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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
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十二

 目覚めて最初に感じたのは、顔に当たる痛いほど冷たい空気と、それに反するように温かい腕の中の温もりだった。

 いつでもどこでも眠れるように訓練されている凜は、寝ぼけるということがほとんどない。

 目覚めと同時に覚醒して、現状を確認するのは最早、習慣付いてしまっている。


 雪宗の家の狭い座敷。

 同じ布団で眠る陽鞠はまだ目覚めていない。陽鞠も朝の目覚めはよく、普段は凜とほとんど一緒に起きている。

 昨夜、少し遅くまで話していたし、その後で大公への報告を認めていたせいかもしれない。


 同じ布団で寝るといっても、いつもは隣に並んで眠るだけだ。

 しかし今は、凜の腕を枕にして抱きしめられるようにして眠っていた。


 陽鞠の背中に回していた手で背筋を撫でると、ぐずるような吐息を微かに漏らす。

 最近、腰に触れたり、こういうことをしすぎだとは思うが、どうにもやめ難かった。

 陽鞠の甘い声や、柔らかい肌の感触がこびりついて離れない。凜の知らない感覚が、どんどん侵食してくるようだった。


 凜が少しだけ布団を捲ると、穏やかな陽鞠の寝顔が覗く。

 静かな寝息を漏らす、微かに開いた唇に目がいってしまう。

 自分だけがその感触を知っていることに、凜は優越感とも違うくすぐったい感覚を覚えていた。


 自分からしてみてもいいだろうかと思う。

 陽鞠は嫌がらないどころか、喜んでくれる気がした。

 しかし、陽鞠への気持ちをはっきりとさせないままするのは、卑怯なようにも思える。


 背中に回していた手で、何とはなしに陽鞠の唇に指先を触れさせる。

 柔らかく、弾力もある。色艶も良く、健康的になって大変よろしいと凜は思った。

 触れたいとは思ったが、触れてみて思うのはそんなところだった。口づけをしてみたいと思わないでもないが、切迫した欲求があるわけではない。


 そんなことを考えながら何度か押していると、指先を唇で食まれた。


「陽鞠。起きてますよね」


 途中から寝息の呼吸ではなくなったことに気が付かない凜ではない。

 陽鞠の目が寝ぼけた様子もなく、すっと開く。


「つまらない。何をしてくれるのかなと思ったのに」


 陽鞠の唇が指先から手の甲まで這い、上目遣いに凜を見る。

 透き通る琥珀の瞳が揺らめいて、凜は引き込まれそうになる。おそらく無意識なのだろうが、巫女の力を使われているのが凜には分かった。

 ずるいとは思うが、それは力を用いたことにではない。大して効きはしないと分かっていて、無意識に使ってしまうほどの一途さが愛らしくてずるいと思う。


 凜が頬を撫でると、陽鞠は嬉しそうに目を細めた。

 その滑らかな肌の触り心地をひとしきり楽しむ。


「目が覚めたのでしたら、起きましょう」


 まだ日の出からそれほど時間が経っていないことは明るさから分かる。しかし、家主はすでに起きて動いていることを、凜の鋭敏な耳は捉えていた。


「ええ」


 凜が上半身を起こして布団を捲ると、肌を刺すような冷たさの空気に陽鞠が身を震わせる。

 布団と凜の温もりを名残惜しそうにしながらも、起きるとなればぐずらないのが陽鞠だ。


 二人で布団を抜け出し、火鉢の側に置いていた桶に張った水に布を浸して順番に顔を洗ってから、着替え始める。


 凜はいまだに肌を見られることに抵抗を覚える陽鞠に背を向けて、夜着にしていた浴衣を脱ぐ。

 普段は寝る時に着る物をいちいち変えたりはしない凜だが、どうせ刀も手元にないからと雪宗が用意していた浴衣を着ていた。

 浴衣から着替える間、凜は陽鞠の視線を背中に感じていた。自分が見られるのは嫌なくせに、こうして盗み見るように視線を向けてくるのが、凜は不思議でならない。

 陽鞠が見たいというなら、隠すようなものはないと凜は思っていた。


 手早く着替えた凜は、背後の衣擦れの音が止まるのを見計らって振り向く。

 陽鞠が着ているのは江津を出た時の蘇芳が用意した着物ではない。見るからに高価な小紋は、物盗りに目を付けられるからと、陽鞠はすぐに着なくなってしまった。それはおそらく、いざとなったら売って金子にするためでもあるのだろうと凜は思っている。

 

 古着で贖った裾模様の簡素な臙脂の小袖。

 それで陽鞠の美しさが損なわれるわけではないが、明らかに着物が中身に負けている。

 申し訳ないという気持ちが凜にはあるが、それを言えば陽鞠が怒るか悲しむかの確信があるので口には出さなかった。


 凜は行儀良く座る陽鞠の後ろに回ると、少し寝乱れた髪を慣れた仕草で梳る。整った髪をそのまま、束髪に結い上げると、正面に回って乱れがないか確認する。


「今日も奇麗ですよ、陽鞠」

「ありがとう。凜も座って」


 陽鞠の言葉に従って座ると、今度は陽鞠が凜の髪を整え始めた。

 凜のどこか職人的な無駄のない手つきとは違い、陽鞠は凜の髪を一房ずつ愛でるように丁寧に梳る。


「凜の髪、癖がなくて羨ましい」

「そうですか? 陽鞠の髪は柔らかくて、私は好きですよ」


 確かに山祇では凜のような癖のような濡れ羽の黒髪が美人とされるが、世間的な美醜の評価に凜は関心がない。

 微かに波打った柔らかな陽鞠の髪は本人の雰囲気に合っていると凜は思う。


「凜がそう言うなら、この髪が好きになれそう。…髪、かなり伸びたね」

「ああ…」


 肩甲骨に届くくらいで揃えていた凛の髪は、背中を越すくらいに伸びていた。


「公的な場に出ることはもうないでしょうし、短くしてしまおうかとも思うのですが」


 長さを維持していたのは、守り手として公式な場に出る時に体裁を作るためだ。山祇では女の髪の長さや結い方は身分を示す。


「似合うと思うけど、短くするのは駄目。伸びすぎたのは私が切ってあげる」

「なぜ、駄目なんですか」

「私が凜の髪の手入れするの好きだから。それに…」


 言いかけた陽鞠が言葉を止める。

 凜には見えなかったが、その目は髪を短くした凜を想像しているようであった。


「それに?」

「何でもない。終わったよ」


 話しながら、梳いた髪を頭の後ろで結えた陽鞠は、凜の正面に回って衿を整える。

 訝しみながらも、大したことではないだろうと凜は深く考えはしない。


「ありがとうございます」


 礼を言って立ち上がった凛は、布団を畳んで押し入れにしまう。


「今日はどうしますか」

「大公様への報告を出したいので、案内人の方に会いにいこうかと。あと…少し町を見て回りたいのだけれど」


 上目遣いに様子を窺ってくる陽鞠に、凜は少し考える。

 刀を預けてしまっている今、あまり陽鞠を外に出したくないとは思う。かといって、新浜の時のように陽鞠を閉じ込めておくようなこともしたくない。

 この家にいたところで刀が手元にない事実は変わらない。であれば、外にいても危険性にさほど変わりはないだろう。


「分かりました。そうしましょう」

「…え。いいの?」

「ええ。何かいけませんか」

「ううん。凜がよければいいのだけれど」


 自分から言い出したことなのに、なぜか陽鞠の方が釈然としないような顔をする。


「それでは、参りましょうか」

「はい」


 座敷を出た二人は、その足で土間に向かう。

 土間では雪宗が朝餉の準備をしていた。


「おはようございます」


 陽鞠の声に雪宗は目線だけを振り向かせる。


「ああ。早いのだな」

「そうでしょうか。雪宗様こそお早いのですね。朝餉はもうできてしまいましたか」

「いや、これからだ」

「では、代わりましょう」


 隣に立った陽鞠が襷を掛け始めたのをみて、雪宗が意表をつかれたように一歩下がってたじろぐ。


「いや…何だ。できるのか?」

「できますよ。宿代というわけではありませんが、朝夕は私が作ります。昼はたぶん外に出てしまいますので」

「そうか。それなら任せる。ありもので適当で構わない」

「はい」


 台所を離れ、鍛冶場に向かう雪宗に思い出したように陽鞠が声をかける。


「そうだ。よければ、今夜にでも北玄州の料理を教えてください。献立を増やしたいんです」

「分かった」


 首だけ回して頷いた雪宗は、そのまま鍛冶場へと消えていく。

 それを横目で見ながら、凜は陽鞠の隣に立った。


「私も手伝いましょう」

「そんなに広くないでしょう。一人で平気。凜も待っていて」


 てきぱきと動きながら、陽鞠は凜の方を見ずに言う。

 こういう時の陽鞠は意見を曲げないと分かっている凜は食い下がらなかった。


 いつもの凜なら、土間に残り陽鞠を見ていただろう。しかし、何とはなしに凛は雪宗のいる鍛冶場に向かった。


 その背中を、陽鞠が感情の窺えない目で見ていた。

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