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六十五

 陽鞠と凜が手を繋いだまま石段を下ると、床几から腰を上げた蘇芳が出迎えた。

 二人に配慮したのか、護衛の衛士たちは少し離れた場所で待機している。

 二人の無事な姿に蘇芳は安堵した顔を浮かべかけるが、血に汚れた様子に眉を顰める。

 咄嗟に安否の声を掛けようとした蘇芳は、寄り添うように歩く二人が纏う余人を踏み込ませない雰囲気に喉を詰まらせた。


 蘇芳の前に立った陽鞠が、しっとりとした微笑みを浮かべる。

 その微笑みに、もはや少女の面影は感じられなかった。

 何事があったのかと蘇芳は凜の方に視線を向ける。少し憔悴している様子の凜を視界に入れた瞬間、蘇芳は血なまぐさい剣呑な気配に一歩たじろいた。


「蘇芳様。穢れの祓いは終わりました」


 陽鞠の穏やかな声が、その場の張り詰めた空気を和らげる。

 ようやく息をついた蘇芳は、自分がじっとりと汗をかいていることに気が付いた。


「ありがとうございます。何か問題がありましたか」

「穢れの方はとくに…」


 言葉を濁した陽鞠は隣の凜に目を向けるが、どこか心ここにあらずといった様子で立っている。


「境内に穢れとなった方の他に、二人の女人のご遺体があります。丁重に弔って頂けないでしょうか」

「それはかまいません。無縁墓になってしまいますが…」


 縁故のないものは霊園の片隅に、墓碑銘も刻まれず、ひっそりと葬られる。


「凜様。それでかまいませんか」

「ええ。お気遣いありがとうございます」


 陽鞠が尋ねると、凜は懐に手を当てて儚げに微笑んだ。

 そこには由羅と華陽の遺髪があることを、陽鞠だけが知っている。


「其方の縁故者であれば、墓碑銘を刻み当家で管理しても良いが」

「必要ない。剣に生き、剣に斃れた者の墓などあるだけましだ」


 蘇芳の申し出を、凜はすげなく断る。

 剣の里の者に縁故者などいない。野に打ち捨てられないだけましというものだろう。


「左様か」


 短く答えた蘇芳も、それ以上は何も聞きはしなかった。

 剣に斃れたというなら、斬り合いがあったということだ。

 血に塗れた二人の姿にも納得がいく。

 それは衛士の包囲を抜けたということを意味する。女の身でそんなことが出来て、しかも剣を取るものは限られていた。


「警備の不手際があったようだな。済まない」

「いや。むしろこれ以上、警備が厚ければ衛士に人死が出ていた。これでいい」


 陽鞠を危険に晒したことを責められるかと思った蘇芳は意外に感じた。

 先ほど感じた剣呑な雰囲気が嘘であったかのように、凜から張り詰めた空気が失われていた。


「何にせよ、後の始末は我らで行います。陽鞠様はお休みください」

「そうさせていただきます」

「空き屋敷を支度させました。本日はそちらにご逗留ください。後ほど私も伺わせていただきます」

「かしこまりました」


 陽鞠の承諾を得ると、蘇芳は衛士を近くに呼び寄せた。


「この者たちが屋敷まで案内いたします。お目障りかもしれませんが、そのまま屋敷の警護につかせることをお許しください」


 蘇芳は陽鞠に向かって言ったが、その言葉の半分は凜に向けられていた。

 無断で警護などつけようものなら、翌朝には悉く衛士が斬られていてもおかしくないと蘇芳は思っていた。

 それくらいに凜の信用があるとは思っていないし、それが当然だと納得していた。

 しかし、凜は蘇芳の言葉に何の反応も示さず、するりと繋いでいた陽鞠の手を離す。

 追いかけた陽鞠の指と指先が絡んで、離れた。


「凜様?」


 陽鞠は凜の顔を見上げる。

 見上げて、目が合った凜の憑き物が落ちたようなすっきりとした顔に、言い様のない不安を覚えた。


「陽鞠様はその屋敷でお休みください。私は宿に戻ります」


 その言葉に、傍で聞いていた蘇芳の方がぎょっとした。

 凜が陽鞠のそばを離れるなど、信じがたいことだった。


「どうして、ですか」

「荷物を置いたままですし、それに…」


 凜は少し寂し気な微笑みを浮かべた。


「今日は私も一人で休ませて頂いてもよろしいでしょうか」


 それを言われてしまうと、陽鞠には引き留める言葉はなかった。

 師と友を斬った人に、一人になる時間が必要と言われてしまっては。


「…分かりました。明日の朝にはお迎えに行きます」

「いえ。私が伺います。衛士を引き連れて町を歩くのは目立つでしょう」

「一人で行けるから平気です」

「それは駄目です。何かあったらどうするのですか」


 陽鞠は唇を噛む。

 凜の言うことは筋こそ通ってはいるが、従い難いものがあった。


「…凜様がそう言うなら従います。約束を忘れないでくださいね」

「はい。明日、話をするのですよね」

「本当ですよ。約束を破ったら嫌ですからね」

「陽鞠様は私を疑うのですか」


 思わず、喉まで出かかった言葉を陽鞠は飲み込んだ。

 あまりにも卑怯な言葉だと陽鞠は思った。

 凜は今まで陽鞠に嘘を言ったことはないし、大切に想ってくれていることを疑ったことはない。

 だからといって、凜の言うことを盲目的に信じているわけではない。それでは、信じているのではなく、考えるのをやめているだけだ。

 凜が何を考えているのか、本当のところは陽鞠にだって分からない。他人の考えが全て分かるなんてことはあり得ない。

 それでも、凜が何をしようとしているのかくらいは、陽鞠にだって分かるのだ。


 言葉に出来ない想いで凜の袖を掴もうと陽鞠が手を伸ばすのと同時に、凜は一歩前に出た。

 陽鞠の手が空を切る。

 それが意図的であったかどうかも、陽鞠には分からない。

 心がひび割れそうなほどに傷つくが、同時にそれは陽鞠の決意を固めさせた。


「私は待っていますから」

「ええ。お体を労わってください。では、私はこれで」


 陽鞠の言葉に、凜は振り向かなかった。

 凜はそのまま前に出て、蘇芳の横をすれ違って行く。


「蘇芳。陽鞠様を頼んだぞ」


 その小さな声は、おそらく蘇芳にだけ届いた。

 はっとした蘇芳が振り向いた時には、すでに凜は蘇芳から離れていた。


 声を掛ける暇もなかった蘇芳は、その背を見送ることしかできなかった。腑に落ちぬ気持ちを抱えたまま、陽鞠に向き直った蘇芳は胆が冷えた。

 蘇芳など欠片も見ていない、その目。

 遠ざかる背を瞬きもせずに見つめる琥珀の瞳が、黄金の炎のように揺らめいていた。

 それは情念の溢れた、女の目だった。


 蘇芳は己の初恋が破れる、たしかな予感を覚えていた。

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