六十六
夜明け前に目を覚ました凜は、ゆっくりと支度を整えていた。
宿に預けていた行李の中を全て広げて、不要なものを仕分けていく。
とはいっても、もともと身軽な身の上だ。嵩張るものといったら、玉美屋の女将から譲られた陽鞠の着物くらいしかない。
残していけば、宿のものが片付けるか、蘇芳の手ものが引き取りに来るだろう。
一枚ずつ丁寧に着物をたたみながら、行李に戻していく。
最後の一枚を手にした時、微かに甘い匂いが凜の鼻をくすぐった。
薄い桜色の着物は、陽鞠が一番気に入って、よく着ていたものだった。
唐突に溢れそうになった涙を、凜は上を向いて堪えた。
こんな時には泣けるのかと、乾いた笑いが込み上げてくる。
ひとしきり笑い終えた時には、涙も止まっていた。
着物を行李に納めて、凜は最後に指先で軽く撫でる。
他に置いていくものはないかと広げた荷物に目を向けると、丁寧に折りたたまれた紙が目についた。
少しだけ逡巡してから、凜はその紙を手に取る。
折りたたまれた紙を開くと、白詰草が一輪、押し花となって挟まれていた。
花かんむりのままでは、また崩れてしまうと二つめの花かんむりから一輪だけ抜いたものだった。
しばらく押し花にじっと目を落としてから、凜は紙をたたみ直した。
そのまま、行李に入れようとした手が、直前で止まる。
「未練だな」
ぽつりと呟いて、凜は苦笑いを浮かべる。
それもいいだろう、と凜は紙を懐に入れた。
さして多くもない荷物を仕分けると、凜の物は打飼袋に収まる程度しか残らなかった。
荷物を片付け終えると、自身の身支度を整える。
着物は宿に戻る途中で購った裁着袴に変え、手甲と脚絆を巻いて、羽織に袖を通す。
華陽の刀は拵袋に入れ、打飼袋に括って背負う。
下ろしていた髪を後頭部で紐でまとめれば、それで終わりだ。
自分の刀を腰に差して、凜は静かに廊下に出た。
まだ寝静まった宿の廊下と階段を音もなく通り抜け、土間で草履を履く。
玄関を出ると、まだ陽も上り切らない薄暗い通りには人通りはほとんどない。
そこに、ぽつりと一人で蘇芳が立っていた。
通りの裏には護衛が潜んでいたが、凜の見える場所には蘇芳だけであった。
「何故いる」
「昨日、あんなことを言われたのではな」
煩わしげな凜の言葉に、蘇芳は肩をすくめてみせた。
「一人でこんな所にいていいのか」
ため息をつきながら、凜は問いかける。
「其方と二人だけで話したかった」
「私には話などない。大公がうろうろするな。周りが迷惑するだろう」
辛辣な凜の言葉に、蘇芳は唇を歪めて不満を表した。
それを凜は少し意外に感じた。再会してからの蘇芳は、負い目からか、凜に対して一歩引いた態度で接していた。
しかし、今の蘇芳はどこか出会ったばかりの頃の、陽鞠がべったりの凜に拗ねていた少年のようであった。
「陽鞠様のいる屋敷に行くなら案内するぞ」
「…行かぬ」
「では、どこへ行くつもりだ」
煩わし気に、凜は小さく舌打ちを漏らして、視線を地面に落とす。
「お前、調子に乗るなよ」
顔を伏せたままの凜から、冷たい声が零れた。
上目遣いに蘇芳を見る、その昏い目。この太平の時代に、数十人からを切り殺した本物の人斬りの目に、蘇芳はたじろぎそうになる。
しかし、蘇芳は半歩後退っただけで堪えた。
「お前が陽鞠様の益になると思ったから、生かしてやっているだけなのを忘れるな。私自身はお前など殺してやりたい。私に近づくな、話しかけるな、視界に入るな」
吐き捨てるように言った凜にも、もう分からなくなっていた。
かつて裏切られたことが許せないのか、自分が望むことの出来ない陽鞠との未来を望めることが憎いのか。
「そうだ。其方は私を憎むのが正しい。私を信じるな、疑え、見届けろ」
蘇芳には分かっていた。
ここで凜に去られたら、自分から機会は永遠に失われると。どんなに勝ち目が薄くとも、ここで凜を引き留めるしかないと。
しかし、そんな蘇芳の言葉すらも凜の憎悪を掻き立てるものでしかなかった。
「お前、私が本当に殺さないとでも思っているのか」
「思っているに決まっている。其方が今、陽鞠様の益になるなら殺さないと言ったばかりではないか」
「殺さずとも、勢いで腕の一本も切り飛ばすかもしれんぞ」
「それは困るな。陽鞠様を抱き締められなくなる」
一瞬、刀を抜きかけた凜は、しかし投げ遣りな気分になって、柄に添えた手を下ろした。
「私に構うな。陽鞠様のことだけを考えていろ」
「…何故だ。何故、ここで去ろうとするのだ」
縋りつくような蘇芳の声に絆されたわけでもないが、凜はもうさっさと話を打ち切りたくなっていた。
「私は人を斬りすぎた」
「それは、陽鞠様のためであろう」
「陽鞠様のためなどと思ったことはない。私が陽鞠様を守りたくてやったことだ」
「だとしても、其方は確かに陽鞠様を守ったではないか。それが出来なかった私よりも罪深いことはなかろう」
「何を言っている。私は罪を悔いて去るわけではない」
呆れたような顔を凜は浮かべる。
凜は人を斬ったことを後悔などしたことはない。いつだってそれ以外に道はないと思って刀を抜いてきた。
罪は罪として認めるが、悔いたりはしたことはなかった。
凜の後悔は陽鞠を守りきれなかったことだけだ。
「では、何だというのだ」
「血は血を呼ぶ。私とともにいれば、私が流した血の因果に必ず巻き込んでしまう」
それを否定することは、蘇芳には出来なかった。
拝殿の境内で、華陽や由羅の骸も見ている。師や同輩まで手にかけなければならなかった凜に、この先どんな修羅の道が待っているかなど蘇芳には想像も出来ない。
神祇府の尋常ではない凜に対する恐れを、蘇芳には笑うことは出来ない。
あの日、陽鞠が囚われた時の凜を見ているものなら誰しもそうだろう。
太平の時代が続き、守り手の伝説も過大に取られていた。それを全て覆して、伝説を現代に甦らせたのが目の前の少女だ。
「悔しくはないのか。守るためにその因果を背負って、其方だけが去らねばならぬことが」
「悔しくないと言えば嘘になる。この命が尽きるまではおそばにいたかった」
蘇芳は見返りがないことが悔しくないのかと問うた。しかし、凜から返ってきたのは献身が続けられないことへの悔しさだった。
その時、凜が浮かべた笑みがあまりにも優しいもので、蘇芳は何も言えなくなった。
「だが、いい。陽鞠が幸せならそれでいい」
蘇芳は敗北感に打ちのめされていた。
人はここまで、誰かに想いを捧げることが出来るものだろうか。
歩みはじめた凜が横を通り過ぎることを、蘇芳はもはや引き留めることは出来なかった。
去っていく凜の、その背中に手を伸ばす。
女の、細く小さな背中だった。
しかし、山祇のどんな男でも出来ないことを成し遂げた、大きな背中だった。
その背を、蘇芳はずっと追いかけてきた気がする。
追いつかなければ、陽鞠が振り向かないことは分かっていた。
大公という力を手に入れ、少しは追いついた気がしていた。
しかし、立場には責任が伴う。
その身一つだからこそ、凜は陽鞠に全てを擲つことができた。
蘇芳にそれは出来なかった。
親王、そして大公という立場を蘇芳は自分から切り離せない。国や民や配下に対する責任は捨てられず、陽鞠を常に秤に乗せ続ける。
そして、社会から常に疎外され、裏切られてきた陽鞠が、そういう人間には惹かれないことを今更のように蘇芳は理解した。
「陽鞠様。賭けは貴女の勝ちです。いや、貴女にとっては賭けですらなかったのでしょうね」
蘇芳は伸ばした手を力なく下ろした。
すでに凜の背は遠ざかり、手は届かない。
蘇芳は悄然として踵を返し、凜とは違う方向へ歩み始めた。




