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 鷦鷯さざき帝三十二年五月。


 凜が巫女屋敷に来てから二か月以上が経っていた。


 自分が護衛の当番ではない時、凜は巫女屋敷を巡回していることが多い。

 由羅は皇都に出歩いていることも多いが、性格的に凜は巫女からあまり離れる気にはなれなかった。


 陽鞠は凜が当番の時以外は、屋敷どころか御殿すら一歩も出ない。

 何かあればすぐに駆けつけられる距離を保つためには、必然的に屋敷周辺を見回ることになる。


 外の情報は由羅に頼ることになるが、その分、屋敷の内情は凜の方が詳しかった。

 凜がことさら社交的なわけではないが、明るく見えて個人主義の傾向がある由羅は屋敷の家人とほとんど関わりを持たない。


 十人もいない家人の名と凡その為人を、凜は把握していた。家人たちも、子どもながら立場をかさにきることもなく、自分たちの意見をよく聞いてくれる凜には親しく接していた。


「凜ちゃん。ちょっといい」


 その日、巡回する凜に声をかけてきたのは加奈だった。

 家人たちの凜への隔意は少ないとはいえ、遠慮がないわけではない。凜と顔見知りである加奈は、窓口のような立場になっていた。


「どうかしましたか」


 小柄で愛らしい顔立ちをした加奈は、年齢より幼なげに見えて愛嬌がある。

 ちょこまかと動く姿は小動物のようでもあり、人に警戒心を抱かせない。

 そうは言っても剣の里で十歳まで鍛えられた加奈は、生半な衛士よりはよほど遣う。

 剣の里が十歳以降も育てる子どもは際立った剣の才を示したものだけだ。そして、剣の才とは、何も剣の筋だけには限らない。

 加奈はどうしても、人に剣を振るう躊躇が抜けなかった。


「あのね。正一さんが辞めるから、挨拶をしたいって」

「正一…ああ、料理人のですか」


 凜の脳裏に実直そうな若い料理人の顔が浮かぶ。

 巫女に温かい食事を出すために協力してくれたため、凜の中に惜しむ気持ちが湧いた。


「ここの手当はかなり良いでしょう。何か問題がありましたか」


 巫女屋敷の家人は神祇府から差し向けられている。官ではないが、その関係者である場合が多い。

 雑務であれば神祇府の家人の親類であったり、料理人であれば皇に料理を供する内膳職の家のものである。

 当然、それに準じる給金が支払われていた。


「奥さんのお父さんが病で倒れちゃったんだって。それで、実家の料亭を継ぐんだって」

「なるほど。しかし、奥方の実家なのですね」

「うん。浪速の古い料亭なんだって」

「正一殿はたしか内膳職の典膳の家の出でしたか」

「そう。安曇あずみ正孝まさちかが本名だよ。安曇家の次男なんだって」


 内膳職は皇家の料理番を司る。

 安曇家は内膳職の次官に相当する典膳を代々務める家柄だった。


「名を変えているということは家を出ているのですね」


 一昔前であれば、内膳職のような職人の家のものは技術の秘匿と継承のために、次男三男であっても家を出ることは許されなかった。

 しかし、近年では官位も必ずしも世襲ではなくなったので、こうした市井に出るものも増えてきている。


「奥さんが市井の人だから、結婚するために家を出たんだって。浪漫だよね」

「浪漫、というのは分かりませんが」

「ええっ。身分の違いを超えて結ばれたんだよ。憧れるでしょ」

「苦労も多かったでしょうから憧れはしませんが、感心はします」

「凜ちゃんには浪漫がないよ…」


 ため息をつく加奈に、凜は首を傾げる。

 身分違いの結婚など、現実的には苦労の連続だろう。物語ではないのだから、結婚して幸せに暮らしました、とはいかない。それを考えれば夢など見ていられないのではないか。


「しかし、随分と詳しいですね」


 凜の言葉にはっとした顔をした後、加奈は曖昧な笑みを浮かべる。


「…凛ちゃんが気になることがあったら教えてって言うから、なるべく詳しく聞いたの」

「ああ、なるほど。手間をかけさせてしまいましたね」

「ううん。お話は楽しいから…」

「それならいいですが」


 少しだけばつが悪そうな加奈を気にすることなく、凜は納得したように頷く。


「加奈もそろそろ成人が近いのですから、そういう話はないのですか」

「そういう話って、結婚?」

「ええ。あなたの器量なら神祇府も紹介先に困らないでしょう」

「凜ちゃん…結婚はお仕事の紹介じゃないんだよ」

「そうですか? 大して変わらないのでは」


 いたって真面目そうに言う凜に、加奈はため息をついて軽く首を振る。

 結婚は家や親の繋がりで相手が決められ、結婚するまで相手の顔を知らないということも多い。その意味においては凜の言う通りだが、剣の里を出て間もない凜の知識は机上のものにすぎない。

 教えられた知識を語っているだけの凜の言葉は、子供の言葉だった。


「わたしは…そういうのはないかな」

「まあ、そんなに急ぐものでもないですしね。ところで挨拶というのはいつですか」

「急いで戻らないといけないから、明日、浪波に発つ前にここに寄るって」

「分かりました。巫女様に少し時間をもらえないか聞いてみます」


 頷く加奈に背を向けてその場を去る凜。

 凜の背中を見送る加奈の顔は微かに翳っていた。


◇◇◇


 巫女御殿と下屋敷は塀と堀で区切られており、渡り廊下で繋がっている。

 その渡り廊下の屋敷側の端には、衛士の詰所が設けられていた。

 詰所は八畳の広さを土間と座敷で半々にしている。その土間に立ちながら、凜は入口で地面に平伏する二人を困り顔で見ていた。


 平伏する一人は料理人の正一で、もう一人は赤子を抱いた女だった。

 凜は頭を上げようとしない二人に閉口して、座敷の方に目を向ける。

 座敷には、微笑みを浮かべた陽鞠が座っていた。例え家人が巫女を一度も見たことがないにしても、その佇まいで見間違えるものはいないだろう。

 仕立てのいい小袖に薄萌黄の打掛。金色の瞳の幼さを残した美姫。この屋敷の敷地にそんな人物は一人しかいない。


「巫女様。ですから御殿にいてくださいと」

「由羅様が外出してしまったのですから、凜様が私から離れることはできないでしょう。それでしたら、私が凜様と一緒に動けばいいだけですから」


 振り向いて小声で言う凜に、陽鞠がしれっと言い返す。口では敵わないと思っている凜は顔をしかめた。

 陽鞠は他の人間には見せない柔らかい笑みを凜に向けてから、平伏する二人に目を戻す。


「お二人とも顔を上げてください。これは巫女としての命令です」


 可憐な陽鞠の声には、しかし逆らうことを許さない力がある。

 平伏する二人が、おずおずと顔を上げた。


「私のことはお気になさらず。置物とでも思ってください」


 巫女を置物扱いできる人間など、この山祇にいないだろうと思いながら、凜は二人に向き直る。


「巫女様もこう仰せです。咎めだてするようなことはありませんから、楽にしてください」

「はい。かしこまりました」


 まだ固い声で、しかし少しだけ気が楽になった表情を正一が浮かべる。


「凜様。本日はお時間をいただきありがとうございます。急な暇でご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「ご実家の事情と聞いています。致し方ないでしょう。このまま浪波に発たれると聞きましたが」

「はい。後任は神祇府からすぐに手配されますので」


 正一と会話しながらも、凜は剣士の常として視点を正一ひとりに合わせたりはしない。

 広い視野を保っていたため、当然に正一の妻も視界に収めていた。

 頭を上げても目は伏せたままで、赤子を抱く手は微かに震えている。平民の出の女が心構えもなくいきなり巫女の前に出されれば緊張もするだろう。

 あまり長い時間をかけない方がいいと判断し、凜が話を打ち切ろうとした時だった。


 母親の緊張と震えを感じ取ったのか、赤子がむずかりだした。

 慌てた母親があやそうと腰を上げかけ、貴人の前で勝手に立ち上がる無礼に気付いて、中途半端に動きを止める。

 その動きを切欠に、赤子が火が付いたように泣き出す。

 顔色を蒼白にした母親が、恐慌を起こしかけていると凜は見て取った。

 真横にいる正一は急な赤子の泣き声に驚き、妻の様子に気付いていない。


 するりと滑るような淀みのない動きで近づいた凜が、崩れそうな母親の肩を支えて、同時に落としかけた赤子を片手で取り上げた。

 咄嗟に取り上げはしたが、腕の中の赤子の柔らかさに凜は冷やりとする。

 凜の人生の中でこんなに脆い生き物に触れたことはなかった。力を入れ過ぎないように抱えるのではなく、下から支えるように抱え直す。

 微かに甘い赤子の匂いが、凜の鼻腔をくすぐった。


「も、申し訳ありませんっ」

「よい。それより、奥方を支えてください」


 慌てる正一は凜に宥められて、凜に代わって妻の体を支える。

 意識までは失っていなかったのか、夫に支えられて妻は次第に息を整えていく。


 凜に両腕で抱え直されて安定したのか、赤子の泣き声がぴたりと止む。

 ふと、視線を感じた凜が振り向いた。


 腰を浮かしかけた陽鞠が、何とも言い難い複雑な目で凜を見ていた。

 凜と目が合うと、一瞬だけ気まずげな表情を浮かべてから、いつもの巫女の顔に戻る。


「落ち着いたら、下屋敷で休まれてから発つのがいいでしょう。くれぐれも奥方を責めてはなりませんよ」

「そうするといいでしょう」


 陽鞠の言葉に凜が追従する。

 母親の様子が支えがいらないほどに落ち着いてきたのを見て取り、凜は赤子を正一の手に委ねた。


「私たちがいては休まらないでしょう。凜様、参りましょう」

「はい。…それでは正一殿、ご息災で」


 腰を上げて、詰所と御殿への渡り廊下をつなぐ奥へと陽鞠が姿を消す。

 頭を下げる正一に声をかけて、凜は陽鞠の背を追った。


 凜が渡り廊下に出ると、少し先で陽鞠が待っていた。

 凜と目が合うと、ばつが悪そうな表情を浮かべる。


「凜様。すみません。私がでしゃばったせいで…」

「あの奥方が思ったよりも繊細だっただけです。気にされることはないでしょう」


 陽鞠が省みていないなら多少の小言くらいは言ったかもしれないが、過剰に気にするほどのことには凜には思えなかった。


「赤ちゃんもいるのに、旅に障りがないといいのですけれど…」

「まあ、大丈夫でしょう」


 顔色も、肩に触れた感じもけして不健康そうではないと凜は感じた。緊張が解ければとくに問題ないだろう。


「それならいいのですけれど」


 隣に立った凜に、陽鞠はぴたりと身を寄せる。

 最近の巫女は距離が近すぎると凜は思うが、突き放すほどではないと思ってしまう自分にこそ困惑する。

 ふわりと漂った陽鞠の匂いが、凜の鼻先を掠めた。

 果実のような瑞々しい、微かに甘い匂い。


「巫女様は、赤子と同じような匂いがするのですね」


 何の気なしに凜が思ったままを口にすると、普段のゆったりとした動きが嘘のような素早さで陽鞠は身を離した。

 怪訝に思い、凜が目を向けると、耳まで真っ赤にした陽鞠が信じられないものを見る目で自分を見ていた。


「な、なんてことを言うのですか」

「? 先ほど抱いた赤子がいい匂いだったので。そういえば巫女様も同じようないい匂いがすると思っただけですが」


 更に一歩、陽鞠が凜から離れた。


「凜様はしばらく私に近づかないでくださいっ」


 珍しく強い語気で言うと、陽鞠にしては足早に凜から逃げるように廊下を歩き始めた。

 そもそも近づいてきているのは巫女の方ではないか、と凜は首を傾げる。


「巫女様、お待ちください」


 残り香を追うように、凜は陽鞠を追いかけた。

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