十五
大公への手紙を預けた凜と陽鞠は、雪宗の家への帰路についていた。
流石に陽鞠も物見遊山の気分ではなくなったようだ。単純に歩き疲れただけかもしれないが、と小料理屋で足を伸ばしていた陽鞠を思い出して凜は思う。
陽鞠は旅の間は体力配分を間違えない。しかし、今日の陽鞠は大分張り切っていたし、凜も止めなかった。
「足は大丈夫ですか」
手を繋いだ陽鞠の足に合わせてゆっくりと歩きながら、凜が問いかける。
「少し疲れただけだから大丈夫」
言葉だけではなく、陽鞠の顔色も見て無理はしていないだろうと凜は判断する。
「…陽鞠。もう閉じ込めたりしませんから」
唐突ともいえる凜の言葉に答えはすぐに返ってこず、手を握る力が強くなった。
「…うん」
短く答えて頷いた陽鞠に、きっと意味は通じたのだと凜は思う。
陽鞠は二人で町歩きするのが久しぶりだから張り切ったと言ったが、きっとそれだけではない。刀を持たない凛が、いつ外に出るのは危険だと言い出すか分からないと考えていたのだろう。
「でも、あれは私も納得してのことだったから。凜に閉じ込められたなんて思っていないよ」
「そうですか」
微かな笑みを浮かべて、凜は陽鞠の言葉を受け止める。
自分の反省はそれとして、陽鞠が違う受け止め方をしていても、穏やかに受け入れることができる。
陽鞠とは考え方が違っても、そばにいていいし、いてくれるのだと自然と思うことができた。
凜が手を握る力を少しだけ強めると、陽鞠は嬉しそうに身を寄せてくる。
その温かさを感じながら、陽鞠は何を求めているのだろうかと凜は考える。
こうして触れてくる時や、口づけの時など、陽鞠からは単に触れ合いたい以上のものを感じる。とはいえ、女同士でそれ以上とは何なのだと凜は首を傾げてしまう。
男と女のような関係だろうか。
凜とて、そういうものがあるということくらいは知っている。
剣の里は女だけの集団だったため、中にはそういう関係にあるものもいたからだ。
自分と陽鞠がそういう関係になることを想像しようとして、凜は失敗した。
別に忌避感があるわけではない。それどころか、凜自身は普通に受け入れられた。
ただ、誰かに体を許す陽鞠というのが、うまく想像できなかった。
巫女ではない、ただの娘である陽鞠を、凜もまだ受け入れきれていないのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えている時でさえ、凜の意識は周囲への警戒を怠ることはない。
郊外に出てしばらく歩き、辺りに家屋がまばらになった頃。ぴたりと凜は歩を止めた。
何を言うでもなく、陽鞠が繋いでいた手を離して凜の背に回る。
凜は陽鞠の、こうした弁えているところがとても好ましかった。護衛という立場で陽鞠に困らされたことが、凜には一度たりともない。
「いい加減、出てきたらどうですか」
振り向きながら言う凜の言葉に応じて、物陰から三人の男が姿を現す。
格好こそ普通の町人のようであったが、頭巾を被って顔を隠していた。腰には脇差を差している。
「殺気もないので放っておきましたが、つけ回されるのも不愉快です。用があるなら早く済ませてください」
男たちの動きは、無頼や物取りというには洗練され過ぎていた。凜の目には、訓練を受けた衛士のものだと一目で分かる。
男たちの視線を凜は郊外に出る、大通りの端あたりから感じていた。人気の少ないところで娘を襲おうという無頼でなければ、凜たちが雪宗のところにいることを知っていて、待ち構えていたというところだろう。
「…この町を出ていけ」
男の一人が、頭巾でくぐもった声を発する。
「言われずとも用が済めば出ていきます」
男たちが衛士ならば、指示を出しているのは槐でまず間違いないと凜は思った。
自明すぎて、裏があるのかと疑ってしまうほどだ。槐の短慮に凜は呆れる。
これでは後ろ暗いところがあると言っているようなものではないか。
「すぐに出ていけ」
「用が済めばと言ったでしょう。預けものが戻ってくるのを待っているだけなので、十日ほどのことです」
男たちの生半可なやり方に、凜はむしろ気を削がれていた。
ここは一切手を出さないか、徹底的に殺しにかかるかの二択だろう。
娘二人など、脅せばすぐ出ていくと甘く見たのだろうか。あるいは、巫女の力を見せた陽鞠に手を出すことを恐れているのかもしれない。
どちらにせよ小物感が拭えないが、それだけに愚かなことをしそうで、凜は気持ち悪かった。
「あなた方の主に伝えなさい。余計なことをしなければ、こちらから関わるつもりはないと」
凜の泰然とした態度に、男たちから戸惑いの気配が発せられる。
手を出すことは禁じられていたとしてもが、ここで手を引けば子供の遣いも同然だ。
「それとも、ここでやりますか」
「…そちらの娘には手を出すなと言われているが、貴様には何も言われていない」
自分を殺せば、陽鞠が恐れて逃げ出すということだろうか、と凜は呆れる。
陽鞠という為人を知らないにしても、一度でも話せば分かりそうなものだが。
「凜に何かあれば、絶対に許しません。あらゆる手を講じて、この世に生まれたことを後悔させます」
美しいが冷ややかな陽鞠の声が男たちを打つ。
可憐な娘が言う大仰な言葉を、しかし誰も笑い飛ばせなかった。
むきになるでもない淡々とした物言いは、それが本当に行われるのだと信じさせるだけのものがあった。
先ほどの無頼の輩であれば、陽鞠の言葉の重みよりも感情的な反発を優先できかもしれない。
しかし、裏仕事を任せられるほどの修羅場を知るからこそ、陽鞠の言葉がはったりではないことが理解できてしまった。
「顔を隠せば逃れられるなどと思わないことです。それならこの北玄州を火の海に沈めてしまえばいいだけのこと」
本当にやるだろうな、と聞いている凜は思った。
おそらくは自分の心と体を対価として切り売りして、燃え尽きるまでその火は止まらないだろう。
「凜を殺すなら、私もこの場で殺すことをお勧めします」
「まあ、そもそも、そんな簡単に私を倒せると思わないでもらいたいですが」
強がるでもなく、淡々と話す二人の娘は、その道程を知らぬものから見れば不気味でしかない。
凜が半歩、距離を詰めると、男たちはその分後ろに下がった。
下がってしまった時点で、この場の趨勢が凜の方に流れていることを男たちも悟った。
「…警告はしたぞ」
捨て台詞を残して、男たちは素早く物陰に消えていく。
その気配が完全に消えるのを待ってから、凜は小さく息をついた。
側から見るほど凜に余裕があったわけではない。
もし男たちが犠牲を厭わず凜を仕留める覚悟できたなら危うかった。陽鞠の言葉がなければ、そうなっていた可能性も十分にあっただろう。
「凜…」
袖を引かれて凜が振り向くと、陽鞠が眉を下げて不安そうにしていた。
「私、余計なこと言わなかった? 料理屋では余計なこと言って火をつけてしまったから」
気づいていたのかと、陽鞠の聡さに凜は内心で舌を巻く。
あんなのは事故のようなもので、わざわざ言うほどのことではないと思っていたのだ。
「余計どころか助かりました。料理屋の件も陽鞠のせいではありませんよ。あれだけ短慮な輩だとどうにもならなかったでしょう」
「それならいいけど…」
尚も何か言いたげに、上目遣いを向けてくる陽鞠に、凜は首を傾げる。
「もう、外に出たら駄目だよね」
「どうしてですか」
「だって、結局こんなことになってしまって。刀もないのに凜は不安でしょう」
陽鞠の言葉に、凜はすぐに答えず考える。
確かに守り手の自分なら、そう言っていただろう。しかし、今の凜はまったくそうは思わなかった。
「確かに不安がないといえば嘘になります。ですが今日、刀があればどちらかでは斬っていたでしょう」
「やはり、身を守るためには必要?」
「いえ、なくても意外と何とかなるものだな、と。もちろん、今日はたまたまではありますが」
偶然に頼るわけではないが、そもそも凜たちは人並みの安全など望むべくもない。
本当に陽鞠の安全だけを考えるなら、それこそ人知れず閉じ込めておくしかないのだ。それでは陽鞠の体は守れても、心は守れない。
そんなことに何の意味もなかった。
「あんな胡乱な輩を気にして、陽鞠が出控える必要はないでしょう」
「でも、あの人たち凜のことはどうでもいいみたいに言っていた。凜が危ないのは嫌」
「そこは陽鞠が私たちは一蓮托生だと言ってくれましたからね。陽鞠に手を出せないなら、私にもそうそう手を出せないでしょう」
そして、凜に仕掛ける気になったのなら、外にいようが家の中にいようがさして変わりはなかった。
雪宗の家にいれば刀の近くにはいられるが、外で仕掛けるよりも多人数で襲われる可能性が高い。どちらがより危険かは難しいところだった。
「…もう、薄岸に戻ってしまう? 刀は届けてもらうなりすることもできるし」
そう言いながら、陽鞠自信があまり気乗りしないようであった。
詮索こそしないが、陽鞠が何らかの目的があって雪宗の家に留まっていることを、凛とてうっすらと気付いてはいる。
「いえ。徒手で人の目のない町の外に出る方が危険です。襲ってくれと言っているようなものでしょう」
「代わりの刀を買う?」
「刀剣商は一見の客に売ったりはしませんよ。第一、それなりの刀を贖う余裕はありません」
刀剣商の扱う刀は美術品の体裁が強いので高額だ。蘇芳が陽鞠に持たせた旅銀はそれなりの大金だが、先を考えれば無駄遣いは出来なかった。
そして雪宗が言った通り、数打ちは衛士向けにしか作られておらず、一般に出回ることはほとんどない。
「そうかもしれないけど…」
「陽鞠はそんなこと気にしないでください。外出が危ないと思った時は言いますから」
「本当? 無理していない?」
「先ほども言ったでしょう。陽鞠が楽しそうにしていることが嬉しいと。陽鞠を悲しませるようなことはしません」
凜の言葉に、口元を綻ばせながらも、陽鞠は複雑な表情を浮かべた。
再び道を歩き始めようと凜が伸ばした手の内側にするりと陽鞠は入る。そのまま、凜の背中に手を回して抱きついた。
「凜はずるい。ずるい…」
「陽鞠。どうしたのですか」
「ううん。何でもない。少しだけ、このままでいさせて」
凜の胸元に顔を埋めて、陽鞠はそのまま黙り込んでしまう。
戸惑いながらも、凜は陽鞠を抱きしめ返した。




