六十四
陽鞠が穢れを祓い終えるのにかかった時間は、一刻程度のものだった。
鴇羽たちの怨みは強いものだったが、同時に浅いものでしかなかった。
自分勝手な欲望が叶わないことに対する、稚気のような怨みは、陽鞠の心に何も響かなかった。
穢れを祓い終えた陽鞠が拝殿の扉に近づくと、外から話し声が聞こえてきた。
声で凜と華陽だと分かった。
半開きとなった扉を開けようとすると、足元の亡骸に気が付き、ぎょっとして手を止める。
亡骸が由羅のものであることはすぐに分かった。
その穏やかだが悲しげな顔で、手にかけたのが凜であることも想像できた。
凜の手にかかって死ねたことを幸せに感じただろうと共感する気持ちと、これで由羅が凜の心に傷となって永遠に残るだろうと憎らしく思う気持ちが同時に湧き上がる。
陽鞠は由羅のことが嫌いだが、憎んでいたわけではない。
ただ、同じ人に同じ想いを抱いた時点で、分かり合えることは決してなかった。いや、あるいは由羅だけが、本当の意味で陽鞠と分かり合えたのかもしれない。
だからこそ、決して相入れることはなかった。
「答えを聞くのではなかったのですか」
小さく呟いた陽鞠の胸には寂寥があった。
凜をめぐって由羅と鞘当てをすることを、自分が意外と楽しんでいたことに、陽鞠は今更のように気付いた。
あの日、言い負けたようになった反論を、今度こそしようと思っていたのに。
由羅に気を取られまま、漏れ聞こえる話を聞くうちに、陽鞠は外に出られなくなった。
二人がまさに自分のことに言及していたからだ。
凜が自分の元を去るつもりなのは、何となく分かっていた。
だから今、陽鞠は必死なのだ。
華陽と母の関係性は、陽鞠にとって少し意外だった。
もっと一方的に母が華陽に執着しているのだと思っていた。
しかし、凜の名前を付けたのが華陽だとしたら、意外でもないのかもしれない。
別れた二人がお互いに執着を残して、同じことをしているのが、陽鞠には滑稽に思えた。
そんなに想いがあるのなら、別れるべきではなかったのだ。
華陽は母を無理矢理にでも拐えば良かったし、母は華陽について行くべきだった。
自分はそうはなるまいと陽鞠は思う。
例え華陽と同じ決断を凜がしたのだとしても、そんなことは陽鞠には関係なかった。
陽鞠は自分の想いの裏にある欲を凜に知られたくないと思っているが、それと一緒にいたいという想いは切り離している。
知られたら嫌われるかもしれないから知られたくないだけで、嫌われたら一緒にいるのをやめようなどとは欠片も考えていなかった。
やがて二人の話は遺言を残すかのような言葉となって途絶えた。
不審に思った陽鞠は、扉の隙間から外を覗き込む。
陽鞠が見たのは、二人の抜き打ちが交錯する、まさにその瞬間だった。
甲高い音を立てて、華陽の刀が折れ飛ぶ。
剣を嗜まない陽鞠の目ではどうなったのか分からず、全身の血の気が引いた。
もし凛が死んだら、などと陽鞠が考えるよりも早く華陽が斃れた。
不穏な会話をしているとは思ったが、まさか二人が斬り合いになるとは思っていなかった。
そんなことはあり得ないと思っていた。
凜が生きていることに安堵すると同時に、おこりのように震える体を抱きしめた。凜は気付かなかったのだろうか、と陽鞠は考える。
きっと、そうなのだろう。
陽鞠は息を深く吸って、それを自分の胸の奥深くに沈めることを静かに決意した。
拝殿の扉を開けて、陽鞠は外に出る。
凜は華陽の亡骸の前に立ち尽くしていた。
ぽつりと凜が漏らした、彼女にしては乱暴な言葉が、微かに陽鞠の耳に届いた。
それは決して陽鞠に向けた言葉ではなかっただろう。
しかし、それは陽鞠の足を止めさせた。
たしかに凜にはそういうところがあった。本人の意思とは関係なく、人から何かを託される引力のようなものが。
陽鞠こそ、誰よりも凜に寄りかかる一人だった。
それでも、陽鞠は唇を噛み、小さな拳を握りしめ凜に踏み出す。
じっと俯く凜の刀を提げた手に触れ、固く握りしめた拳をほぐすように両手で包み込んだ。
その手の驚くほどの冷たさに、陽鞠はぞっとする。
「凜様、剣を離してください」
凜の目が動いて、陽鞠の姿を捉えた。
握った手よりも冷たい目に、陽鞠は怯みそうになる心をぐっと堪える。
しかし、陽鞠を認識した凜の目はすぐに穏やかなものに変わった。
「陽鞠様。早かったですね。お体に障りはありませんか」
まるで何もなかったかのような口ぶりを装う凜の様子に、陽鞠の心が軋む。
「私のことより、ご自分の心配をしてください」
「私の? ああ、大した傷ではありません」
凜は首筋の傷に手を当てて言う。
言う通りに傷は浅いのだろう。出血はさほどでもなく、すでに止まりかけていた。
「そうではありません」
「…お手が血で汚れますから離してください」
陽鞠が握る手に目を落として、凜がぽつりと漏らす。
「そんなことはどうでもいいです。ひどい顔ですよ」
片手を離した陽鞠は、その手で凜の頬をそっと撫でる。
「そう、ですか。済みません。お見苦しかったでしょうか」
「そんなこと、言わないでください」
もう片方の手も離して、陽鞠はゆっくりと両腕を凜の頭の後ろに回す。
そのまま頭を掻き抱いて、自分の方に引き寄せると、凜の顔が首筋に沈む。本当は胸元に抱き締めたかったが、背丈の違いがもどかしかった。
「辛かったら、私には隠さないでください」
首筋に触れる凜の唇の感触に逸る鼓動を抑えながら、陽鞠は頭の後ろを撫でる。
「私は辛いのでしょうか」
困惑したような言葉が、凜の口から漏れる。
その手から滑り落ちた刀が石畳に転がり、がしゃんと音を立てた。
「辛くないはずがないしょう」
「…由羅と長を斬ってしまいました。この手で」
「そう。悲しいですね」
「わたしは悲しいのでしょうか」
「悲しいときは泣いていいのですよ」
凜の体から力が抜けていき、膝から崩れ落ちる。
腹の上に顔を埋めて隠す凜の頭を、陽鞠はもう一度、抱きしめ直した。
凜は声を上げて泣いたりはしなかった。
ただ、陽鞠の腹に顔を埋めたまま、腰をきつく抱きしめて、嗚咽を堪えていた。
「…悲しい、ね」
陽鞠は凜の艶やかな黒髪を、指で梳る。
腹にこもる熱が、凜の嗚咽によるものか、自分の内から湧き出すものか区別はつかなかった。
少しの悲しさを、凜への愛しさが全て覆い隠していた。
凜は強い。剣の腕だけではなく、何かを成し遂げる意志が誰よりも強い。だけど本当は誰よりも弱い人だと陽鞠は思った。
剣など持つような人ではない。
しかし、その弱さこそが陽鞠は愛しかった。
陽鞠は最初から、凜の葛藤と自己矛盾をこそ愛したのだ。
陽鞠はようやく理解した。
凜があまりにも陽鞠を守ってくれて、寄りかかれるから勘違いしていた。
陽鞠は凜に守られたかったわけではない。
守られてばかりが嫌だから、対等になりたいわけではない。
守ってくれて、そばにいてくれるから愛したわけでもない。
この弱く、脆く、強がりばかりの女の子を守ってあげたかった。
凜の生涯に寄り添って、あらゆる悲しみから守り、慰めになりたかった。
凜が陽鞠にそうしてくれたように。
例え、その悲しみの遠因が自分なのだとしても。
人はそれを母性と呼んで、恋とは呼ばないかもしれない。
しかし陽鞠には、凜に対して確かな体の欲求があった。ただの母性なら、そんな欲求は持たないだろう。
それなら、凜に対する想いは、男の代わりなどではなく、凜という一人の女の子に対する恋心と言えると思った。
少なくとも、陽鞠の心にはすとんと落ちた。
それを受け入れた瞬間に、夕月家に生まれ、巫女として生きてきた夕月陽鞠という少女は、その価値観とともに死んだ。
空を見上げた娘の頬を、一筋の涙が伝った。




