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あの花かんむりを忘れない  作者: とらねこ
夢のあとさき
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「わぁ…」


 凜の手を借りて船を下りた陽鞠は、降りしきる小雪を見上げて感嘆の声を漏らした。

 あまり雪の降ることのない皇都で育った陽鞠は、積もるほどの雪を物珍しそうに見ていた。


 江津を発ってひと月が経ち、凜と陽鞠は北玄州にたどり着いていた。


 しばらく足を止めて呆然と雪景色を眺めてから、陽鞠は気が付いたように身を震わせる。

 その薄く小さな肩に、そっと羽織が掛けられた。


「風邪を引きますよ」


 凜は自分の羽織を脱いで、陽鞠の肩に掛ける。その手に、陽鞠は手を重ねて見上げてきた。


「ありがとう。でも、凜は平気?」

「私はこれくらい平気です」

「そう?」


 陽鞠は首を傾げると、凜の腕を抱きかかえるように身体をぴったりと寄せる。


「こうすれば少しは温かい?」


 その温かさと愛らしさに相好を崩しかけ、凜は周囲から向けられる視線に気付いた。

 若い娘たちが睦まじく身を寄せ合う姿に、桟橋を通る人々が好奇の目を向けていた。


「陽鞠。見られていますよ…」


 軽く身をよじらせる凜に、陽鞠は一層身を寄せてくる。


「見られて何か困るの?」

「困るわけではありませんが、恥ずかしいではないですか」

「まあ。私が隣では恥ずかしいということ」


 大げさに不満げな声を出す陽鞠の、しかしその顔は笑みを浮かべていた。


「わざとらしいですよ」


 凜が言うと、陽鞠は忍び笑いを漏らしながら、少しだけ抱きつく力を緩めた。

 その楽し気な顔だけで、まあいいかと思ってしまう自分に凜は呆れる。


 陽鞠は特別な好意を凜に持っていると伝えはしたが、凜に何かの答えを求めようとはしなかった。

 少なくとも、言葉では。

 凜は陽鞠が求めるなら、その好意がどんなものでも応えるつもりはあった。しかし、陽鞠は関係性を明確にしようとはしない。

 巫女と守り手の関係ではなくなり、かといってただの友人ともいえない曖昧な関係に、凜は居心地の悪さに近いものを感じていた。


「止まっていると余計に冷えますよ。行きましょう」

「はい」


 凜が歩き出すと、手をつないだ陽鞠もついていく。

 桟橋を抜けて、港に積もった雪の真新しい所を、陽鞠はわざわざ足跡をつけて歩く。

 子供のような無邪気で、無遠慮な振る舞いに、凜は内心で少し戸惑いを覚える。

 こんな時、白い雪を汚すことを避けたり、道の景観を損ねることを気遣ったりするのが、陽鞠ではなかっただろうか。

 その戸惑いを見透かすように、凛の方を見た陽鞠が艶やかな笑みを見せる。

 凜は何となく陽鞠から目を逸らして、前を見る。


「足が濡れますよ」


 北の粉雪は触れても濡れはしないが、港の雪は水気を含んで湿り雪となっている。

 言ってから凜は、何か負け惜しみのような言葉だと思った。


「ふふ。今日はもう宿をとるのでしょう」

「そのつもりです。この寒さ、流石にこの格好では町の外は歩けないでしょう。今日は準備ですね」

「それなら、少しくらい濡れても平気よ」


 凜のように剣を振るうものにとっては、感覚の麻痺は死に直結するので、この寒さで濡れようとは思えない。

 それに凛には、陽鞠が少し無理をしているように見えた。


「そんなに悪ぶらなくてもいいのではないですか」


 ぴたりと足を止めた陽鞠が、凜を見上げる。


「…そんなふうに見えた?」

「ええ。ほんの少しですが」


 凜の歩く除雪された道に戻った陽鞠は、つないだ手を離して凜の腕を抱きかかえる。


「だって…凛て、私のこといい子だと思ってそうだから」

「善良な人だとは思っていますが」

「私、悪い女なのよ」


 可憐なお姫様然とした陽鞠から出た似合わない言葉に、凜は首を傾げる。

 悪い女という言葉から連想される、男を誑かせる悪女を思い浮かべる。


「まあ、たしかに私を籠絡した悪い女ですね」

「それ、全然笑えないから」


 軽い口調で応えた凜は、思ったより思い詰めた声が返ってきたことに驚く。

 陽鞠の方を見ると、琥珀の瞳が真剣な光を湛えて凜を見上げていた。


「私のせいで凜に何もかも失わせてしまった自覚はあるの」

「私が選んだことで、陽鞠が気にすることではありません」

「気にしていたいの。凜に無神経な女だって思われたくない」

「陽鞠、その考え方は少し前の私と似てますよ。私のように拗らせないでくださいね」


 相手を思って身を引くことが、時に相手を一番傷つけるのだということが、今の凜には理解できる。

 陽鞠が自責の念で自分から離れていったら、凜は傷つくし、そんなことは望んでもいない。


「大丈夫。凜はそこで身を引くのでしょうけど、私は何を失わせても、何を失っても手を離したり出来ないから。だから、私は悪い女」


 腕を絡めたまま歩き出した陽鞠に合わせて、凜も歩を進める。

 凜は真っ直ぐに前を見て歩く陽鞠の愛らしい横顔を、横目で盗み見る。

 あらためて強い人だと思うと同時に、どうすればこの想いに応えてあげられるのかと思う。

 答えは見つからないまま、言葉だけがぽつりと溢れた。


「それなら、陽鞠が悪い女で良かった」


 陽鞠の耳が真っ赤になったのを寒さのせいだと思うことにして、凜は見なかったことにした。

 黙ってしまった陽鞠に、凜もあえて声をかけることはせず、二人はしばらく無言で歩く。


 やがて船改所と呼ばれる港の関所に二人は近づいた。

 関所に立つ衛士を見た凜の身体がわずかに強張った。

 それに気付いた陽鞠が腕を抱く力を少しだけ強める。それから、絡めていた腕を離した。

 気を遣われたな、と凜は思う。

 衛士に対する緊張を、刀を抜きやすいように腕を解放することで緩めようとしたのだろう。

 凜は息を吐いて、身体の力を抜く。

 衛士を見るたびに緊張していては、余計に怪しまれるというものだろう。


 二人が船改所に向かうと、気がついた衛士たちが、はっとした顔をする。

 互いに目配らせをした衛士たちは、年嵩の一人が凜たちの方に歩み寄ってきた。


 咄嗟に凜は、衛士たちの人数、配置、武装を確認する。

 少しでも陽鞠に悪意を向けてきたら、斬り殺して突破するつもりだった。

 囲まれて陽鞠を奪われる過ちは、二度としない。


 年嵩の衛士は、半歩だけ陽鞠の前に出た凜の前に立ち止まると、直立不動で敬礼をした。


「陽鞠様と凜様ですな。自分は芦尾大尉と申します」

「お務めご苦労様です。何か御用でしょうか」


 対応は陽鞠にまかせて、凜は衛士の動きに目を配っていた。

 芦尾と名乗った大尉に敵意は見受けられないし、むしろわざわざ一人で来るあたりに気遣いを感じる。

 他の衛士たちは本来の職務に戻っており、もはや凜たちに意識を向けていない。


「は。大公閣下より、お二人がお見えになったら、お連れするように承っております」

「大公…北玄大公の夜風やかぜ雪那せつな様ですか」

「はい。お二人に頼みたいことがあるそうです」


 罠、という可能性を凜はまず考え、すぐに否定する。

 陽鞠や凜をどうにかしたいなら、権力にものをいわせればいい。わざわざ、罠など弄する必要性は薄い。

 完全に油断など出来ないが、おそらくは裏などないのだろう。


「私たちにですか? いったい何をでしょうか」

「詳しいことは聞かされておりません。お二人にしか出来ないことと、お伝えすれば分かるとのことです」


 その言葉で、凡そ穢れに関することだと凜は納得した。

 陽鞠はどうするのだろうかと、横目で表情を窺う。江津での祓いを引き受けたのは目的があったようだし、もう巫女の力を使うつもりはないのかどうか、凜は陽鞠に確認したことはない。

 そもそも、江津での目的が何だったのかも凜は聞いていなかった。

 そのことに凜はもう蟠るものはもっていないが、同時にどこまで踏み込んでいいのか迷ってもいる。


 じっと陽鞠の顔を見つめてしまっていた凜は、急に陽鞠が見上げてきて少しだけ動揺した。


「私は話を聞いてもいいと思うけれど、凜は?」

「いいのではないでしょうか」


 内心の動揺を隠して、凜は頷く。

 陽鞠は何か感じるものがあったのか訝し気にしながらも、とくに何を言うでもなく衛士の方に向き直る。


「分かりました。お招きに応じます」

「感謝します。お駕籠を用意いたしますので、お待ちください」

「いえ、駕籠は苦手なのです。歩いていきましょう」

「かしこまりました。それでは、ご案内します」


 歩き始めた衛士を追って、二人も歩き始める。 

 しばらく黙って歩いていた陽鞠が、凜の袖を引いた。

 凜が目を向けると、陽鞠は立ち止まってつま先立ちに凜の耳元に唇を寄せた。


「凜…」


 愛らしい甘えを含んだ声が、凜の耳朶をくすぐる。

 ぞわりと、凜の知らない感覚が背筋を震わせた。


「…やっぱり足、つめたい」


 陽鞠は泣きそうな顔で、自分の濡れた足先を見ろした。


「ふふっ…ははははっ」


 堪えきれずに笑い声を上げた凜を、振り向いた衛士がぎょっとした顔で見る。

 その時には陽鞠はすでに、いつもの澄ました顔に戻っていた。

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