一
四歳までの陽鞠の世界は、狭い座敷の中だけだった。
その狭い世界で知る人は二人だけ。陽鞠は生まれてこの方、母親と乳母以外に会ったことがなかった。
その母親にしても、同じ離れの屋敷に住んでいながら、顔を合わせることはひと月に一度あるかないかだった。
陽鞠にとって母親というだけのよく知らない女の人。
顔を合わすことはあっても、殆ど話すこともなく、向けられる感情のない目が怖かった。
ただ、いつも微かに漂わせる深い森のような香りは嫌いではなかった。
ある日、母親に連れられて屋敷を出た。
その時、初めて陽鞠は自分の屋敷が大きな城の敷地の一部であることを知った。
登城の途中ですれ違う多くの人々を初めは興味深く見ていた陽鞠だったが、自分たちに向けられる目がけして好意的ではないことに気付いて俯いてしまう。
顔色を窺うように見上げた母親の顔は青白く、憔悴しているように見えたが、向けられる目には何の関心もないようであった。
城に上った陽鞠は、自分の父親だという人と兄だという人たちと顔を合わせた。
兄たちから向けられた生まれて初めての拒絶に怯えた。それ以上に父親から向けられる人ではなく物を見る目が怖ろしかった。
そして、その目が母親が自分に向けるものと、とても近しいことに気が付いてしまった。
聡かった陽鞠は、ここに自分の居場所がないことを早々に理解した。
誰も自分を必要としていないどころか、いなくなった方がいいと思われていることを直感的に感じ取っていた。
消沈して帰路につくことになった陽鞠を離れの屋敷の前において、母親は裏手へと去っていった。
その時、何故そんなことをしたのか、陽鞠自身にも分からない。
もしかすると、まだ母親を求める幼心が残っていたのかもしれない。
陽鞠は母親の後を追いかけていた。
母親が消えていった裏手の林に陽鞠は踏み入る。
幼子にとっては人工林であっても、暗い木々の立ち並みは怖ろしいものだ。
林に入ってすぐに母親を見失い、心細い思いを抱えながら陽鞠は林を歩く。
城の敷地に作られた林はさほど広いものではない。大人であればすぐに抜けてしまい、迷うようなものではなかった。
陽鞠が実際に歩いた時間はごく短いものだった。
それでも行き先も分からず歩くのは、何刻にも長く感じられる。
林を抜けた陽鞠は息をついて安堵した。
目の前には小さな丘があり、丘には陽鞠の知らない小さな白い花が一面に広がっていた。
陽鞠が視線を上げると、丘の頂のあたりに母親が腰を下ろしていた。
ゆっくりと丘を登る陽鞠に気が付くことはなく、母親は俯いたまま何か手を動かし続けている。
陽鞠はすぐ近くまで近づくと、無言で腰を下ろした。
母親の手元を覗き込むと、白い花の茎を編み込んでいた。
「あら。追いかけてきたの」
手元から目を上げないまま、母親が声を出す。
そこにはただ事実を口にした以上のなんの感情も含まれてはいなかった。
陽鞠は何と答えたらいいのか分からず、黙って母親の手元を見つめ続ける。
母親も答えがないことに構うことはなく、手を動かし続けた。編み込まれた花は次第に長くなっていく。
それが不思議で陽鞠は見様見真似で母親と同じことを始める。
「花かんむりを喜んでくれたの」
陽鞠に言うでもなく、母親は言葉を紡ぐ。
「どんなに高価な物を贈っても困った顔しかしてくれなかったのに」
誰の話をしているのだろうかと陽鞠は思う。
陽鞠の父親という人のことだろうか。しかし、あの人の母親を見る目は自分に向けるものと同じだった。
母親にしても他の人と同じように父親に何の関心もないように見えた。
「名前に華が付いているから花が好きなのって聞いたらそうじゃないって」
「でも花かんむりなんてすぐに枯れてしまうでしょう」
「結局どうして喜んでくれたのかは教えてくれなかったわ」
無言で母親の手元を真似する陽鞠に構わず、ぽつぽつと言葉を落とし続ける。
「私の何が悪かったのかしら」
母親が深いため息をついた。
二の腕ほどの長さになったところで輪の形にして端の茎を結ぶ。
「結婚するなってどういう意味だったのかしら」
出来あがった花かんむりを惜しげもなく放り捨て、新しいものを作り始める。
「結婚なんてただの義務なのに。愛しているのはあの人だけだったのに」
心底不思議そうに母親は首を傾ける。
結婚も子供を作ることも貴族の義務。しかし四歳の、隔離されて育った陽鞠にそんなことは理解できない。
そもそも母親の言っていることの大半が陽鞠には分からなかった。
理解できたのは、この人は一度たりとも自分の母親ではなかったということだけ。
「どうして私のことを捨てたのかしら」
その声は驚くほどに熱がなかった。
陽鞠は生きている死人の声を初めて聞いた。
思わず目を上げて母親を見る。青白い横顔はこの世のものとは思えないほどにぞっとするほど美しく、薄い体は今にも消え入りそうに儚げだった。
ぴたりと母親の花を編む手が止まる。
そのまま急に興味を失ったように編みかけの花かんむりを放り捨てる。
そして、陽鞠など最初からいなかったかのように立ち上がり、丘を下りていく。
一人取り残された陽鞠の手には、歪な花かんむりが残されていた。
それから数日後に母親が急逝した。
病死とされたが、自死に近かった。ほとんど食事をとらず、衰弱していったが、そもそも生きる気力がなかった。
母親が亡くなった日、鏡を見た陽鞠は自分の瞳が金色に変わっていることに気が付いた。
母親と同じ琥珀の瞳。巫女の証。
母親が巫女というとても尊い存在だということは、乳母に聞いて知っていた。
葬儀はごく内々で秘めやかに行われた。
兄たちの目は拒絶から憎悪に変わったが、陽鞠はもう怖ろしいとは思わなかった。
悪意の怖ろしさは、危害を加えられることと、社会の輪から弾かれるかもしれないからだ。しかし、陽鞠はすでに他者に受け入れられることを諦めていた。
だから、陽鞠は誰に禁じられたわけでもなく、母親の死後も離れの屋敷から一歩たりとも出なかった。
その人が訪ねてきたのは母親の葬儀からひと月ほど経った頃だった。
乳母の妙が玄関で荒い声を出しているのが気になり、陽鞠が顔を出すと怜悧な黒い瞳と目が合った。
咄嗟に陽鞠は目を逸らして、顔を引っ込める。
陽鞠は何か、見たことのない生き物を見た気がした。
心臓が知らない鼓動を打つ。
その心臓の誘惑に耐えられずに、陽鞠はもう一度、顔を出す。
そこにいたものを、その時の陽鞠は例える言葉を知らなかった。
人とは思えぬ美しい生き物。
陽鞠は直感的に、この人が母親が言っていた人なのだと理解した。
幼心にもこれを手に入れるためなら何だって惜しくないと思えた。
捨てられたというのが本当かは分からないが、それでも手離した母の方が愚かだと思えた。
いよいようるさい心臓を抑える陽鞠の瞳が、妖しく揺れる。
もう一度、目が合った。
その瞬間に、陽鞠の高揚は粉々に打ち砕かれた。
母親が自分を見るのと同じ、無関心の目だった。
これは違う、と気落ちしながら陽鞠は妙を宥めて、その人に挨拶をする。
剣の里の長と名乗ったその人は、母親の墓参りに来たのだという。
剣な里とは巫女を守る守り手を育てるところなのだそうだ。
その人を、母親の骨が置かれた座敷に案内する。
急逝で墓の用意が間に合わなかった母親の骨は、仮霊舎に置かれていた。
随分と長いこと手を合わせていたその人を、陽鞠はずっと見ていた。
母親をずるいと思いながら。自分だってこれが欲しい。
これが手に入るなら、誰に嫌われていようが生きていける。
そう思い、陽鞠は理解した。だから母親は死んだのかと。生きていくための縁を失ったから。
去り際に、その人は言葉を残した。
その言葉だけが陽鞠の希望を未来を繋いだ。
「いま、貴女のためだけの刃を磨いています。いずれ、お届けしますのでお待ちください」
その人が微かに漂わせる深い森の匂いは、母親と同じものだった。




