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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
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 まだ話し足りない未練のようなものを感じた雪那は、客間に意識を残したまま長い廊下を歩き始める。

 そのせいか、廊下の曲がり角に立つ陽鞠に気が付くのが遅れた。

 影に潜むようにひっそりと立ちながら金色の瞳だけを炯々と輝かせる陽鞠に、雪那は心臓に冷やりとしたものを覚える。

 陽鞠の口元は柔らかな微笑みを浮かべているが、目はまったく笑っていない。


 平静を装いながら雪那は陽鞠に近づく。


「そのような格好で廊下にいると風邪をひくぞ」


 襦袢一枚でいるには、廊下は冷え込んでいた。

 事実として陽鞠は寒そうに自分の体を両腕で抱いている。


「凜に何を話していたのですか」

「大したことは話しておらん」

「余計なことを言ってはいませんか」

「余計なこととは?」


 陽鞠は小首を傾げて、少しだけ沈黙する。

 仕草は愛らしいとさえいえるのに、目が笑っていないせいで奇妙な迫力がある。


「例えば、華陽様のこととか」

「…親しくしていたことを話したくらいだが」

「それだけですか?」

「それだけだ。それ以外に何があると言うのだ」


 じっと雪那の目を覗き込んだ後で、陽鞠はひとつ息をついた。


「それならいいです。あまり凜を揺さぶるようなことを言わないでください」


 言いながら、陽鞠は雪那の脇を抜けていく。


「凜が華陽を斬ったというのは本当か」


 雪那がかけた言葉に、ぴたりと陽鞠は足を止めて、半身になって振り向く。


「本当です。私はその場におりました」


 誤解や比喩的な意味であってほしそうな雪那の言い様を、陽鞠は言下に否定する。


「華陽のこと、其方は気付いておるのか」

「…そのこと、凜に言っていませんよね」

「言っておらぬ。其方こそ黙っていていいのか」

「凜にこれ以上、余計な悩みを背負わせたくはありません」


 それは嘘ではなかったが、本当に凜が気付いていないのか陽鞠にも分からなかったからでもある。

 凜が敢えて触れようとしない、あるいは考えようとしないようにしているのなら、無遠慮に陽鞠が踏み込むことは出来なかった。


「黙っていたことを後で知られたりしたら、拗れたりせぬか」


 陽鞠は微笑みを消した、しかし人間らしい顔を雪那に見せた。


「意外とおせっかいなのですね。もし凜に怒られたりしたら、謝ります」

「謝れば許されると信じているということか」


 雪那の言葉に、陽鞠は小さく首を横に振る。


「凜はきっと許してくれると思います。ですが、許されなくても関係ありません」

「凜に嫌われることを、其方は何よりも恐れていると思ったがな」

「その通りです。ですが、自分が辛い思いをしたくないから、凜を傷つけるかもしれないことを言おうとは思いません」

「其方たちはもう少し、互いに胸の内を明かした方がよいと思うがな」


 陽鞠は答えずに踵を返し、雪那もそれ以上は呼び止めなかった。


◇◇◇


 胸に靄のようなものを感じながら、陽鞠は廊下を足早に歩いて客間まで戻る。

 廊下から寒気が入り込んでくるのに、開け放たれたままの襖。


「遅かったですね。湯冷めしますよ」


 陽鞠が何を言うよりも早く、凜の方から声をかけてくる。

 陽鞠は何も答えずに、後ろ手に襖を閉めると凜の傍に腰を下ろす。

 そのまま、凜に抱きつくと、柔らかく抱きしめ返された。


「こんなに冷えてしまって。火鉢に当たってください」

「この方が温かい」


 凜の手に優しく背中を撫でられていると、次第にざらついた陽鞠の気持ちが落ち着いてくる。


「何かありましたか」


 陽鞠が落ち着いてきたのを見計らうように、穏やかな凜の声が耳に心地よく響く。


「どうして聞くの」

「陽鞠が抱きしめてくれる時は慰めてくれる時。陽鞠が抱きついてくる時は慰めてほしい時です」

「分かられてて、嬉しいけど悔しい」

「これくらい、陽鞠に比べれば全然です。それに悔しがる必要はないでしょう」


 少し気分の浮上した陽鞠は、抱きつく腕を緩める。


「あの人に何か言われた?」

「大公ですか? そうですね。長のことを妹にように可愛がっていたそうです。あと、仕官を勧められました」

「そう。凜はそうしたい?」

「宮仕は窮屈そうであまり。ですが、先のことを考えろと言われると、悪くもないかと思ってしまいました」

「先のこと?」

「その、つまり。陽鞠とのこれからのことです」

「私との?」

「ずっと旅暮らしというわけにもいかないでしょう」


 陽鞠はまだ凜に伝えていない、蘇芳から貰った報酬を意識する。

 凜が大公に仕えるなら必要なくなるが、それはそれで構わなかった。

 陽鞠の望んだ形とは少し異なるが、凜に寄り添うことが出来るなら、それ以外は些事でしかない。

 そんなことよりも、凜が自分との将来を考えてくれることの方が嬉しかった。


「ですが、宮仕は見合いとか勧められそうで面倒ですね」

「嫌。そんなのしないでほしい」

「分かっています。しませんし、陽鞠にもさせません」


 その言葉が嬉しくて、陽鞠は少し体を離して凜の顔を見る。

 以前は凜から結婚を勧められる度に傷ついていたのだ。誰にも渡したくないくらい、独占欲を持ってくれたのならいいと思う。

 しかし凜の目には、やはり陽鞠と同じ熱は感じられない。


 だから陽鞠は怖くなる。

 自分の好きという言葉はどこまで伝わっているのだろうかと。

 新浜にいた頃は、そばにいられるのなら伝わらなくても構わないと思っていた。しかし、今となってはそんなふうには思えない。

 正しく気持ちは伝わってほしいし、凜からも同じ気持ちを返してほしかった。

 それが我儘である自覚があるから、陽鞠はこのことに触れるのを避けていた。


 それなのに、凜が気持ちを揺さぶるようなことばかり言うから、陽鞠は確かめたくなってしまう。


 膝立ちになり、陽鞠はそっと凜に顔を近づける。

 鼻先を擦り付けても、凜はとくに動こうとはしない。

 触れる直前まで、唇を唇に寄せる。

 それでも、凜は動かない。

 陽鞠は微かに唇を触れ合わせた。


 江津を出た時以来の、ひと月ぶりの口づけだった。

 陽鞠の指先は震えて、心臓は痛いほど高鳴っている。

 そのまま、唇を重ねたままでいると、背中に回された凜の指が、陽鞠の腰を撫でた。


「んっ…」


 自分の口から漏れた甘い女の声に驚いて、陽鞠は唇を離す。

 ほとんど同時に火に触れたように凜も陽鞠の腰から手を離していた。


 咎めるように陽鞠は上目遣いに凜を睨む。

 口づけの最中に敏感なところを撫でるなんて、何の気無しにしていいことではない。

 少し戸惑ったような様子の凜に、意図してしたことではないと分かり、陽鞠の胸は痛む。


「あの、陽鞠」

「ごめんね。凜が嫌なら二度としないから」


 凜の顔を見ていられず、陽鞠は俯く。

 焦りすぎたのだろうかという不安が、陽鞠の心を重くする。

 凜は基本的に陽鞠がすることに否やを言わない。だからといって、いやだからこそ、凜の気持ちを蔑ろにしてはいけないと陽鞠は思う。


「いえ、その、陽鞠の声に驚いてしまって」


 わざわざ言わなくてもいいことを指摘してくる凜に、陽鞠も不満で頬を膨らませる。


「…その顔、久しぶりに見ました」


 凜の指が優しく陽鞠の頬を撫でる。


「凜が意地悪を言うから」

「すみません。手が勝手に動いて、陽鞠に声を出させてしまったことに驚いたんです」


 陽鞠の腰を撫でた手を、凜は不思議そうにもう片方の手で押さえる。


「いやじゃなかったのならいいのだけど」

「嫌だなんて思いませんよ。少し気恥ずかしいですが」


 それなら、どこまで許してくれるのだろうと陽鞠は思う。

 いま、体を重ねることを求めたら、凜は応じてくれるのだろうか。応じてくれたとして、そこに気持ちは伴うのだろうか。

 口づけは勢いでしてしまったが、一度冷静になってしまうと臆病な気持ちの方が勝った。

 燻る気持ちを抑えるように、陽鞠は凜に抱きつく。

 先ほどのことが気になっているのか、凜はおずおずと遠慮がちに陽鞠を抱きしめる。

 凜の鍛えられたしなやかな体は、それでも女らしく柔らかでほっそりとしている。その女の体を求めていることに、陽鞠はもう何の違和感も抱かなくなっていた。


「…陽鞠。明日は朝早くに発つ予定なのですから、もう寝ましょう」


 耳元で囁かられる凜の声が、甘い言葉でもないのに陽鞠の頭を蕩けさせる。


「はい。一緒に寝てもいい?」

「いつものことではないですか。変な陽鞠ですね」


 凜に抱きついたまま、抱えられて布団に向かいながら陽鞠は思う。

 口づけをした人と同衾するというのは、もうその先を許されているのと同義なのではないだろうか。

 そんなことはない、と陽鞠は自分勝手な期待を凜に押しつけそうになるのを抑える。

 勘違いするなと陽鞠は自分に言い聞かせる。

 凜にとっては、きっと口づけも特別な親愛の証くらいでしかないのだと。凜は自分の体には何の関心もないのだ。

 それでも、期待に高鳴る胸だけは抑えようもなかった。

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