夜前・結
「陽鞠様。失礼します」
返事がないことを訝しんだ蘇芳が座敷の襖を開けると、中に誰もおらず縁側が解放されているのに気がつく。
縁側に面した庭園の前に、陽鞠はかがみ込んでいた。
蘇芳が縁側に立つと、陽鞠が植えられた一本の花に指を触れているのが見えた。
茎の頂きに白く小さな花が星のように多数咲いていた。
「遅咲きですね」
「…ええ、川芎ですか」
振り向かずに言う陽鞠に、蘇芳は答える。
「はい。根茎が生薬になるそうです。古くは鞠と呼ばれていました」
「ああ、陽鞠様のお名前は…」
「蘇芳様は花言葉をご存知ですか」
蘇芳の言葉を無視するように、陽鞠は問いかける。
「花言葉、ですか?」
「はい。王国では花にいろいろな意味を持たせているそうです。花を活けるようになってから、山祇でも貴婦人の間で密かに流行っているそうですよ」
「ほう。存じ上げませんでした」
「私も乳母に聞いた程度です。この花…」
陽鞠の指が撫でるように花から茎に伝う。
「『永遠にあなたのもの』という花言葉だそうです」
茎で止まった指が、分枝の一つを摘まむ。
「馬鹿らしい。そんなに好きなら離れなければ良かったものを」
冷ややかな声とともに、陽鞠は茎を引きちぎって放り捨てる。
そこに、蘇芳の知るひまわりを愛でていた少女はいなかった。
ゆっくりと腰を上げ、振り向いた時には蘇芳のよく知る穏やかな微笑みを浮かべていた。
「申し訳ございません。何か御用でしたでしょうか」
陽鞠は縁側から上がると、座敷に座った。
向かい合って座った蘇芳は、懐から取り出したものを陽鞠の前に置く。
「こちらが、陽鞠様のご希望されたものです」
蘇芳が差し出した二通の書状に、陽鞠は目を落とす。
畳の上に置かれた紙きれを見る目は、成人前に蘇芳が贈ったどんなものにも見せたことがないほどに輝いていた。
陽鞠の指が伸びて、紙の表面を愛し気に撫でる。
「陽鞠様は商家の娘。凜は衛士の娘になっています。縁者は絶えておりますが、古い顔なじみがいないとは限りませんのでお気をつけください」
「ありがとうございます。人別帳の改ざんなんて、大公様にお願いして申し訳ございません」
「それは大したことではありませんが、これがそんなに大事なのですか」
答える必要などないと言わんばかりに、陽鞠は大切そうに書状を懐にしまい込む。
「知っていらっしゃいますか。凜様という人は、この山祇の国に存在しないのです」
「…それは、どういう意味でしょうか」
蘇芳の疑問には答えず、陽鞠は微笑みだけを見せた。
「当たり前の生活には、当たり前の身分が必要なのです」
どこか遠くを夢見るように、陽鞠はぽつりと漏らす。
それは、未来に夢を見る少女のような目だった。
初めて見る年相応の少女の顔に見惚れた蘇芳は、しかし同時に胸に痛みを覚えていた。蘇芳にそんな顔をさせることは出来ないし、蘇芳との未来に陽鞠が求めた書状は必要なかった。
「…陽鞠様」
「ところで、蘇芳様。もう一つ、お願いしてもいいでしょうか」
何かを言いかけた蘇芳を遮るように、陽鞠は言葉を被せた。
「何でしょうか。私に出来ることであれば」
「凜様は明日、早ければ今夜にでもこの江津を去るでしょう」
「…はい」
その予感は、蘇芳にもあった。
別れた時の凜の言葉は、蘇芳に陽鞠をまかせる様にも受け取れた。
「凜様は北玄州に向かわれます」
「それは確実なのですか」
「あの律儀な人が、人との約束を後回しにするなんてありませんから。いえ、これはこちらの話なので気にされなくてけっこうです」
「左様ですか。それで、それが何か」
「北玄州に向かうには海路と陸路がありますが、凜様はおそらく陸路を使うでしょう。しかし、海路を選ばないとは言い切れません」
「たしかに、そうですね」
船に乗るには手続きが必要なうえに、出航を待つ時間はその場に留まらなければならない。逃げようとするものには選びにくい選択だった。
「私は夜のうちに街道の入口で、凜様を待つつもりです」
それは、遠回しな蘇芳からの求婚の断りだった。
いや、と蘇芳は考える。そもそも陽鞠は、蘇芳の求婚など初めから考慮すらしていない。
今、琥珀の瞳を炯々とさせる目の前の娘の頭は、黒髪の娘をいかに逃さないかに全て傾けられている。
「そこで、もし港に凜様が現れるようなら、私に教えて頂きたいのです」
「なるほど…一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「何でしょうか」
「何故、今、凜とお話をされないのですか」
「今では駄目です。あの人自身に守り手という役目と決別してもらわなければ、何も変わりません」
蘇芳はじっと目の前の少女を見る。
この初恋の少女の目に自分が映ったことなど、一度としてないのだろう。そして、それを望むなら今が最後の機会である予感があった。
「かしこまりました。しかし、いくつか条件を出させて頂いてもよろしいでしょうか」
「条件、ですか」
「はい。一つは江津を出るまで、陽鞠様に護衛をつけること。流石にお一人で外を歩かせることも、待たせることもできません」
「…分かりました。ですが、凜様を待っている時は、見えないくらいに距離を空けて下さい。これくらいなら平気だろう、くらいですと凜様は気付きますよ」
「目の良いものをつけましょう。もう一つは…」
言い淀んだ蘇芳は、意を決して言葉を続ける。
「条件というか、賭けをしませんか」
「賭け、ですか」
「はい。もし、私が凜を翻意させることが出来たら、私と結婚していただけませんか」
陽鞠は不思議そうに首を傾げる。
「勿論、結婚したからといって、陽鞠様に指一本触れたりはしません。貴女と凜の関係に口を出したりもしません」
凜に対しておかしな想像をするなと言わんばかりに、すっと陽鞠の目が細まった。
「私に陽鞠様をお守りする機会を頂きたいのです」
陽鞠の目が少しだけ宙を彷徨ってから、蘇芳に戻る。
「試みに問うてもよろしいでしょうか」
「何なりと」
「もし、王国が私を引き渡さなければ、戦を仕掛けると言われたらどうなさいますか」
「それは…そのようなことにならないようにするのが私の務めです」
蘇芳の背筋に冷や汗が浮かぶ。
自分の言ったことが、陽鞠の問いの答えになっていないことは分かっていた。
蘇芳はたしかに陽鞠を守れるだけの力を手に入れた。しかし、それは守れる力の範囲が広がっただけに過ぎない。
己の力が及ばぬ状況であっても、陽鞠のために立ち上がる背中を、蘇芳はすでに見ていた。
「ご立派なお答えだと思います。蘇芳様のような方が治められる東青州の民は幸せでしょう」
陽鞠はけして揶揄したのではなく、本心で言ったのであろう。
蘇芳を試したわけでもないのだろう。
おそらくは、蘇芳の答えを鏡として、自分の唯一が誰であるのかを、自分自身の想いを確認したのだ。
「殿方は国や民を守ることに命を懸けられます。それは尊いお務めだと思います。蘇芳様はどうか立派な大公にお成りください」
それは陽鞠にとって決別の言葉であった。
蘇芳とのではない。陽鞠が巫女として生まれ、育った世界との決別だった。
蘇芳がそれを理解するには、まだ数刻ほどの時間が必要だった。
「蘇芳様。お申し出をお受けします」
嫣然とした微笑みを浮かべて、陽鞠は頭を下げた。
その所作はどこまでも美しく、そして誰も踏み入らせないものであった。
女の心は、余人の入る隙間がないほどに、一人の女で占められているのだから。
◇◇◇
山祇国にはかつて巫女と呼ばれる存在がいた。
巫女は大地と命を蝕む猛毒たる穢れを祓うことができたといわれる。
今となっては御伽話と変わらない、実在も怪しい存在だった。
夕月陽鞠の名は、最後の巫女あるいは巫女を騙るものとして講談に語られる。
少なくともその名以降に巫女を名乗るものは歴史に現れなかった。
しかし、夕月陽鞠が罪を得て蟄居させられたという年より、その後、数十年にわたり山祇の穢れを祓うものの逸話が各地に残っている。
それは、白髪の少女ともいわれるし、黒髪の佳人ともいわれるし、品のある老婆ともいわれる。
それが同一の人物であったかは誰も知らない。
ただ、その傍らには常に黒髪の麗人が寄り添っていたことだけは、いずれの話でも変わることはなかった。
<完>




