十七
凜が渚とともに出ていった後、二人分となった朝餉の準備を陽鞠が続けていると、鍛冶場からのそりと雪宗が姿を現した。
陽鞠が横目で見ていると、何を言うでもなく土間の上り框に腰を下ろす。
雪宗の視線を受けながら、陽鞠は手を進める。
寒冷な北玄州では米が育ちにくいため、主食となるのは麦か芋が中心だ。蒸したじゃがいもをすり潰してこねる。
味噌や醤油も貴重で調味料が乏しいため、昆布で出汁を取った後に、鰊の塩漬けと野菜を一緒に煮込む。
陽鞠にはあまり馴染みのない料理だったが、雪宗から調理法を聞いてすでにコツを掴んでいた。
「手際がいいのだな」
陽鞠の背中に、ぼそりと声がかけられる。
「それほどでもありませんが」
「巫女ともなれば、料理などする機会はなかっただろう」
雪宗の問いに、陽鞠は振り向かないまま答える。
「短い間ですが、長屋暮らしをしていたこともあります。その時に凜に教わりました」
「巫女が長屋暮らし?」
「巫女巫女と言わないでいただけませんか。もう、辞めていますので」
「まだ、巫女の力が失われる歳ではないだろう」
かまどに火吹き棒で息を送りながら汁物の煮込み具合を見ていた陽鞠が、ゆっくりと振り向く。
「随分と巫女にお詳しいのですね。それも華陽様に聞いたのですか」
庶民にとって、巫女は御簾の向こうの存在だ。巫女が二十年に一人だけ生まれることや、二十歳から三十歳の間に巫女の代替わりが起きることなど、一般に知られていることではない。
「…まあ、そんなところだ」
雪宗が言葉を濁したことに気付かない陽鞠ではなかったが、追及はせずに目を鍋に戻した。
鍋が煮立ったあたりで火を弱めて、芋饅頭を焼き網にかける。
表面に薄く焦げ目がついたあたりで火から下ろして、かまどの火を落とす。
「できました」
「ああ。後は勝手に食べておく」
この三日、陽鞠たちと雪宗は食卓をともにしたことはない。
それどころか、ほとんど陽鞠たちの行動に干渉してこなかった。同じ屋根の下にいるというだけで、会話すらも最低限にしか交わしていない。
「凜もいませんし、一緒にいただきませんか」
框から腰を上げた雪宗の動きが、ぴたりと止まる。
考えを探るような目を向けてくるが、陽鞠は笑みを浮かべて受け流した。
「まあ、かまわないが」
歯切れ悪く答える雪宗には構わず、陽鞠は料理を盛り付けていく。
お膳を持ち上げようとしたところで、横合いから雪宗が取り上げてしまった。
顔を見上げる陽鞠とは目を合わさず、そのまま家の中に持っていってしまう。
くすりと笑みを漏らして、陽鞠はその背中を追いかけた。
鍛治仕事をしている姿の印象が強くて気がつきにくいが、雪宗の後ろ姿は姿勢が良く、歩き方も静かでどことなく品の良さのようなものを感じさせる。
槌を振るう体は引き締まってこそいるが、骨太というわけでもなく、線が細いとすらいえた。
自室ではなく、居間に入った雪宗はお膳をちゃぶ台に置いてのそりと腰を下ろす。
向かいに陽鞠が座るのを待ってから、ぼそりと「いただきます」と漏らした。
「いただきます」
陽鞠が言うのに重ねるように、雪宗は食事に箸をつけはじめる。
自分も箸を持ちながら、陽鞠は雪宗の様子を観察していた。
陽鞠と目を合わさず、俯き気味に食事を進める姿は、一見するとどこにでもいる町人に見えなくはない。
気品に満ちた陽鞠と並べれば、知らぬものが見れば野卑に映っても仕方がないだろう。
しかし、陽鞠にはそうは見えなかった。
かき込むように食べるように見えて、箸が椀に触れる音をほとんど立てない。咀嚼音がしない。箸を深く汚さない。
本人すら意識していないところに行儀の良さが染み付いている。
食の細い陽鞠より先に食べ終えても、雪宗は席を立たなかった。
陽鞠が食べている間、何を言うでもなく視線を落としている。
ゆっくりと食べ終えた陽鞠が箸を置こうとすると、ほとんど同時に雪宗は腰を上げようとした。
「私と凜はひと月ほど前まで、長屋に住んでいました。私が巫女を追われたからですね」
陽鞠の言葉に、上げかけた雪宗の体の動きが止まる。
「…何の話だ」
「先ほど聞かれたでしょう。巫女がなぜ長屋暮らしをしていたのかと」
「疑問に思っただげだ。問いかけたわけではない」
腰を浮かした体勢のまま、雪宗はどこか誤魔化すような口調で言う。
「私と凜が出会ったのは、十五歳になる一年ほど前のことでした。春とは名ばかりのまだ寒い二月の皇都です」
戸惑う雪宗にかまわず、陽鞠は一方的に話し続ける。
「あの日のことは今でもよく覚えています。きっと、一生忘れることはないでしょう」
遠い目をして言う陽鞠に、雪宗は上げかけた腰を下ろした。
「私はかつて、夕月陽鞠という名でした」
「西白大公家の縁のものか」
「西白大公夕月紫星の娘でした。母は先代の巫女凜音です」
大公の娘ということより、巫女の娘だということに雪宗の表情が動いた。
どこか懐かしむような目で、陽鞠の顔を観察する。
「…なぜ、大公の娘であることを過去のように語る」
「そうなるに至った顛末を、これからお話しします」
陽鞠の言動が理解し難いのか、雪宗は顔を顰めた。
「雲の上の話など俺にしたところで…」
「別に私の身の上の話をするわけではありません。私が知る凜のことをお話しするには、必然的に話さざるをえないだけです」
理屈にもなっていないと思える陽鞠の言葉に、しかし雪宗は何も言い返しはしなかった。
そして、陽鞠もそれを当然のこととして話を続ける。
「凜がいかに私と出会い、生きてきたのか。それをお伝えします。それは凜の人生のほんの数年のことでしかありませんが、私にはそれしかお話しできることがありません」
「それを俺に話していいのか」
「よくはありません」
陽鞠の声には、冷たい怒りすらこもっていた。
いつも浮かべている柔らかな微笑みもいつの間にか消えている。
「勝手に凜のことを話して、知られたら不快に思われてしまうかもしれません。それに何より、凜との思い出は私だけのものです。誰とも分かち合いたくなどありません」
「それほど大切にしているのなら、それこそ俺に聞く資格はない」
「勘違いなさらないで。貴方は聞かなければならないのです」
二十歳以上も年下の娘の厳しい言葉を、しかし雪宗は神妙な表情で受け止めた。
「…確信があるのか」
「そんなものはありません。貴方が一度でも誤魔化したり、否定するそぶりを見せたなら話すつもりはありませんでした」
お互いに核心は口にしないまま、それでも二人の会話は通じていた。
「そうか。試されていた、というわけか」
「その頑ななまでの律義さがよく似ていて、とても不愉快です」
雪宗は知らないことだが、陽鞠がここまで他人にあからさまに不機嫌な感情を見せることは珍しいことだった。
「ですから、凜のことを話すのは私情も混ざっていると先に申し上げておきます。凜の歩んできた道を知れば、貴方はきっと苦悩するでしょうから」
表情の消えた陽鞠の冷たい声が、雪宗を打つようであった。




