九
部屋から二人が出てくるのと同時に、ごく自然に陽鞠が離れていくのを凜は少し残念に思う。
もちろん、凜が腰を抱いたのは意図的だった。
陽鞠がその行為に複雑な感情を持っているのは分かっていたが、気づかないふりをしている。
抱き寄せるのは肩でも背中でもよかったが、あえて腰を選んだのは腰に触れた時の陽鞠の反応が琴線に触れたからだ。
「待たせて申し訳ない」
陽鞠に対する槐の口調が少し変わっていた。
本人が否定するからには巫女として扱わないが、丁寧な口調になってしまうのは山祇の民の性だった。
「いいえ。惜別の時間を待つなどとは思いません」
穏やかな、大人びた陽鞠の顔を凜は横目で盗み見る。
貼り付けた微笑を見ていると、頬を突いてそれを崩したくなった。もう巫女ではないと言いながら、陽鞠は他人と接するとき、いまだにこの顔を繕う。
それが陽鞠の処世術だと理解はしているが、もう少し年相応の態度をとってもいいのではないかと凜は思っている。本来の陽鞠は子供っぽいところもあるはずなのに、凜以外にはけして見せようとはしない。
それはそれで、自分にだけ素顔を見せてくれることは嬉しいことだが、陽鞠の心が巫女に囚われたままなのではないかと心配になることもある。
「お気遣いいたみいる」
取り乱したところのない槐とは対照的に、その後ろで渚が目を赤くして佇んでいた。
凜が見ていることに気が付いたのか、伏せていた目が上がる。目が合うと、気恥ずかしげに、見ていたことを咎めるような目をした。
その目に宿る暗い影が、凜には少し気にかかった。
「穢れの祓いは確認していただけたでしょうか」
凜が渚に気を取られている間に、陽鞠が槐と話を進める。
「確かに穢れは祓われていた」
「それでは、私たちはこれで失礼させていただきます」
あっさりとした陽鞠の態度に、槐は拍子抜けした顔を見せながらも頷いた。
「そうか。私は現場の調査を指揮しなければならない。帰りの案内は渚にしてもらうがいい」
槐の言葉に、渚が無言で前に進み出てきた。
「参りましょう」
そう言って歩き始める渚は、不自然なまでに槐から目を逸らしていた。
槐に軽く頭を下げて渚の後についていく陽鞠に凜も従う。
しばらく無言で歩いた渚は、廊下の角を曲がって槐から十分に離れると、足を止めて振り向いてきた。
「陽鞠様。ありがとうございました。おかげで父と別れを済ますことができました」
渚は丁寧に頭を下げる。
葬儀は済んでいるとはいえ、あのまま穢れの中に骸が残っていれば死の実感は薄いままであっただろう。
「私は務めを果たしただけです」
「穢れを祓うことがお務め、ですか」
この山祇でそれを務めとするものは一人しかない。
「いいえ。穢れの祓いはただのお仕事です。お仕事はお務めでしょう?」
「お仕事、ですか」
「ええ。金子を頂いてしているお務めですからお仕事です」
陽鞠の言葉に、渚は眉を顰める。
「貴女が巫女様ではないと仰るのなら、詮索はしません。ですが、その尊き力を金子のために使うのは感心できません」
陽鞠は答えずに、ただ静かな微笑みの下に一切の感情を隠す。
その代わりのように、凜が一歩前に出て渚の視線を遮った。
「渚様。陽鞠には陽鞠の事情があります。差し出口はやめていただけませんか」
突き放すような凜の冷たい声に、渚は傷ついた顔を浮かべる。
ごく自然に凜の袖を握る陽鞠の手を見て、渚は唇を噛んだ。
「…申し訳ありません。言葉が過ぎました」
涙が滲むのを堪える渚の顔に、凜も言葉がきつかったかと少しだけ罪悪感を抱く。
それを察したように袖を握る陽鞠の小指だけが動いて、凜の掌をついと撫でた。
言わされたな、と凜は内心で苦笑する。
陽鞠は凜が庇うように会話を誘導したのだろう。
先ほど渚と二人で話していたことが、よほど気に入らなかったようだ。
稚気にも等しい陽鞠の悋気が、凜には愛おしい。
「ところで渚様。母上の件ですが」
話題を変えた凛に、渚の顔が強張る。
話の流れからいい返事ではないと考えたのだろう。
「お会いするのは構いませんが、今日でもいいでしょうか」
面倒ごとは早めに片付けておきたくての凜の言葉だった。
何度も渚に会っていると、陽鞠の機嫌が急降下しそうで怖かった。
「はいっ。ありがとうございます。ご案内します」
声を弾ませて喜んだ渚は、凜の気が変わることを恐れたのか、そそくさと歩き始める。
それを追いながら、凜は邪険にしたことに心を痛める。
そんな心の動きに凜は内心で首を傾げた。
知り合って間もない渚のことで、なぜ自分が心を動かされるのか分からなかった。
渚個人にはさして関心もないのに、庇護欲に近いものを感じる。
そんな考え事をしながら歩いていた凜は、陽鞠に密かに顔色を窺われていることに気が付かなかった。
◇◇◇
館の二階の最奥にあった執務室と、ほぼ反対に位置する部屋に渚は案内した。
その部屋は他の木の扉とは異なり、襖になっていた。
「お母様、失礼いたします」
渚は形だけ中に声を掛けるが、返事も待たずに襖を開ける。
途端に部屋の中から漏れる香の匂いに、薬湯の匂いが紛れていることを、凜の鋭敏な鼻は嗅ぎ分けた。
部屋は十畳間の畳敷きの座敷になっており、その真ん中に敷かれた布団に上半身を起こした女がいた。
美しいが、襦袢の上から羽織を肩にかけた病的に細い体。
渚の母なら三十歳は過ぎているはずだが、親子というよりは歳の離れた姉妹にすら見える若々しい容姿。
確かに渚によく似ているが、それよりも良く似た人物を凜は見たことがある気がした。それも最近のことだ。
部屋に人が入ってきたことにも気が付いていないのか、ぼんやりとした目は何も見てはいない。
布団のそばに渚が座っても、それは変わらなかった。
「お客様をお連れしました」
近くで声をかけられると、ようやくゆっくりと首を巡らせる。
茫洋とした目が渚を通り過ぎて、渚の後ろに座った凜を捉えた。
その目が、一瞬にして意思の光を取り戻す。
「華陽お姉様っ」
しかし、宿った光は正気の光ではなかった。
女は娘を押し除けるように布団から飛び出して、凜に飛びついてきた。
病人を避けるわけにもいかず、凜は女の体を柔らかく受け止める。
「ああ、お姉様が来てくださるなんて。雪子は嬉しゅうございます」
凜は人違いだと言うべきだろうかと迷う。
言ったところで、通じるようにも見えなかった。
渚の母、雪子は夢の中の住人であるように見えた。
縋り付いてくる女の体に、凜は戸惑いしか感じなかった。
陽鞠を抱きしめた時に感じる温もり、心地よさ、愛おしさ。そのどれも感じず、嫌悪感とまではいかないが忌避感の方が強かった。
「お母様。この方は華陽様では…」
止めようとする渚の声も、雪子には届いていなかった。
「お姉様ったら雪火お兄様とばかりいて、私にはかまってくれないのだから」
「雪子様、人が見ていますよ」
「まあ。お姉様つれない」
不満げに言いながらも、ようやく雪子が凜から体を離す。
凜は小さく安堵の息を吐いた。隣から感じる陽鞠の視線が怖くて見れなかった。
雪子の目が動いて、凜の隣に座る陽鞠を捉える。
眉が顰められたと思うと、目が吊り上がった。
「凜、音様…? …どうして、貴女がお姉様と一緒にいるのっ」
険のある声をあげて、雪子は陽鞠を睨みつける。
「いつまでもお姉様を縛りつけてっ。いい加減にお姉様を解放してっ」
雪子が陽鞠に掴みかかろうとする気配を察して、凜が片膝を立てて間に入る。
狼狽えたように雪子が動きを止めたところを、渚が後ろから抱き止めた。
「お母様っ。やめてくださいっ」
渚の言葉が聞こえている様子はなかったが、単純に力負けしたのか雪子は動きを止めて陽鞠を睨みつける。
その視線を遮りながら、凜は陽鞠の手を取って立ち上がった。
「行きましょう、陽鞠。私たちがいると心身に良くなさそうです」
凜の言葉に陽鞠は無言で頷く。
あるいは凜だけなら残っても問題ないかもしれないが、陽鞠だけを外させる選択肢は凜に存在していなかった。
「待って! お姉様っ」
伸ばされた手から逃げるように、凜は陽鞠の手を引いて部屋を出る。
襖を閉める瞬間、目が合った渚の顔が申し訳なさそうだったことに、少しだけ凜の心は痛んだ。




