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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
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 雪子の部屋を出た凜たちを待ち構えるように、廊下に緒方と痩身の衛士が立っていた。

 緒方と痩身の衛士は二間ほど離れて立ち、張り詰めた空気を出している。


 痩身の衛士の目が、凜に向かう。

 もともと細い目の片方を、更に眇めるようにして凜を凝視する。

 腰の刀の鞘を握る手に力が入り、柄頭がわずかに下がった。傍目にはほとんど分からない、微細な動き。


 同時に放たれた殺気に、凜の左手が微かに反応した。重心が沈み、いつでも迎え撃つ気構えが剣気を放って殺気を跳ね返す。

 剣の心得がない陽鞠も、凜の気配が変わったのを察して緊張するのを凜は感じた。


 剣を抜くとなれば、凜は余計なことを考えない。

 ここがどこか。相手が誰か。なぜ斬り合うのか。思考は全て置き去りにする。

 利害や道理を考えて殺し合いなどできない。少なくとも凜はそうだった。


 その凜の研ぎ澄まされた冷たい剣気を感じたのか、痩身の衛士は刀から手を離して殺気を収めた。

 どこか満足そうに口の端を歪めると、身を翻して去っていく。その背中が完全に見えなくなってから、凜は小さく息を漏らした。

 身を寄せてくる陽鞠を、安心させるように軽く抱きしめる。


「申し訳ありません。当領の衛士が不調法を」


 痩身の衛士の殺気を感じていたのだろう、緊張の解けない掠れた声で緒方が頭を下げた。

 衛士が剣を抜けば飛びかかるつもりだったのか、緒方が重心を下げて身構えていたのを凜は視界の端に捉えていた。

 寸鉄も帯びていない緒方は、そうなれば間違いなく切られていただろう。


 まだ歳若い文官にしては随分と肝の据わった男だと凜は感心する。

 そんなことを考えていると知られたら、それこそ小娘の凜に言われるのは心外だと思うだろうが。


「ただの座興でしょう。気にされるな」


 娘の凜に気を遣われたことに少し苦い微笑みをみせて、緒方は頭を下げた。


「お嬢様はまだ中に?」

「ええ。奥方が少し取り乱してしまったので付いていらっしゃいます」

「…そうなりましたか」


 意外でもないのか驚いた様子も見せず、緒方は小さく首を横に振った。


「貴方はどうしてここに?」


 陽鞠の投げかけた疑問は、凜にも当然のものに思えた。

 いくら領主の補佐官だったとはいえ、私邸にまで来ることはそうないだろう。


「大公閣下の遣いがこちらに訪ねてきたとの報告があったので。貴女方だと思い、書状の内容を確認しに参りました」

「先ほど会った時に確認すれば良かったのでは?」

「天羽家宛の書状を、正式に届けられる前に私が開封することはできません」


 凜の指摘に、緒方は官吏としての顔で答える。

 それもそうかと凜は思うが、陽鞠は納得がいかなかったようだ。


「あの場には渚様もいらっしゃいましたが」

「…」


 緒方はすぐには答えず、凜たちを推し量るように見つめる。

 それはそこらの娘であれば萎縮するほどの圧を伴っていたが、生憎と凜も陽鞠もくぐってきた修羅場の経験が違った。

 睨み返すでもなく静かに受け止める二人に、緒方はふと表情を緩めた。


「玄関までご案内します」


 ゆっくりとした足取りで歩き始めた緒方に、凜たちは無言で付いていく。

 緒方が次に口を開いたのは二階から降りる階段の途中だった。


「水縹様が亡くなられて、いま望内には領主が不在となっています」

「そのようですね。槐様が領主代行を名乗っておられました」

「…望内は代々天羽家が領主を務めてこられました。望内の領主とはすなわち天羽家の当主のことです」

「至極、当然のことかと。水縹様には後継がおられないのですか」


 陽鞠と緒方が交わす会話を、凜は一歩引いて聞いていた。

 政の話は陽鞠の方が詳しいし、こうした時、凜は自然と周囲の警戒に回る。


「お嬢様…渚様しかお子はおりません」

「側室はいなかったのですか」


 正妻が後継の男児を産めなければ、側室や妾を持つのは当然のことだった。


「いません。水縹様は雪子様を大切にされていましたし、雪子様のお立場もありました」

「雪子様のお立場?」

「雪子様は、大公閣下の妹君なのです。正室以外の子が後継となれば正妻の立場は苦しいものとなります。大公閣下への義理立てとしても、側室は持ちにくかったのだと思います」


 なるほどと、凛は雪子を見た時の既視感の正体がようやく分かった。

 雰囲気はまるで違うが、雪那と顔貌がよく似ていた。


 そんなことを得心しながら、凜は陽鞠の横顔を盗み見る。

 陽鞠の生まれを考えれば無心になれない話題だと思ったが、陽鞠の表情も気配も揺れているようには感じられなかった。


「それでは、槐様が継ぐか、渚様が婿を取るかの二択なのですね」

「はい。水縹様はそれを決められないまま、亡くなられてしまいました。そのため、いま渚様のお立場は微妙なものになっています」

「なるほど。血筋的な正統は渚様ですが、実権は槐様にあると」


 夜風雪那のように女当主が皆無というわけではないが、やはり一般的ではない。女当主が生まれるには、本人の器量もさることながら、権力の状況にも依るところが大きい。


「槐様は軍部の支持が厚い方です。一方で開拓地の強引な拡張路線は官吏にはよく思われていません」

「官吏は悪く言えば扱い易い渚様に継いで欲しいと」

「…槐様には開拓地の利権と資金の流れで不透明なところもあるので」


 東青州の蘇芳と鴇羽の構図と似たようなものかと凜は理解する。


「つまり、あの書状に後継に関する夜風大公からの指示があると思ったのですね」

「はい。貴女たちが届けた書状には、渚様が婿を取り、そのものを領主代行とすること。それまでは槐様が領主代行を続けるように示されていました」


 半端な指示だと、凜は感じた。最低限、渚の婿を指定しなければ、槐が干渉する余地が大きすぎる。

 陽鞠も同じように感じたのか、微かに小首を傾げていた。


「それで、貴方がその婿の候補なのですか」


 陽鞠の言いようには、僅かだが辛辣さが感じられた。

 母娘でその結婚を政治の道具にされた陽鞠にとっては、やはり愉快な話ではなかったのだろう。


「何故、そのように思われるのですか」

「渚様が雪宗様の所に訪れるのにも同伴されていたでしょう。官吏の仕事とは思えません。よほど近しい間柄なのでは」


 階段を下ると小さな広間になっており、そこはもう玄関に繋がっている。

 階段の下で立ち止まった緒方は、振り向いて凜たちを見上げた。


「私は天羽家の分家の端くれの生まれです。水縹様には幼い頃からよくしていただき、渚様とは兄妹のように育ちました」

「愛していらっしゃるのですか」


 直裁的な陽鞠の言葉に、緒方が僅かに怯んだのを凜は感じた。


「あくまで主家の姫君としてですが」


 その言葉を韜晦だと凜は感じてしまった。

 感じてしまったことに、胸が痛んだ。


 立場の話でいえば、緒方は守り手の凜に近い。その立場からの言葉が逃げに感じられたのなら、かつて凜が陽鞠にとっていた態度も逃げなのではないか。

 いや、今もなお陽鞠の想いから逃げているのではないか。


「左様ですか」


 陽鞠は関心を失ったように冷たい声を出す。


「ところで、そのようなことを私たちに話して良いのですか」

「貴女方は口外などしないと思いました」


 それは信用という意味もあるが、口外したところでさして意味のない相手という意味でもあるのだろう。

 この望内で凜たちは部外者にすぎない。


「損はないかもしれませんが、利もないでしょう」


 陽鞠の言葉は、敵にも味方にもならないという意図を含んでいた。

 それを汲んだ緒方は、苦笑いを浮かべる。


「理屈ではないのですが…貴女方には話しておいた方がいい。そう感じただけです」

「そうですか。それなら仕方ありませんね」


 思ったよりも感傷的な緒方の言葉に、陽鞠も口調を柔らかくして返した。

 そのまま、陽鞠は緒方の前を横切り、玄関に向かった。


 凜も陽鞠の後に続いたが、ふと思いついたように緒方を振り向く。


「そういえば、雪火とは誰ですか」

「…その名をどこで聞いたのですか」


 緒方の態度が強張るのを、凜は感じた。

 凜の後ろで皮靴を履いていた陽鞠の手も止まっていた。


「奥方が口にされていたので、聞いただけです」

「そうですか…」


 緒方は警戒するように凜の顔を少しの間、無言で見つめた。


「雪火様は、雪子様の兄君です」

「夜風家に男児がいたのですか。大公位は継がれなかったのですか」


 凜から目を逸らさないまま、緒方は硬い表情で口を開いた。


「二十年以上前に出奔され、行方は杳として知れません」

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