十六
凜たちが望内を訪れて五日目の朝。
日中はほとんど鍛冶場に篭っている雪宗に、宿代がわりに家事をすると言い出したのは陽鞠だった。
とはいえ、やもめ男と自分たちしかいない家の家事などさして時間もかからない。
陽鞠は時間が空くと凜を誘って望内の町を散策していた。
その日も、今日はどこへ行こうかと考えながら陽鞠が朝餉の準備に土間に入ると、隣接した鍛冶場から、雪宗以外の声が聞こえてきた。
木戸越しでは陽鞠にはかろうじて聞き取れる程度で、誰かは分からない。
「渚様の声ですね」
隣に立つ凜が、陽鞠の疑問に答えるように漏らした。
凜が自分以外の人の名を口にすることに、陽鞠は微かな苛立ちをおぼえる。
自分が相当に嫉妬深い人間であることに、陽鞠は自覚的だった。
凜が自分以外の人に想いを寄せるとは思わない。それでも、凜に見惚れる目が嫌いだし、触られるのは許せないし、心に入ってこようとするのには殺意を覚える。
自覚的だからこそ、陽鞠はそれをあまり表に出しすぎないように気を付けていた。
少しくらいの嫉妬であれば、可愛いと思ってもらえるかもしれないが、度を越せば嫌悪になりかねないと陽鞠は理解している。
「また、刀の無心でしょうか」
自覚は薄いのかもしれないが、凜は渚を気にかけている。
それは陽鞠に向けてくれるものとは別かもしれないが、それでも凜の心の一部を奪われたようで愉快ではない。
「どうかしら。気になるの?」
言ってから、嫌な言い方だっただろうかと陽鞠は不安になる。
「そう、ですね。気にならないと言えば嘘になります。気にする理由などないはずですが」
そこは嘘でも気にならないと言ってくれればいいのにと、不安が不満に裏返る。
「綺麗な人だものね」
「それが何か関係あるのですか?」
心底、不思議そうな凜の顔が、いっそ憎らしかった。
自身も含めて人の容姿に無頓着なところは、凜らしくはあるが危うさも感じる。言ったところで本当のところは理解してくれないことも分かっているから、陽鞠が気をつけるしかなかった。
いつの間にか話し声は途絶えており、木戸が開いて雪宗がのそりと姿を見せた。
「天羽家のお嬢様が、お前たちに用があるそうだ」
「私たちにですか?」
立場にしては、随分と身軽な振る舞いだと陽鞠は思う。
用があるなら、まずは呼びつけるのが当然の立場だろう。
「何の用でしょうか」
「知らん。直接聞け」
陽鞠の疑問ににべもなく答えてから、雪宗は鍛冶場に戻っていく。
陽鞠は凜と顔を見合わせた。
「どうしよう」
「断って角を立てる方が面倒でしょう。話くらいは聞いてもいいのでは」
凜の言うことはもっともだが、いつもの凛なら陽鞠の好きにすればいいと言ってくれるのではないだろうか。
無意識に渚と会うことを肯定的に捉えているようで、蟠るものを覚える。覚えてから、邪推が過ぎると、陽鞠は冷静になろうと小さく息を吐き出す。
「そうね。でも天羽家の問題に関わる気はないから」
「それがいいでしょう」
凜に釘を刺すつもりで言ったことを、陽鞠の意思表明ととられたことにため息をつきたくなった。
お人好しなところがある凜が、厄介ごとに首を突っ込まないために牽制しただけだったのだが。
あまり気は進まなかったが、凜の言う通り断る方が面倒そうだと思い、陽鞠は鍛冶場への木戸を開けた。
鍛冶場に入り、作業を再開している雪宗の向こうで、渚は所在なさげに佇んでいた。
外に護衛の衛士はいるのだろうが、今日は緒方を伴っていなかった。
渚の姿を見た瞬間、陽鞠は木戸を閉じて凜が入ってくるのを阻止したい衝動に駆られた。
派手ではないが三日前に着ていた着物よりも、明らかに仕立てのいい艶やかな袷着物。防寒のための厚手の刺し子も瀟洒で、野暮ったさを感じさせない。
結い上げた艶やかな黒髪に映える、精緻な透かし彫りのされた簪。
薄く紅を引いた唇。
そのまま見合いにでもいけそうな、華やかな装いだった。
普段は気にもならない旅暮らしで色褪せた自分の着物の襟を、陽鞠は指で押さえた。
白い髪を目立たせるのが嫌で、簪も櫛もしていない。
年下のはずの渚だが、並べば陽鞠の方が幼く見えるだろう。
鍛冶場に入ってきた凜が、渚を見ても何の反応もしめさないことに陽鞠は少しだけ安堵した。
「朝早くに申し訳ございません」
装いに反した奥ゆかしい態度で、渚は小さく会釈をする。
「何かご用と伺いましたが」
「はい。先日の無礼の謝罪をしに参りました」
「謝罪、ですか?」
「こちらの願いで母に会っていただいたのに、あんなことになってしまい。お見送りもできずに申し訳ございませんでした」
言葉とともに、渚は深く頭を下げる。
「頭をお上げください。こちらこそ、お母上の心を乱してしまい申し訳ございません」
悪いとは思っていないが、言ったこと自体は事実だと陽鞠は思っていた。
自分が同席せずに凜だけであれば、ああはならなかったであろう。
「母がああも過剰に反応するとは思いませんでした。華陽様と凜様はそんなに似ておられるのですか」
それは陽鞠にとってあまり触れられたくない話題だった。
自身の容姿に関心のない凜は、普段から鏡を見ることがほとんどない。だから気付かないが、側から見れば二人が似通っていることは一目瞭然だった。
大人びてきた凜は、陽鞠が一度だけ会った若い頃の華陽とほとんど見分けがつかない。
「そうですね。女剣士は珍しいですから、やはり雰囲気が似るのでしょう」
なにくわない顔で、陽鞠ははぐらかす。
疑惑を持ったのか、渚の表情が微かに曇った。
「…凜音様というのは、先代の巫女様のお名前だと聞き及んでいます。陽鞠様は縁者なのでしょうか」
「さあ。存じ上げません」
拒絶を感じたのか、渚の目が陽鞠から凜へと移る。
陽鞠は釣られて見たりはしなかったが、凜の態度からも何も読み取れなかったのは顔を見ていて分かった。
「それを聞きに来られたのですか」
「いえ、詮索じみたことを申し訳ありません」
軽く頭を下げて、渚は居住まいを正した。
「陽鞠様。凜様と少しお話をさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「それは、凜と二人だけでという意味ですか」
「はい」
もちろん嫌に決まっていたが、陽鞠にとってもいい機会ではあった。
陽鞠たちの話が聞こえていないはずもないのに、黙々と作業を続ける雪宗を一瞬だけ見る。
「何故、私に言うのですか」
「凜様は貴女の許しがなければ、頷いていただけないでしょう?」
分かってはいたことだが、わずかな付き合いしかない渚にもそう見えてしまうことに、陽鞠は忸怩たる思いを抱く。
どこか主従関係の軛から逃れられないことは、陽鞠も何とかしたかった。
それは、凜が判断を陽鞠に委ねていることばかりが原因ではない。その関係であれば凜の行動を束縛できることに、陽鞠自身も安心しているからでもあった。
分かってはいても、他人から指摘されるのは凜との関係が対等なものではないと言われているようで愉快ではなかった。
「そんなことはありません。凜が決めることに私が口を出したりはしません」
反発するように陽鞠が言った瞬間、凜に腰を抱き寄せられて悲鳴を上げそうになった。
悲鳴を飲み込むように、短く息を飲み込む。突然のことで頭がついていかず、体の反射だけが作用して、お腹の奥が熱をもつ。
三日前よりも、強めに抱き寄せられた。
流石にわざとだろうと思い、少し非難を込めた目で凜を見上げる。
「そんな悲しいことを言わないでください」
何かを言うよりも早く、言葉が降りてくる。黒曜石のような瞳が悲しげに揺れており、陽鞠の胸は罪悪感で潰れそうになった。
「私のことは私が決めます。ですが、私のことは陽鞠のことでもあるのだから、そんなふうに突き放さないでください」
「はい。ごめんなさい」
真っ白な頭で、陽鞠は思わず謝ってしまう。
こんなのずるい、卑怯だ、という考えが浮かび上がるが、凜に見つめられているとどうでも良くなる。
口づけをしたい衝動に駆られて、背伸びをしかけたところで、小さな咳の音で我に返った。
音の主は、薄らと頰を染めている渚ではなかった。
こちらには目を向けないまま、雪宗が出した咳だった。
陽鞠は慌てて腰の凜の手を引き剥がして、一歩距離を取る。
「…それで、凜はどうしたいの」
「そうですね。まあ、話くらいは聞いても構いませんが」
あまり気乗りのしなさそうな声で、凜が答える。
「しかし、陽鞠のそばを離れるのは…」
「大丈夫よ。この家で何かあったりはしないから」
陽鞠が言うと、凜はその言葉の裏を窺うようにじっと顔を見つめてくる。
しばらく見つめた後、そこに何も見つけられなかったのか、凜は小さく息を吐く。
「分かりました。遅くならないようにしますので、陽鞠も外には出ないようにしてください」
「もう。凜は心配しすぎ」
小言じみたことを言う凜を軽く流しながら、渚の方に向き直る。
「渚様。凜を少しの間、お預けします」
「はい。お預かりします」
言葉とともに、二人の視線が交わる。
渚の目に浮かれた様子は欠片もなく、湖水のように落ち着いていることに、陽鞠は意外に思った。




