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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
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 あてがわれた客間で凜は一人、刀の手入れをしていた。

 陽鞠は風呂に入りに行っている。

 凜が一緒に入るかと聞くと、しばらく懊悩した後で真っ赤になって無言で去っていった。

 陽鞠が凜に頑なに肌を見せようとしないのは続いていたが、凜はもうそのことで悩んだりはしない。

 風呂自体は一緒に入りたそうなので、そのうち踏ん切りがつくだろうと軽く考えている。

 悩んでいる陽鞠を思い浮かべると、愛らしくて相好が崩れそうになり、刃物を扱っていることを思い出して気を引き締める。


 凜が刀の手入れを終えようとする頃に、襖を開けたままの廊下の端から足音が聞こえてきた。

 陽鞠ではないことは足音で凜には分かる。

 顔を出したのは、雪那であった。


「邪魔をしたかな」

「いえ。終わったところです」


 刀を見て言う雪那に答えて、凜は刀身を鞘に納めて脇に置く。


「陽鞠なら風呂に行っていますが」

「いや、其方と話をしたいと言ったであろう」


 気安い雪那の物言いに、凜は眉を顰める。

 不快だったわけではなく、理解ができなかった。凜が雪那にとった態度は、地位の高いものにとっては許し難いもののはずだ。少なくとも愉快ではなかったであろう。


「私は話したくないのですが」

「そう邪険にするな。懐かない猫のようで、余計に構いたくなる」


 げんなりとする凜を他所に、座敷に入ってきた雪那は凛と少し間を空けて座る。

 その目が凜の脇に置かれた刀に向けられた。


「雪宗か」

「無銘ですが、おそらくは。お知り合いで?」

「まあ、な」


 歯切れ悪く、しかし雪那は認める。


「その刀で何人斬った」

「四十と三人」


 淀みなく答える凜に、雪那はため息をついた。

 数えることなく人数が出てくるということは、その全てを憶えているということだ。

 それだけ人を斬れば、普通なら殺しに慣れて数など気にしなくなる。

 それを一人一人憶えているということが、雪那にはむしろ痛ましかった。


「その歳でな。巫女と同じ歳ということは数えで十七か」

「…数え?」

「ん、ああ。十年前の改暦から公的に年齢は各々の生まれた日を迎えるごとに加算されていくことになっておる。数えは旧来の歳の数え方だな」

「ほう。しかし、生まれた日が分からない私は、いつ歳を重ねればよいのか。いや、そもそも公的には存在しないので関係ありませんでした」


 何でもないことのようにいう凜に、雪那は一瞬、言葉に詰まった。

 凜ほど波乱に満ちた人生を歩むものは少ないかもしれないが、境遇でいえばもっと悪いものを大公として数多く見てきた。

 それでも、凜の言葉に無心でいられないのは、大公もまた人の子ということかと雪那は感慨にふける。


「其方には済まないことをしたな」


 人を斬ったことの説教でもされるかと思った凜は、沈痛な雪那の言葉を意外に思う。


「なぜあなたが謝るのです。関係ないでしょう」

「いや、巫女のことは政に関わる全てのものの責任だ。凜音と華陽の苦悩を知っていたのに私は何もしなかった」


 華陽のことを話す時、雪那は年老いたように疲れた声を出す。


「長と親しかったのですか」

「それほど長い付き合いではないが、それでも妹のように思っていたよ」

「そうですか」


 凜は居住まいを正して、雪那の方に向き直った。


「それなら、私はあなたにとって仇ということになりますね」

「なに?」

「長を斬ったのは私です」


 凜の言葉に愕然とし、言葉を失った雪那は受け入れ難いように首を横に振る。


「何ということだ。愚かなことを」

「私が愚かなのは認めますが…」

「其方ではない。華陽めが斬らせたのであろう。あの死にたがりめ、無体なことをさせる」


 雪那は「申し訳ない」と言いながら、凜に頭を下げた。

 それを見ながら、皇以外で大公二人に頭を下げさせた人間は、歴史上で自分だけなのではないだろうかと、そんな見当違いのことを凜は考えていた。

 それくらいにどうでもよかった。

 華陽との立ち合いは凜が望んだものでは無かったが、それでも応じたことには変わりない。


「…凜、私に仕えぬか」

「何の話ですか」

「其方は剣を手放した方がよい。あまりにも命を負いすぎておる。いずれ人の道を外れてしまうぞ」

「そんなことは言われずとも分かっています。しかし、私が剣を取らねば誰が陽鞠を救ってくれたと言うのです」

「其方の過去の行いを否定しているのではない。其方に重い荷を背負わせてしまったものの一人として、そのようなことは言えぬ。だが、いやだからこそ其方には人並みの生き方をする道を捨ててほしくはないのだ」

「私に、そんなもの…」


 凜は陽鞠と共に生きる覚悟を決めているが、自分の道が血の巷であることは変わっていないと考えている。

 凜の覚悟は、その道に陽鞠を巻き込む覚悟だ。

 四十人も斬っておいて、今さら人並みの生き方が出来るとは思っていない。


「其方は人だ。けして人食いの獣ではない。それを、其方自身が忘れないでほしい。これは年寄りの願いだと思ってくれればよい」


 雪那の言葉は、大公を嫌っている凜にしても真摯に聞こえ、頭から反発することはできなかった。


「すぐには納得できないことも分かっておる。だが、頭の隅で構わぬから私の言葉を置いておいてもらいたい」

「…それでよければ。しかし、いくら長と親しかったとは言え、私などを気にかけすぎでは」


 凜の疑問に、雪那の目に過ぎったのは、痛みであっただろうか。


「感傷であろうな…」

「何です?」

「いや、其方を口説ければ、陽鞠を手元に留めることができるという利もあるからな」


 凜には聞き取れなかった呟きの後の雪那の言葉は、まったく思っていなさそうなはぐらかしに聞こえて、凜は胡乱な目を返す。


「それなら陽鞠を口説いた方が早いでしょう」

「いや、それは無理であろう」

「何故です。私よりはよほど柔軟に物事を考えられますよ」


 雪那は眉を顰めて、無言で凜を見返してから息をひとつついた。


「…まあ、其方から見ればそうなのかもな。だが、あれは其方よりもよほど情のこわい娘だぞ」

「陽鞠がですか」


 心が強いと言われれば納得もいくが、強情と言われると凜は違和感を覚える。

 たしかに陽鞠は意思と覚悟は強いが、人の話を聞かないということはない。


「そうだな、其方は頭は固く融通は効かぬかもしれないが、その殻の奥は柔らかく深い度量がある」

「過大な評価では」

「現にいま、忌避する大公の言葉であっても頭から否定せず、考えておるではないか」

「そんなことは陽鞠は当たり前にできますが」

「違うな。あれは其方とは真逆だ。殻は柔らかく厚いが、その奥は小さく固い塊だ」


 あまり良い印象を受けない雪那の言葉選びを、凜は不愉快に感じる。


「器が小さいと言っているように聞こえますが」

「良い悪いを言っているわけではないが、有り体に言えばその通りだ。始末に終えぬのは、本人が意図してそれを選んでいることよ」

「陽鞠が何を選んでいると」

「其方以外はいらぬ、ということをだ。その狭隘も偏執も歪みも理解したうえで尚、そうあれかしと決めておる」

「そんなことが分かるのですか」

「茶室で其方が嚙みついてきた瞬間、目つきが変わったぞ。あれはいかにふっかけて困らせてやろうか考えていたな。其方が話せと言った後は平坦に戻ったがな」

「俄かには信じられませんが」


 凜が見ている陽鞠が、陽鞠の全てだと思っているわけではないが、雪那の言い様は極端に思える。


「まあ、信じずともよい。其方が己の道を狭めることは、あの娘の生き方を狭めることにもなるとだけは心に留めておくがよい」

「陽鞠の、生き方…」

「あの娘は其方とともに荒れ野に果てても幸せなのだろう。しかし、其方はそれでよいのか。其方自身はあの娘をどこに連れていきたいのだ」

「私が、陽鞠を?」


 凜にとって道は陽鞠が示すものであって、自分が定めるものではなかった。

 今は凜の約束を果たすのに付き合ってくれてはいるが、それが終われば陽鞠が行きたいところに向かうのだと凜は深く考えていなかった。


 考え込む凜に、雪那は苦笑いを浮かべて腰を上げた。


「少し一度に言いすぎたな。歳を取ると説教くさくなっていかん。嫌われる前に退散するとしよう」

「嫌いですよ、大公など皆」


 凜の真っすぐな言葉に、雪那は慈しむような目だけを残して身を翻した。

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