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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
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十三

 鍛冶場に入り、作業場に座る雪宗の背中を見たところで凜は我に返った。

 別に用があったわけでもないのに、ここに来てしまった自分の行動が理解できない。


 土間に戻るかとも思ったが、それも何かすわりが悪かった。

 居心地が悪い気分を抱えながら、雪宗の背中を見る。


 槌を振る男の体は引き締まっているが、筋肉質というわけでもなく線は細い。肉体労働者の体というよりも、武芸を嗜む貴族の体に近いように見えた。


「巫女を見ていなくていいのか」


 振り向かないまま、ぼそりと雪宗が漏らす。


「陽鞠は子どもではありません。それと、巫女というのをやめてください」


 鼻を鳴らして、雪宗は作業に戻る。

 鉄敷の上で小割にした鋼を、一見だけでその質に応じて分類していく。

 凜には作業の意味は分からないが、それでもどんな分野であれ熟練の業というものは目が引かれる。


「…鍛治師になって長いのですか」


 何とはなしに聞いてしまってから、どうせ答えは返ってこないだろうと凜は目を逸らす。

 僅かな沈黙は、雪宗の声にすぐ破られた。


「そうだな。十五の時に家を出て師に弟子入りし、修行に十年。一人前と認められてから、もう二十年槌を振っている」

「…二十年、ですか」


 今の凛には、それは途方もない年月に感じられる。

 凜が守り手になってたかだか数年。その間に何度死にかかったことか。

 これを後、十年以上も続けられると考えられるほど、凜は楽観的ではなかった。


 長く生きようと思うなら、いつかは剣を捨てなければならないだろう。

 華陽との立ち合いで、一度は捨てた命。それほど未練があるわけではないが、陽鞠を残して逝くことも最早できなかった。


「十五で弟子入りとは、家業ではなかったのですか」

「ああ。生まれは、まあ役人のような家だった」

「縁が切れているとは、そういう意味ですか」


 煮え切らない返事ではあったが、雪宗の振る舞いの奇妙な行儀の良さに、凜は何となく納得がいった。

 それなりの家柄で、成人まできちんとした躾を受けていたのだろう。


 最近でこそそういう話も聞くが、山祇では基本的に親の仕事は子が継ぐものだ。それは貴族であろうと百姓であろうと変わらない。

 そこからはみ出すことは生半な覚悟でできることではなかった。


「そこまでして、鍛治師になりたかったのですか」

「…そうだな。師が打った刀を初めて見た時、魂が震えた。このような美を生み出す業は人のものではないとすら思った」


 雪宗の作風を思うなら、その美は近代刀の芸術的なものとは異なるのだろう。

 凜にも雪宗が打った刀は良いものだと思えるのだから、その感性は近いのかもしれない。しかし、凜は刀を感情が揺さぶられるほど美しいものだと思ったことはない。

 人斬り包丁に何を言っているのかという呆れすらある。凜に分かるのは、機能美を価値基準とした造形美だけだった。


「ならば、どうして打つのをやめたのですか」


 凜の問いに、雪宗の手が止まり、視線が僅かに上がる。

 その視線の先には、壁にかけられた凜の刀があった。


「最近の刀鍛冶の仕事を知っているか」

「刀を打つ以外に何があるのですか」

「何もないさ。だが、今求められているのは国の外に貿易品として売る見場だけの飾り物と、衛士に使われる量産の軍刀だけだ」


 それもそうか、と凛は思う。太平が続き、弓は銃に取って代わり、もはや刀を振り回す時代ではない。


「俺は俺の全霊をかけた一振りを打った。魂の腐るようなものはもう打てん」


 職人のこだわりのようなものかと、共感はできないが、理屈だけは何となく凜にも理解できた。


「…それに、あるいは刀よりも美しいものを俺は見てしまった。いや、あれは俺が刀に見出した美そのものだったのかもな」

「何の話ですか」


 ぼそりと独り言のように雪宗が続けた言葉が理解できず、凜は首を傾げる。

 しかし、雪宗は答えず、再び手を動かし始めた。

 

「…お前は、あまり華陽と似ていないな」

「弟子が師に似るとは限らないでしょう。ですが、なぜか見た目は似ているとよく言われます」

「中身の話だ。あれは勝手な女だったからな」


 その雪宗の言葉に凜は納得しそうになるが、それは最後に交わした言葉が全ての印象を上書きしているからだと思い直す。


「言われるほど奔放な人ではなかったと思いますが」


 剣の里での華陽は、何を考えているか分からないところはあったが、常識を弁えた人物に凜には思えた。


「そうか。それならあいつも少しは大人になったのかもな」


 凜にとっては良くも悪くも完成された個に思えた華陽も、若い頃があり移りゆくただの人であったということなのだろう。

 それを知ったところで、凜の胸には漣も立たない。華陽を斬ったことに対しては、凜は欠片の罪悪感も持っていなかった。

 あれは自死の押し付け合いの結果であり、斬ってしまったことに悲しみこそあれ、罪の意識を持つようなものではなかった。


「俺の知るあいつは、巫女のこと以外はどうでもいいと言わんばかりの、一本の研ぎ澄まされた刀のような女だった」


 まるで守り手の頃の華陽を知っているかのような口ぶりに、凜は違和感を覚える。


「長が刀を求めてここに来たのは、守り手をやめてからでしょう」

「…ああ。だが、まだ守り手であった頃にも会ったことがある。師の刀を求めてのことで、俺のことなど歯牙にもかけていなかったがな」

「ですが、結局はあなたの刀を求めて来たのでしょう」

「師が引退したからな。俺がただ一人の弟子だった。山祇一の剣士とも言われるあいつに認めさせたくて、全霊をかけて打ったものだ」


 懐旧を忍ばせる雪宗の言葉には、鍛治師として以上の感情が込められているように凜には感じられた。


「それほどの想いを込めて刀を打った相手を斬られて、私を恨まないのですか」


 一瞬だけ、雪宗の手が止まり、またすぐに何事もなかったかのように動き出した。


「あれが死に場所を求めていたのは、俺にだって分かる。お前を恨むものか」

「それと殺した相手を恨むのは別の話でしょう」


 例え陽鞠が死にたがっていたとしても、本当に殺されたら凜はその相手を恨まずにはいられないだろう。

 実際に手を下すかは別として、恨みそのものがないというのは綺麗事にしか思えなかった。


「お前を恨んでいると言えば満足なのか。お前がそれで楽になるなら言ってもいいが」


 雪宗の言葉が、鋭く凜を刺した。

 確かに問うこと自体に意味がなかった。それを知ってどうしようというのか。

 誰も育ての親でもある師を殺めたことを責めないことが、腑に落ちないだけなのかもしれなかった。

 責められて当然と思うのに、罪悪感が自分の中にないから外に求めたのだろうか。なるほど華陽が生きていれば気にもしないような凡人の思考だと凜は自嘲する。


「詮無い問いでした。忘れてください」

「…あまり、あいつを斬った話をしてくれるな。恨みはなくとも思うところがないわけではないのだ」


 嗜めるというよりは、答えに困るようなそんな声だった。


「思うところがあるのでしたら、私にぶつけてくれてもいいのですよ」

「二十歳にもならぬ娘にか。それこそ情けなくて言えるものか」


 冗談めかして凜が軽く言うと、雪宗から返ってきたのは不機嫌な声だった。

 それきり、むすりと黙り込んでしまう。

 それがまるで、つむじを曲げた童のようで、凜は思わず笑みをこぼしていた。

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