六十七
蘇芳と別れた凜は、江津の町を出ようとしていた。
何かをやり遂げたという感慨もなく、空虚な心を抱えて秋の高い空を見上げる。
もはや目的など何もないが、やるべきことはあった。
華陽との最後の約束は果たさなければならない。
「北玄州か」
ぽつりと凜は呟く。
東西州の北に位置する北玄州は、山祗でも寒冷な地であり、冬は雪に閉ざされる。
わざわざこれから冬という時期に向かうのは愚かものであろう。
凜は失笑を漏らす。
賢い選択など一度も出来たことなどないのに、今更だった。
さて、どう向かうかと凜は考える。
陸路で北に向かうか、船に乗るか。どちらにせよ、最後は船に乗る必要があるため、効率的なのは船に乗ってしまうことだ。
しかし、港で船を待つのは憚られた。
蘇芳が衛士を差し向けてこないとも限らない。
別に急ぐ旅でもないと、凜は陸路を行くことを決めて足を北に向けた。
江津から伸びる街道は二本。西白州方面に向かう海津道と、北玄州方面に向かう山津道。
凜が宿泊した宿は江津の北側に位置するため、山津道までさして時間もかからない。
陽が昇り、明るくなる頃には江津の郊外にたどり着いていた。
山祇の町は壁に囲まれているわけでもないので、街道と町の境目があるわけではない。
家屋が次第に減っていくが、明確に江津を出たと言えるのは、海に繋がる大川に架かる橋を越えた所からだろう。
その橋に凜が近づくと、人通りのない橋の袂に立つ、頭巾の娘が目についた。
背丈と身体つきの細さから、十代半ばに思えた。
橋を通る猫の一匹も見逃すまいとするように、身動ぎもせずに立っている。
橋の方に意識がいくあまり、凜の方には気が付いていない。
その不用心さに凜は眉を顰めた。
こんな人目のないところで若い娘が一人でいたら、攫ってくれと言っているようなものだろう。
奇妙に気になるのは、陽鞠と背格好がよく似ているからだろうか。
内心で首を傾げながら、凜は娘に近づく。
足音をほとんど立てない凜に、娘が気がつくことはなかった。
すぐそばまで行くと、背格好だけではなく、立ち姿や雰囲気まで陽鞠とそっくりで、凜の心臓が微かに痛みを訴えた。
「もし。若い娘が一人では危ないですよ。連れはいるのですか」
もし一人旅なら目的地まで護衛してもいいかと思いながら、凜は声をかける。
それが自傷行為、あるいは代償行為と分かってはいたが、陽鞠を思わせる娘が知らないところで非道な目にあっていたらと思うと、気が気ではない。
急に声をかけられて驚いたのか、娘は肩を震わせてから、ゆっくりと振り向いた。
振り向きながら頭巾を外すと、結い上げた白い髪が露わになる。
娘の琥珀の瞳が、真っ直ぐに凜を射抜いた。
「連れはいます。今、来ました」
言葉もない凜に、淑やかな微笑みを見せてから、陽鞠は頬を膨らませた。
「女の子と見るとすぐに声をかけて。さっそく浮気ですか。ひどい人」
「…どうしてここに」
陽鞠を一人で出歩かせるなど、本当に役に立たない男だと、凜は頭の中で蘇芳を縊り殺した。
よく似ていると思ったのも、気が引かれたのも当然だった。凜が陽鞠を見間違えるはずがない。
それでも、いるはずがないという思い込みを優先してしまった。
「どれだけ一緒にいたと思っているの。凜の考えていることなんてすぐに分かりますから」
詰られると思った凜は、意外と上機嫌な陽鞠の様子を訝しむ。
「怒っていないのですか」
「怒っているに決まっているでしょう。本当は顔を見たら引っ叩いてやろうと思っていました」
想像して、それはとても痛そうだと凜は思った。
陽鞠の小さくか弱い手で叩かれるのは、たぶん、今まで負ったどんな傷よりも痛いだろう。
それでも、その痛みを負ってでも凜は言わなければならなかった。
「陽鞠様。戻ってください」
「戻るって何処へ。貴女の隣以外のどこに私に帰るところがあるのですか」
何の躊躇もない、当たり前のように返された言葉。
そんな陽鞠の言葉に喜びそうになる心を、凜は必死で押し留める。
「困らせないでください。陽鞠様を連れてはいけません」
「どうしてですか?」
「私は人を斬り過ぎました。きっと陽鞠様を災いに巻き込みます」
「巻き込んだのは私の方だと思いますが…そう、凜様の考えは分かりました」
物分かりのいい返事を訝しみながらも、凜は安堵とする。
「分かっていただけましたか。では、人の多いところまで送りますから、町まで戻りましょう」
「嫌。分かったと申し上げただけで、着いていかないとは言っていません」
真っ直ぐに凜を見たままの陽鞠に、引く様子は欠片もなかった。
惨めな本心を吐露することを、凜は躊躇した。この後に及んでも陽鞠の中の自分を、美しく保ちたいことに呆れる。
ここで陽鞠から逃げることは、凜にとって容易なことだった。
しかし、それで凜の目の届かないところで陽鞠が追いかけてきたら、陽鞠を危険に晒すことになってしまう。
凜はここで陽鞠を説得するしかない状況に追い込まれたことを理解した。
「…陽鞠様に何かあったら、私は後悔します。今ならやり遂げたと思えるのです。役目を遂げた守り手として、去らせてはもらえないでしょうか」
いつか、自分の不甲斐なさから陽鞠を手に掛けるようなことになるのが、凜は恐ろしかった。
それは、凜にとってけして杞憂などではなかった。一度はその直前まで追い詰められているのだから。
守り切る約束を最後まで全うする自信がないから、守り切れたと思えるところで去りたいなど、あまりにも情けなかった。
唇を噛み、陽鞠をまともに見れずに凜は俯いた。
「そう、今なら守り手をやり遂げたと思えるのですね」
「はい」
顔の見えない陽鞠の声は平坦で、凜にはその感情が分からなかった。
陽鞠の言葉が途絶える。
沈黙が凜の胸に重くのしかかり、じわりと汗が滲む。
「…分かりました。長い間、お務めご苦労様でした」
沈黙を破る陽鞠の言葉に、凜は痛みを覚える。
聞きたくはなかった。決定的な言葉を聞きたくはなかったから、陽鞠と話すことから逃げたのだ。
約束をそんな簡単に終わらせることが出来る陽鞠に、理不尽な苛立ちすら覚える。
「では、もう凜は守り手ではないのね」
「え…?」
まるで先の言葉の余韻もなく、口調を変えて陽鞠は続ける。
思考がついていかない凜は、間の抜けた声を漏らした。
「凜は守り手の務めを果たし、私は凜の巫女ではなくなった。そうよね」
これは何の確認なのだろうかと、凜は訝しむ。
本心を言わされた時と同じ、追い込まれているという感覚が蘇る。
「…そう、です」
「では、私たちはただの陽鞠と凜です。だから、これからの私たちの話をしましょう」
「詭弁です。例え守り手と巫女でなくなっても、私のやったことが消えるわけではありません」
「そう思うのは、凜が私を守ろうとしているからでしょう」
それが凜が陽鞠と交わした約束だった。
それだけが、凜にとって出来損ないの自分に価値を与えてくれるものだった。
「私は凜に守ってほしかったわけじゃない。そばにいてほしかっただけなの」
しかし、陽鞠に望まれたのは、そばにいることだけだった。
陽鞠は一度だって凜に守ってほしいと望んだことはない。
「あの約束の時、凜は守ってくれるって言ったよね。私は嬉しくて、そうじゃないって言えなかった。あの約束が凜を縛ってしまった」
陽鞠を守ると誓ったのは凜だった。
それは、その誓いだけが偽物を本物にすると思い込みたかったからだろうか。
「ずるいのは分かってる。今までずっと凜に守ってもらっていたのに、こんなこと言い出すのは卑怯だよね」
そうではなかった。あの星降る丘で約束を交わした時、凜はそんなことは考えていなかった。
本物になりたかったのではなく、偽物でもかまわないと思ったはずだった。
陽鞠を守りたかったのは、ただ凜の心からの望みだった。
「でも、私だって凜を守りたい」
「陽鞠が、私を…?」
何を言われているのか、凜には分からなかった。
陽鞠は誰かに守られるべく生まれた人間だ。凜は誰かを守るために生まれた人間だ。
陽鞠が何から凜を守ると言うのだろうか。
「凜みたいに強いわけではないけれど、守るって戦うことだけではないでしょう」
守ることが戦うことだけなら、凜は去ろうとはしなかった。
剣の一振りで守れるものの少なさに気付いたからこそ、凜は去ろうとしたのだ。
「凜は真面目で、融通がきかなくて、意地っ張りで、思い込みが強くて、鈍感で、そのうえ泣くことも上手くできないくらい不器用だけれど」
そこまで言うことはないのではないだろうか。自己評価が低い凜ではあるが、そこまで駄目な人間ではないと言いたかった。
しかし、悪口とも言えるような陽鞠の言葉が、凜は何故かとても嬉しかった。
「凜が悲しければ寄り添いたい。凜が泣いていれば抱きしめたい。凜が楽しければ笑いたい。凜が嬉しければ私も嬉しい」
一瞬だけ言葉を途切れさせた陽鞠が、小さく息を吸った。
「凜のことが好き」
凜は俯いていた顔を上げた。
陽鞠は目を逸らさずに、真っすぐに凜を見ていた。その目には、凜の知らない感情の熱がこもっていた。
その熱の奥で不安が揺れていることに、凜は気が付いた。
「…陽鞠は、私のことが好きなのですか」
「大好き」
呆然とした凜の問いかけに、陽鞠は躊躇いなく答える。
陽鞠に好意を持たれていることは、凜にも分かっていた。いや、分かっているつもりだった。
しかし、陽鞠の口から聞かされるその言葉はまったく違った。
その言葉だけで、凜の中で蟠るものが全て洗い流されるようだった。
「他の誰かのものになったりしませんか」
その言葉が自然と凜の口をついていた。
言葉にして、自分が本当に恐れていたものが何か凜は理解した。陽鞠を傷つけたくなかったことも嘘ではない。しかし、それ以上にいつか陽鞠が自分から離れることに傷つくことが怖かった。
だから、そうなるよりも先に逃げ出したのだ。
「凜は特別。特別な好き。私の好きは全部、凜のものだから」
「…そうですか」
陽鞠が求めるのが守り手なのではなく、寂しさを埋めてくれるなら誰でもいいのではなく、ただ凜という人間なのだとしたら、もう凜に言えることはなかった。
敗北を認める苦笑いを凜は浮かべた。
「それなら、仕方ないですね」
凜がゆっくりと差し出した手に、陽鞠が手を重ねる。
陽鞠の琥珀の瞳が、浮かんだ涙で揺らめき、陽の光を反射して煌めいていた。
美しいな、と凜は思う。
「行きましょうか」
陽鞠の手を引いて、凜は橋の方に歩き始める。
その手がぐいと引かれて、足を止めた凜は振り向いた。
目の前に陽鞠の顔が迫る。
凜はそれを避けることも、止めることも出来たはずなのに、実際には体は何一つ動かなかった。
唇に柔らかなものが触れる。
呆然とする凜に悪戯な笑みを見せて、陽鞠は凜よりも前に出て歩き始めた。
陽鞠に手を引かれて数歩進んでから、凜は我に返った。
「陽鞠っ」
凜の叫びは、秋の高い空に吸い込まれるように消えた。




