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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
82/115

 北に行くほど寒さの厳しい北玄州は、島の北側の半分以上は未開か開拓地であり、町といえるほど人が集まる地は南側に限られていた。

 北玄州の南端に位置する薄岸うすけしの町は、他州との玄関口である同時に州都でもある。


 港からつながる大通りをそのまま突き当りまで進むと、大公の居城である王国様式の稜堡式城郭にたどり着く。

 居城と言っても城郭内はほとんどが行政の庁舎であり、大公が住まうのは中心に位置する平屋敷であった。

 その外れに建てられた草庵の茶室に、凜たちは案内されていた。


 一人がようやく通れる小さなにじり口を、刀を腰から外した凜が先にくぐる。

 四畳半間の茶室には、火の入った炉の前に、すでに主が待っていた。

 仕立てはいいが落ち着いた深い藍色の紬の似合う、若々しく見えるが四十も半ばを過ぎた艶やかな年増女。

 夜風雪那は女大公であった。


 凜の方を見て笑みを浮かべるが、凜は目線を外して続いてにじり口をくぐってきた陽鞠に手を貸す。


「陽鞠。足袋を脱いでください。凍傷になりますよ」

「先にご挨拶を…」

「待たせておけばいいです」


 茶室の主を気にする陽鞠を無視して、凜は強引に陽鞠の足袋を脱がせて手巾で濡れた足を丁寧に拭う。

 くすぐったそうにしながらも、陽鞠は湿度の高い目を凜の俯いた頭頂に注いでいた。

 足を拭き終わって懐に手巾をしまう凜の指をじっと目で追う陽鞠を、咳払いが我に返らせる。


「…失礼しました」


 居住まいを正した陽鞠が、女に向き直る。


「夜風大公様。お招きありがとうございます。陽鞠でございます」

「夜風雪那だ。ここには他に人はおらん。お互いに堅苦しいのは抜きにしようぞ」

「お気遣いありがとうございます。凜も同席してよろしかったのですか」


 陽鞠の作った微笑みの言葉に、雪那はつまらなそうな顔をする。


「試すような物言いはよすがいい。守り手を同席させないような相手とは、貴女は話をしようとも思わぬのではないか」


 雪那の言葉にも、陽鞠の表情は漣も立たない。


「凜を守り手と呼ばないでください」

「失礼。便宜的にそう呼んだが気に障ったかな。見も知らぬ女に、凜、と呼ばれる方が不愉快ではないかと思ったのだがね」

「…」


 陽鞠は表情こそ動かさなかったが、返す言葉には詰まった。

 会話で陽鞠が上手をいかれることが珍しくて、凜は意外に思う。


「私たちはもう巫女でも守り手でもありません。名前でお呼びください」

「そうさせてもらおう。そちらの気分を損ねるつもりはなかった。許せ」

「いえ…」


 雪那の視線が、凜の方に向けられる。


「凜は無口だな。其方とは話をしてみたかったのだが」

「あなたが用があるのは陽鞠でしょう。私に構わないでください」


 凜は雪那の方には目も向けずに答える。

 それに機嫌を損ねた様子もなく、雪那は面白そうに目を細めた。


「ふむ。その態度が陽鞠殿の立場を悪くするとは思わぬか。些か子供じみてはいまいか」


 凜の目だけが動いて、雪那を見た。

 その昏い目。害虫でも見るかのような目。大公という地位など路傍の石ほども価値を置いてない目に、雪那の背筋に寒気が走る。


「上からものを言うな。お前は自分を上の立場に置かないと話もできないのか。お前たちの価値観、評価。そんなものは私にとって何の意味もない」


 今更のように、雪那は凜の刀が左側に置かれていることに気が付く。

 凜がその気になれば、雪那の首は瞬きの間に落ちる。そして、必要とあればそれを行うのに何の躊躇いもないであろうことを凜は理解させた。


「お前は虎を前にして、言葉で上に立てると思っているのか」


 煩わし気に言い捨てて、凜は目を真っすぐに戻す。

 凜の視界の端で、雪那が大きく息をついたのが見えた。


「ふむ。たしかに驕りがあったことは認めよう。それは謝罪しよう」

「いらぬ。話は陽鞠としろ」


 短く答えて、凜は口を閉ざす。

 苦笑いを浮かべて雪那は陽鞠に目を戻す。凜が話している間、一言も発しなかった陽鞠は、その微笑みを浮かべた表情も変わっていなかった。


「まず、其方たちが当州に来た目的を聞こうか」

「物見遊山、では納得いただけませんか」

「無理だな。金の瞳の娘が来たら報告せよ、というくらいには朝廷は其方たちを警戒している」

「そうなさらないのですか」

「巫女に対する朝廷のやりようは、拙いうえに不快だ。西白州公の朝廷への意見書に、全ての大公が署名するほどにな」

「意見書?」

「大公は巫女を収監した朝廷の判断を不当とする。大公は自領において巫女の特権を認めず、一人の民として法を適用する。大まかにいえばそういう内容だ。大公三人以上の連名の意見書は現行法に反しない限り、自領において州法として適用される」

「つまりは、巫女を一市民として扱うということですね」


 特権を認めないということは、裏を返せば法で保護するという意味になる。


「そもそも、法的には巫女という公の存在はいないからな。朝廷は神秘を以て人心を得ていた時代を終わらせ、法に依って立つ国に変えたというのに、朝廷自体がそれに対応できていないのが問題なのだ」


 愚痴のように言ってから、二十歳にもならない、政と関わりのない娘に話していると気付いた雪那は首を横に振る。


「つまらぬ話だったな。つまりは貴女の動向は朝廷も我らも軽視できぬということだ」


 なんとなく、凜にも紫星が表舞台に出てくるなと言った理由が分かってきた。

 大公は皇ですら法の制限を受けるこの国で、いまだ法を超えたところにいる巫女という存在を終わらせたいのだろう。

 そこに、陽鞠が巫女の力を思うままに振るえば、民心は巫女を崇めたまま何も変わらず、朝廷が再び巫女を担ぎ出す動きが現れるかもしれないということだ。


「お話は分かりました。ですが、私たちがこちらに訪れた理由は、人を探しているだけで巫女とは関係ありません」

「ほう。人探しか。名や、会って何とするか聞いてもよいか」


 陽鞠が確認をとるように目を向けてきたのに対して、凜は頷きを返した。

 華陽との顛末は陽鞠にも説明してあるし、その前から陽鞠はおおよそは把握していた。


望内もないという町の雪宗せっしゅうという方です。人からの預かり物をお返ししようと思っています」


 雪那から返ってきたのは、長い沈黙だった。

 沈黙の後に雪那が漏らしたのは、年相応の生きることに疲れた声であった。


「…華陽が死んだのか」

「はい。どうしてそれを?」

「貴女たちがその名を知る機会など、それしかあるまい」


 雪那の目が、凜が脇に置いた拵袋に向けられる。

 まるで、そこに入っている刀が誰のものか分かっているようであった。


「そうか。華陽がな…。これも何かの縁というものか」

「縁、ですか」

「こちらの話もちょうど望内のことだったのだ」

「それは、奇遇ですね」

「うむ。頼みごとを話してもいいかね」

「はい。どうぞ」


 短く答える陽鞠の横顔を、凜は盗み見る。

 いつもの穏やかな微笑みの奥に、凜はやや不機嫌さを見ていた。


「端的に言えば穢れの祓いを頼みたい」

「先ほどのお話と矛盾していませんか」

「民の前で大々的に力を使われるのは困るが、此度の話は内密のことなのだ」


 陽鞠に頼みごという時点で、おおかた穢れなのだろうと分かってはいたが、それでも勝手な話だと凜は思う。

 しかし、穢れに関して凜は意見を求められない限り、陽鞠の判断にまかせている。


「亡くなったのは天羽あもう水縹みはなだ。望内の領主だ」

「領主様が穢れを生むような亡くなり方を?」

「ええ。もともと執務で籠りがちな男だったせいで発見が遅れたようだ。調査をしようにも穢れのせいで誰も近づけない」

「なるほど。それは問題ですね」


 言葉ほどには、大したことだと思っていない口調で陽鞠は応じる。


「その穢れを貴女に祓ってもらいたい」

「お引き受けするのは構いませんが、私はもう巫女ではありません」

「無論、相応の対価は払うつもりだ」

「相応の対価とは」

「何が欲しい? 地位か、領地か」


 一瞬だけ間を置き、しかし陽鞠は迷いなく答える。


「金子でお願いします」

「金か…いかほどだ」

「付け値でけっこうです。大公様が仕事に見合う、と思われる額を。ただ、払いは小切手でお願いします」


 微かに雪那が目をみはったのが、凜には分かった。

 陽鞠はお金のことには疎い。最近は凜も陽鞠になるべく買い物などを教えるようにしているが、それでもまだまだ世間の価値観とはずれている。

 だからこそ、相手に価格を丸投げしたのだろう。

 相手が勝手に安い値を言ってくる分には知らぬ顔も出来るが、大公という立場で自分から安い値段をつけることは面目に関わる。

 小切手と言ったのは、ここに留まるつもりはないという意思表示なのだろう。


「よかろう。旅の準備はこちらで整える故、今日はここに逗留しなさい」


 陽鞠は首を傾げる。


「準備くらいは自分たちで出来ますが」

「貴女は北の旅を甘く見ておるだろう。そんな格好で外に出たら、すぐに死ぬぞ」

「そんなにですか」


 皇都とて冬は冷え込むが、やはりこういうところは、立派な屋敷で育った陽鞠の育ちの良さが出ていた。

 凜も北玄州ほどの寒さは知らないが、山の気温は都よりも低いし、山の寒さは命に関わるものだと知っている。


「凜が足袋を脱がせたのも、けして大仰ではないぞ。凍傷になれば、下手をすれば指が腐り落ちるのだからな」


 驚いた陽鞠が凜の方を見る。

 凜は素知らぬ顔で目を合わせなかった。そんなことは、自分が気を遣っていればいいことで、わざわざ言うほどのことではない。


「凜も甘いぞ。濡れたなら、すぐに脱がせるべきだった。他州の冬と北の冬の違いを甘く見るな」


 甘く見ていたわけではないが、認識が甘かったのは事実だったので、凜は頷く。


「北の旅に詳しい案内人を探すつもりでした」


 凜の言葉に、陽鞠は聞いていない、という顔をした。

 別に凜は黙っていたわけではなく、実際に探しながら説明すればいいと思っていただけだが、先に言えと言われそうで、目を合わせないようにする。


「それもこちらで出そう。追い剥ぎの類に騙されてはかなわんからな」

「…分かりました。お任せします」


 頭を下げた陽鞠が何故か睨みつけてくるのを、凜はやはり目を合わせないようにして気が付かないふりをした。

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