八
館の奥まった一室の扉が、開け放たれたままになっていた。
中から黒い靄のような穢れが溢れている。
「あの部屋だ」
部屋のだいぶ手前で足を止めた槐が穢れを指さす。
その声には隠しようもない恐れが滲んでいた。
陽鞠は足を止めずに、槐の脇を抜けて部屋に向かう。
足早に凜が、その背中を追いかけた。
「おい、触れたら死ぬぞ」
槐の言葉に応えない陽鞠の代わりのように、凜が一瞥を投げかけた。
その目の冷たさに、槐は黙り込む。
凜が槐に意識を向けたのは一瞬のことで、追いついた陽鞠の隣に寄り添うように立つ。
陽鞠は不機嫌そうな目で凜を見上げた。
「あの子と何を話していたの」
凜の袖を握りながら、陽鞠は小声で問いかける。
「それ、いま聞くことですか」
凜は穢れに目をやりながら答える。
「彼女の母親が長と親しかったそうです。臥せっているそうですが、長の話をすれば元気が出るかもしれないからと、会ってくれないかと頼まれました」
「ふぅん」
自分で聞いたくせに、興味がなさそうに陽鞠は鼻を鳴らす。
しかし、じっとりとした湿度の高い目が、本当に興味がないわけではないことを物語っていた。
「それで、会うの?」
「陽鞠がよければ」
「私は関係ないでしょう」
「それなら、そんな顔しないでください」
凜は不満たらたらな陽鞠の顔に手を当てて、軽く頬をつねった。
陽鞠は少し嬉しそうに凜の手を上から包み込んで、ゆっくりと外す。
「凜は会いたいの?」
「別に会いたくはありません。しかし、長と関わりのある人であれば、場合によっては事情を話さなければならないでしょう」
そんな必要はないだろう、と陽鞠は思う。
凜は自分が斬った人間の関係者に出会った時、自分が斬ったことを伝えなければいけないと思っているようだが、陽鞠は内心ではあまり感心できなかった。
わざわざ自分を傷つけるようなことを凜にしてほしくはなかった。
陽鞠にとって大事なのは凜だけで、凜が心であれ体であれ、少しでも傷を負うくらいなら他人が傷を負おうが命を落とそうがどうでもよかった。
それを見て心は痛むかもしれないが、引き換えにできるものではなかった。
「その方は臥せっているのでしょう」
「気鬱だそうです」
「それなら、あまり刺激するようなことは言わない方がいいのでは」
「そう思います。言うか言わないかは、状況しだいですね」
陽鞠はため息をつくと、凜から目を逸らした。
凜と一緒に生きるということは、こういう律儀さと損な性分を支え続けるということだ。
その性分を変えてほしいとは、陽鞠は思わない。その不器用さをこそ、陽鞠は愛したのだから。
それでも、もっと凜自身を大事にしてほしいし、他人に気をつかうくらいなら自分を見てほしいという気持ちもある。
「私は会わない方がいいとは言わないよ。凜のしたいようにすればいいと思う」
言いながら、陽鞠は無造作に部屋の中に満ちた穢れを手を振って祓う。
穢れが消えた部屋の中は、領主の執務室としては簡素でさして広くもなかった。
奥の窓を背にして置かれた執務机に、死臭を漂わせる男が突っ伏している。
部屋に立ち入ろうとした陽鞠は、隣で凜が僅かに逡巡したのに気がついた。
陽鞠が目を向けたことで、凜も気が付かれたことを理解する。
「…私はまだ穢れに触れても平気なのでしょうか」
「どうして?」
「いえ、守り手は辞めているわけですし」
こういう生真面目すぎるところは、おかしみがあると陽鞠は思う。
くすりと笑みを漏らした。
「そういう意味なら、凜はずっと守り手のままよ」
「そうなのですか」
「凜以外にこの力を向ける気は絶対にないから」
陽鞠が守り手の契約を解除すれば、巫女の力はいもしない新たな守り手を求めて周囲の人間を誘惑するだろう。
そんなことをするのは真っ平だった。
凜以外から好意を向けられるのも煩わしかった。
陽鞠の言葉に、凜の目尻が下がる。
陽鞠以外には向けない、優しい目だった。
胸の奥に溢れるもどかしいような温かさが耐えられずに、陽鞠は目を逸らして部屋に踏み入る。
今度は凜も黙って陽鞠に付き従った。
部屋の床には執務机から崩れたらしき書類が散乱しており、領主が仕事を家にまで持ち込んでいたことが分かる。
机の上に残された書類が黒ずんでいるのは、倒れた盃の中身が染みたか、あるいは血か。
背広姿の遺体は、死後ひと月近く経っているはずだが、北の寒さのせいで腐敗の進行はさほどでもなかった。
それでも肉は崩れ始めているし、近づけば死臭が強く漂う。
凜が窓を開けて臭いを逃がしている間に、陽鞠は穢れを纏う遺体に指先で触れた。
薄れていく穢れと引き換えのように、陽鞠の中に死者の記憶が断片的に流れ込んでくる。
深夜の密会。
男との口論。
口にした盃。
苦しみと吐血。
薄れる意識。
男が浮かべた嘲笑。
穢れを祓い終えるのとともに、記憶の再生も途切れる。
陽鞠は熱を逃すように、小さく息を吐いた。
死と怨嗟の記憶を見せられるのは、いまだに慣れない。不愉快さよりも他人の心を窃視しているような罪悪感が勝る。
それとは裏腹に多くの穢れを祓ってきた陽鞠の巫女としての器は、一人の穢れを祓った程度では疲労すら感じることはない。
「終わりましたか」
遺体から指を離した陽鞠の背中に、凜の掌が優しく触れる。
その掌から伝わる温かさが、死に触れて冷たくなった陽鞠の心を溶かすようだった。
「はい。滞りなく」
指先を手巾で拭いながら、陽鞠は答えた。
それからあらためて、遺体に一瞥を投げかける。
哀れだとは思うが、陽鞠は自分の見たものを誰かに伝えるつもりはなかった。そもそも、何ら証拠になるものではないし、揉め事に関わるのは煩わしい。
陽鞠が荒事に巻き込まれれば、また凜に人を斬らせてしまうかもしれない。それを押してまで社会的正義を発揮するほど、陽鞠は善い人であろうとは思わなかった。
遺体から目を外した陽鞠は、そのまま部屋の外に向かう。
隣に並ぶ凜の袖を握りながら部屋の外に出ると、槐と渚は立ち止まった場所から動いていなかった。
陽鞠が歩み寄ると、二人とも恐れるような戸惑いの表情を浮かべる。
「終わりました。もう、部屋に入っても大丈夫です」
「本当に穢れを祓ったのか…」
部屋に入った陽鞠を見ても信じきれないのか、槐の顔から疑いは消えない。
それは穢れを祓った事実もさることながら、目の前の少女が巫女ではないということへの疑いだった。
躊躇しながらも部屋に向かう槐に続くように、渚も進もうとする。
その前を、陽鞠が塞いだ。
「ご覧にならない方がよろしいと思います」
陽鞠の静かに嗜めるような言葉に、渚は眉を顰める。
渚の目が陽鞠の隣に立つ凜に一瞬だけ向かい、反発するように陽鞠に戻った。
「私とて領主の娘。覚悟はあります」
「そうですか」
それ以上は陽鞠も止めようとはせず、あっさりと道を譲る。
目の前を通り抜けて部屋に入っていく渚を、陽鞠は静かな目で見送った。
渚の姿が完全に部屋の中に消えると、陽鞠は凜の腕に自分の腕を絡めて肩に頭を乗せる。
そのまま心を閉すように、ゆっくりと目を閉じる。
つんざくような悲鳴が、部屋の中から響き渡った。続いて、みもよもない慟哭が漏れ聞こえる。
哀れみと、そしてわずかな羨望で陽鞠はその声を受け止める。
同情はしない。陽鞠の中に同じ感情はない。陽鞠には死んで悲しむような家族はいない。母が死んだ時ですら、陽鞠は他人が死んだ程度の感情しかなかった。
絡めていた凜の腕が動いて、陽鞠の腰を柔らかく抱き寄せた。
嬉しいという気持ちと、無遠慮に腰に触るなという気持ちが一度に来て、陽鞠の心をざわめかせる。
触って欲しくないわけではない。触っては欲しいが、触る場所と意味をもう少し考えて欲しいなどと考えている自分の方が、色に目が眩んでいるのだろうかと陽鞠は内心でため息をつく。
慟哭が止むまでの短くない間、陽鞠は身じろぎもせずに凜の腕に身を委ねていた。




