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 鷦鷯さざき帝三十二年十二月。


 地祇大社本殿の座敷で、華陽は陽鞠と向かい合っていた。

 陽鞠の十五歳の成人を控えて、守り手を決める立ち合いに立ち会うために華陽は皇都に訪れていた。


「巫女様。こちらが伽羅の匂い袋です」


 華陽が差し出した金襴の巾着を、陽鞠はおずおずと受け取った。

 鼻を近づけると、微かに甘みがありながらも鼻の奥を刺激するような、森の木を思わせる深い匂いが香る。

 それはどこか凜を思い起こさせて、陽鞠の胸を甘く締め付けた。

 恥ずかし気に匂い袋と華陽を見比べる。


「ありがとうございます。わたくしごとでお手間をかけました」

「手間はさほどでも。伝手がないと手に入れにくいものですからいいのですよ」

「香舗でも手に入らなくて…」

「希少なものですから、店には出回りません。伝手のある相手にしか売らないのです」

「そうなのですね。華陽様はお詳しいのですか」

「凜音様がお香、特に香木が好きでよく買いにいっていたので顔がきくのですよ」


 華陽が口にした名に、陽鞠の肩が微かに震える。

 固くなった表情は、娘が母の名前を聞いてみせるものではなかった。


「…母がですか」

「あの方は白檀の方が好みでしたが」

「…奢侈だと思われますか」

「むしろ、陽鞠様はもう少し贅沢をされた方がいいでしょう」

「そうでしょうか」

「少しは欲を見せた方が周りも安心するものです」

「欲、ですか」


 不思議そうに陽鞠は首を傾げる。

 物欲の乏しさは華陽の巫女とはだいぶ違った。彼女の巫女は穢れを祓うたびに、憂いを晴らすように高価なものを買い漁っていた。

 それでも、神祇府に与えられた巫女の裁量で動かせる資金のうちであったし、若い娘を死に触れ続けさせる代価としては安いものだと華陽は思っていた。

 実際に巫女としての務めを果たしはじめたらどうか分からないが、今の陽鞠はその資金にまったくと言っていいほど手を付けていない。

 その陽鞠が珍しくも、高価な品を買ってきてくれないかと華陽に頼んできていた。


「はしたないと思われますか。凜様が好みそうなものを身に付けたいなんて」

「凜の嗜好は私にも分かりません。森で育った故、不快には思わないでしょう」


 華陽は微妙に答えをはぐらかした。

 いじらしげに指先で匂い袋を弄ぶ陽鞠の仕草は、華陽の胸に懐旧とともに僅かな痛みをもたらす。

 香りを変える度に華陽の反応を窺ってくる、彼女の巫女の上目遣いが脳裏を掠めた。


「沈香は焚かないとそれほど香りません。箪笥に着物と一緒に入れておくといいでしょう」

「そう、ですか」


 途端に陽鞠はそわそわとしだす。

 その様子を、目を細めて華陽は見た。

 彼女の巫女によく似た、しかし彼女の巫女ではない娘。

 確かな血の繋がりを感じさせる顔かたちは、しかし華陽に愛しさを感じさせない。

 彼女の巫女が彼女以外に身を委ねた証。

 もう激情は擦り切れ、その残滓が胸の奥で熾火のように燻るだけ。


 華陽は陽鞠に関心がなかった。

 凜を試す巫女であり、愛した女の子供というだけの娘。

 凜に選ばれるか、選ばれないかを待つだけの、彼女の母と同じ弱い女としか見ていなかった。


「巫女様。どうぞ、私にはお構いなく」


 華陽の言葉に、陽鞠は顔を輝かせる。

 それから恥ずかしそうに頬を染めながらも、そそくさと立ち上がった。


「お言葉に甘えて失礼します」


 品よくお辞儀をして、陽鞠は座敷から出ていく。

 陽鞠が動いた後に、匂い袋の香りに微かに混ざる甘い匂いが漂い、華陽の鼻腔をくすぐる。

 それは愛着と拒絶を同時に呼び起こす、過去の匂いであった。

 彼女の巫女と重なる背中を、華陽は静かな目で見送った。


◇◇◇


 どこか浮かれた足取りで廊下を歩く陽鞠の背中を由羅は追う。

 陽鞠が胸元に握る手に持ったものから漂う微かな匂いを、由羅の鋭敏な嗅覚はとらえた。

 深い森の木の匂いは、由羅にとっても不快なものではなかった。


「ふぅん。いい香りですね」


 由羅が声をかけると、陽鞠の足が止まる。


「どうせ、こんなこと馬鹿らしいとおっしゃりたいのでしょう」

「ひねくれてるなぁ」


 振り向かずに不貞腐れた声を出す陽鞠に、由羅は辛辣に返す。


「凜も嫌いな香りじゃないと思うけど」

「本当ですか」

「うん。でも、別に陽鞠様は何もつけなくても、いい匂いじゃない」


 伽羅の匂いに、微かに甘い匂いが混じっているのを由羅の鋭敏な嗅覚は嗅ぎ分けた。

 甘いが、甘ったるくはない瑞々しい果物を思わせる匂い。

 振り向いた陽鞠の頬が微かに朱に染まっていた。


「…赤ん坊みたいな匂いではありませんか」

「嗅いだことないから分からないなぁ。そう言われたことがあるの?」

「…」


 黙り込んだということはあるのだろう。

 陽鞠にそんなことを言える人間は限られている。凜なら悪気もなく言いそうではあるが、それを指摘しないだけの慈悲は由羅にもあった。


「それで、凜に子供扱いされたくないから、匂い袋をってこと」

「…久しぶりにお会いした時に、少しでも大人になったと思われたいだけです」


 陽鞠と出会った時に比べれば、由羅も少し背が伸びて体つきも女らしくなった。

 ほとんど変わらなかった由羅と陽鞠の背丈は、今では明らかに由羅の方が高い。

 きっと、凜はもっと成長しているだろうと由羅にも想像できた。


「ふぅん。可愛いですね」

「やはり、馬鹿にしているでしょう」


 顔を逸らして、陽鞠は再び歩き始める。

 馬鹿になど、由羅はしていなかった。

 凜を変えてしまった陽鞠が憎い。しかし、凜のことを除外してみれば、由羅にとって陽鞠は好ましい人物だった。

 同族嫌悪こそあるが、凜の好意を得るためになりふり構わない姿は、そういうやり方もあるのかと感心しているくらいだ。


 性格はまるで違うが、根本でどこか陽鞠と自分が似通っていることを、由羅もまた自覚していた。

 だからこそ、同じ人間に惹かれるのも理解ができる。

 凜がいなければ、意外と気の合う巫女と守り手になれたのかもしれないとも思う。

 傷をなめ合うような。


「馬鹿になんてしてないよ」


 由羅の言葉は揶揄する響きはなく、陽鞠もそれ以上は言い返さなかった。

 由羅は少しだけ足を早めて、陽鞠の背中に近づく。


「もう十二月も二十日ですね。凜、早く帰ってくるといいね」


 その由羅の言葉には、小さく、しかし素直に陽鞠も頷いた。

 凜が旅立ってから五か月も経つ。由羅にしても凜と出会ってから、こんなに長い間、離れ離れになったことはなかった。

 そして、凜が戻ってきた時が決別の時になる。


 由羅が守り手になれば、王国は陽鞠を攫うように指示を出すだろう。

 六歳の時に剣の里の近くの町に放置されて以来、接触のなかった王国が接触してきたのは、皇都に来てほどない頃だった。

 それからは定期的に報告を行っていた。


 陽鞠の拉致に成功したところで、由羅は自分が生かされるとは思っていなかった。

 陽鞠が姿を消したとして、その時の守り手である由羅は死んでいた方が王国にとって都合がいい。生きていれば顔が割れているうえ、見た目から王国の関与を疑われかねない。


 自分の生き死にに由羅はさほど関心はなかった。

 何もかも擲って逃げれば、あるいは生きるめもあるのかもしれない。由羅ひとりの命など王国にとっては些事だろう。

 しかし、そうまでして生き延びることに、由羅はさして価値を見出せなかった。

 凜にとって、かつて剣をともに学んだだけの里の子供たちと同列の、いつかは忘れ去られていく存在になることこそが由羅にとっての恐れだった。

 道が閉ざされているのなら、凜の記憶に残ることだけが由羅にとっての生きるということだった。

 もし違う道があるとすれば、それは凜が由羅だけを選んでくれることだ。それならば、由羅も死に物狂いで生にしがみついただろう。

 しかし、その望みはもうないと由羅は考えていた。


「由羅様?」


 由羅が物思いに耽っているのに気がついたのか、陽鞠が足を止めて声をかける。

 少し由羅を心配するような愛らしい顔。

 由羅が裏切りものなどとは、考えてもいないだろう。

 陽鞠の生い立ちを、由羅は王国からの情報で知っていた。

 人を信じられるような環境で育たなかったくせに、お人よしが抜けきらないところが、少し凜に似ているとも由羅は思う。


「なに?」

「いえ、心ここにあらずに見えたので」

「んー、凜はいまどの辺りかなぁって」

「そうですね。近くまで来ていると思いますが」


 この娘に凜は渡さない。

 凜が守り手になれば、王国の作戦に巻き込まれて命を落とす公算が高い。

 それは避けなければならない。

 そして何よりも、と由羅は考える。

 凜が守り手になった時、その関係は巫女と守り手の枠を超えてしまうような気がした。

 認めたくはないが、二人を見ていれば惹かれ合う定めのようなものを感じずにはいられない。


 そんな定めは断ち切る。

 由羅が守り手になれば、凜と陽鞠がこれ以上、近づくことはない。

 凜が命を落とすこともない。

 そして、由羅は凜の記憶の中で生き続けるのだ。


 伽羅の香木の匂いは、森の中の剣の里を思い起こさせる。

 木々の匂いを感じるたびに、凜はきっと在りし日の幼い二人の記憶を思い出してくれるだろう。

 そう思えるだけで、由羅の心は満たされていた。

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