信をもってそうだと言うことはできなかった。
「ですから、私はきっとこのまま天羽の娘として生きていくのだと思います。顔も知らない殿方を夫に迎え、子供を産んで天羽家を次に繋ぐ。ただそのためだけに」
それは何も珍しいことではない。むしろ、当たり前の生き方だ。
誰かを好いて、その人と結ばれることなど市井であっても珍しい。
「それを嘆いたりはしません。ただ…」
足を止めた渚の目が、凜を見上げた。
「もしかしてあったかもしれない夢の欠片をそばに置ければ、慰みになるかとは思います」
凜は陽鞠より少しだけ背の高い娘を足を止めて見下ろした。
この娘は世間を知らない箱入りではあるのだろう。しかし、娘らしい夢を見られるような境遇ではなかった。
それを哀れだとは思わない。ただ、何かの手助けくらいはしてやりたいとは思う。
「私におそばにいろと」
「もちろん、陽鞠様と引き離そうなどと考えてはおりません。むしろ、二人が寄り添っていることが、きっと私の夢の形なのだと思います」
「しかし、それは辛くありませんか。自分が掴めなかった夢の名残りを見続けるのは」
自分たちの関係をそのように言われるのは面映ゆかったが、触れることのできない幸福を近くで見続けることは自傷行為のようにも凜には思えた。
それは渚の心を追い詰めていくだけで、手助けとは言えない。
「そうかもしれません。ですが、痛くても心の寄る辺になるものもあるのだと思います」
透明な微笑みを浮かべて、渚は再び歩み始める。
それからは渚は一度も口を開くことはなく、やがて天羽家の屋敷の前までたどり着いた。
門扉を潜った渚はゆっくりと振り返り、凜に頭を下げる。
「凜様、お付き合いいただきありがとうございました。よろしければ朝餉を振舞いますが」
「いえ、私はここで失礼します」
断る凜にも微笑みを浮かべたまま、渚は答えを求めたりはしなかった。
軽く会釈をして背中を見せる渚に、凜は声をかける。
「渚様。先ほどのお話、少し考えさせてください」
渚は振り向かないまま、しかし小さな肩を震わせて足を止めた。
「凜様がお世辞を言う方でないことは心得ております。お返事をお待ちいたします」
振り向かずに言葉だけを残して、渚は屋敷の中に戻っていく。
それを見送ってから、凜は目を横に流した。
門扉の横に立って凜を見ていた痩身の衛士と目が合う。
いや、合わない。どちらも真っ直ぐお互いを見ているようで視点は遠く、広い視野に相手を捉えている。
「何か用か」
凜が問いかけると、男は腰の剣の柄を左手でくびるように握った。
「俺の前に丸腰で立つとは、少し買い被ったか」
男の声は、存外に落ち着いた低く抑制のきいたものだった。
「お前は丸腰の私を斬ったりはしないだろう」
「ほう。何故そう思う」
「人斬りに魅入られたものにも二種類いる。人を斬ることそのものに魅入られたものと、瀬戸際の死闘に魅入られたものだ。お前は明らかに後者だな」
「そうとは限るまい」
凜はつまらなそうに鼻で笑う。
「剣を持たぬ私に欠片の殺気も見せぬくせに何を言うか。そもそも、人を殺したいだけの輩は私を狙ったりはしない」
白けた態度になる凜に反するように、男は面白そうに低い笑いを漏らした。
「道理だな。では、お主はどちらの人斬りなのかな」
「どちらでもない。人を斬ることを楽しいと思ったことなどない」
「では、お主は三番目の人斬りだな」
「なに?」
「本人の性とは関係なく人を斬る、お主自体が血を呼ぶ生粋の人斬りだ」
その言葉に、凛は反論できなかった。
血が血を呼ぶのでなければ、ここまで血に塗れた人生にはならなかったと、凜自身も思っていたからだ。
「人斬りを指向せぬものが、そんな血の匂いをさせるものかよ。現にお主は俺の殺気に応じて、どう殺すか考えていたではないか」
その通りだった。
ごく当たり前のこととして、凜の中に人を斬ることが物事の解決手段として存在する。
その行為が好きではなく、後始末も面倒だから取らないだけで、話し合う、金を払うなどと同列にその選択肢が常に凛にはあった。
それを人斬りというなら、その通りなのだろう。
「あれは素晴らしい時間であった。あの時、俺が抜いていれば小僧に邪魔され、俺が斬られていた。そこまで、お互いに思考が一致したことが手に取るように分かった」
「お前は何が言いたいのだ」
自身の異常性を浮き彫りにされるようで、凜はこの男との会話が不快になっていた。
断ち切るような凜の言葉に、男の顔から楽しげな笑みが消えた。
「見定めたかっただけだ。いずれ剣を交える相手かどうかをな」
「私がお前と剣を交える謂れなどない」
「理由など関係がないな。剣を交える相手とはそのような定めになっているのだ」
華陽のようなことを言うと、凜は音もなく舌打ちを漏らした。
剣士などという生き物は、凜にとって誰も彼も理解不能であった。自分が剣を遣うだけで、剣士ではないのだということをあらためて実感する。
「知るか。勝手に妄想していろ」
捨て台詞のように言い捨てて、凛は男に背中を向けた。
その背中を男の言葉が、不吉な影のように追いかけてくる。
「俺の名は最上一刀。いずれお主を斬るものの名だ」




