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六十三

 声もなく、振り返ることもなく、由羅はうつ伏せに倒れた。

 溢れ出した血だまりに沈んでいく由羅の亡骸を、片手に抜き身の刀を提げたまま、呆然と凜は見ていた。


 ただ、何故、という言葉だけが頭の中にあった。


 何故、殺したのか。

 何故、避けなかったのか。

 何故、一緒に来てくれなかったのか。

 何故、もっと話さなかったのか。

 何故、友人になってしまったのか。

 何故、出会ってしまったのか。

 何故、何故、何故…


 答えのない問いが頭の中で繰り返される。

 どれだけの間、そうしていたのか。由羅の亡骸に歩み寄り、その傍らに屈みこむ人がいた。


「長…」


 華陽は由羅の傷口を検めた後、血に汚れることも厭わず、その亡骸を抱きかかえて拝殿の濡れ縁に横たえる。

 凜はただ、それを見ていた。

 血に塗れた手を拭いながら、華陽は凜の前に立った。


「穏やかな死に顔であったよ」


 華陽の言葉に、凜は目を背けた。

 穏やかだから、何だと言うのか。それが何の救いになるのか、凜には分からなかった。


「…よく、ここが分かりましたね」

「由羅からの情報だ。王国では鳩で手紙を運ばせるのだな。便利なものだ」

「そうですか…」


 由羅が何故、華陽に情報を流したのか、凜には想像もつかなかった。

 華陽は理由など問いもしないだろう。

 あるいは、亡骸か形見を華陽に引き取って欲しかったのかもしれない。

 由羅にとって帰るところは、剣の里だったのだろうか。


「それでは、始めるか」


 華陽の左手が腰の刀の鯉口を切る。


「は?」


 凜はただ呆然とそれを見ていた。

 もし今、華陽が抜き打っていれば、凜はなす術もなく切り倒されていただろう。


「私には長と剣を交える理由がありません」

「理由? 剣を持つものが二人いて、剣を交えるのに理由がいるのか」


 華陽が呆れたような顔をする。


「目が合った。強そうだ。気に入らない。気に入った。憎しみ。愛しさ。理由など何でもいい。剣を持つものが出会えば、いつ立ち合いになっても何もおかしなことなどない」

「私は剣士ではありません。そんな理屈は知りません」

「それほど極まっていて、心得だけは半端とはおかしな奴め」

「私が? もはや稽古もろくにしていませんよ」


 凜の言葉を、華陽は一笑にふした。


「稽古とは何だ。型でもさらうことか」

「そう教えたのは長でしょう」

「何千、何万型をさらおうと、人を一人斬る事には及ばぬ。其方、何人斬った」

「…」

「三十、いや、四十は斬ったか? それも、そのほとんどは武人であったろう」

「それが、何だと言うのですか」

「私が立ち合いで人を斬った数は僅か七人だ」


 それは何もおかしなことではなかった。この太平の世で守り手が人を斬る機会など、そうあるものではない。

 凜とて、人斬りの大半は陽鞠が囚われた後のことだ。


「ここ百年で、其方ほど人を斬った剣士は十人もおらぬだろう」


 だからといって、凜は自分の剣の腕が大したものとは思えなかった。

 いつだって、辛うじて勝ちを拾えていただけに過ぎない。


「仕方のない奴だ。理由をくれてやるか」


 煮え切らない凜に、華陽はため息をついた。


「私がここに来た表向きの理由は、神祇府の刺客としてだ」

「神祇府はまだ陽鞠様を…」

「違う。神祇府が恐れているのは其方だ」

「私を?」

「当然であろう。神祇府は巫女の消息までは掴めていない。其方が監視や刺客を悉く殺したからな」

「それが、何だと言うのです」

「もし、巫女が亡くなっていたら、其方が復讐に来るのではないかと恐れているのだ」


 馬鹿馬鹿しい、とは凜は言えなかった。

 陽鞠を助け出すことしか考えていなかった凜は、陽鞠が死んだ後のことなど、まるで想定していなかった。

 もし、あの牢で陽鞠が死んでいたら、復讐をしなかったとは言えない。


「神祇府は剣の里の存続を盾に、私に其方の始末を依頼してきた」

「それを受けたのですか」

「ああ。里などどうでもいいが、其方と立ち合う良い理由づけになると思ってな」

「理由になっていないではありませんか…」


 理由に価値はなく、目的に理由をつけるのでは、本末転倒だと凜は呆れる。


「そうだな。まあ、きっかけがあれば、と言うことよ」

「貴女は一体、何がしたかったのですか。私のような出来損ないの守り手を作って」

「出来損ない?」

「そうでしょう。巫女と守り手のこともろくに知らない、剣も大したことない。こんなものを守り手にしたのは、貴女が見限った巫女への復讐ですか」

「そういう意図はないな。私はただ見たかっただけだ」

「何をですか」

「私とは違う結末を」


 華陽の顔にあるのは虚無だった。

 生きることに倦んだものが浮かべる、厭世があった。


「剣の里の教えに染まった守り手とは違う、余計なものを持たない純粋な守り手が、果たして私とは違う結末に辿り着くのか」


 熱のない、自身の言っていることに何の関心もない口ぶりだった。


「ただの余興よ。つまらぬ余生の」


 本当の華陽の言葉を、凜は初めて聞いた気がした。

 目の前の人がもう、半分生きてなどいないのだということに、凜はようやく気が付いた。


「そして、つまらぬ結末だったな。やはり、其方も巫女のもとを去るか」

「由羅に言ったことは…」

「その顔だ。私と同じ顔をしている」


 華陽の言葉を、凜は受け入れ難かった。

 自分がこんな死人と変わらない顔をしているなど、信じたくなかった。


「貴女と一緒にしないでください」

「ならば、なぜ去ろうとする。けして傍を離れぬと言ったのは其方ではないか」

「私は…もう、あの人に必要ない…私の血塗られた道は、あの人に相応しくない」

「ふん。笑わせるな。他人のものになるのを見たくないだけであろう」

「お前に、何が…」


 次第に凜は、何と向かい合っているのか分からなくなってきていた。

 まるで自身の影だった。もう一人の自分、あるいはいつか至る自分と話しているように錯覚してしまう。


「分かるさ」


 昏い華陽の目に、一瞬だけ過ったのは痛みだっただろうか。


「凜音と私は想い合っていた。言葉にせずとも通じていた。しかし、あれは弱い女だった。権力の庇護がなければ生きていけないほどにな」


 凜と華陽は重なるところが多い。それは凜も認めざるを得ない。しかし、陽鞠とその母親は、凜にはまるで違うように思えた。

 陽鞠はその小さく嫋やかな見た目に反して、その心は誰よりも強い。


「形だけ結婚するのはかまわない。しかし、大公家には行くなという私の言葉に、凜音は従わなかった」


 まるで鏡合わせだ。凜は陽鞠に権力の庇護を勧めて、陽鞠は従わなかった。


「私は初夜の時に隣の部屋にいたのだよ。その一度でもう無理だった。翌日には守り手を辞すことを告げた。凜音は…泣き喚いて私に行くなと縋りついていた。それでも、私とともに来てはくれなかった」


 凜は初めて想像してしまった。

 陽鞠が、蘇芳か他の誰かの閨に侍るところを。

 あの肌に自分以外の誰かが触れて、体を重ねるところを。

 結婚することと、その行為が等しいものであることを凜は理解していたのに、陽鞠がその行為に及ぶ場面を想像したことが一度としてなかった。


 ただの言葉としてしか捉えていなかった。

 全身から冷や汗が吹き出す。その感覚を、凜はすでに知っていた。

 領主の妾に陽鞠がなるかもしれないと気が付いた時と同じだった。


 凜の目が昏く、沈んでいく。

 陽鞠に抱く庇護欲の正体を、凜は悟った気がした。

 陽鞠に頼られ、寄りかかられ、独占することで、何もない自分に価値があると思いたかっただけではないか。

 だからこんなにも、陽鞠が誰かに身を委ねることに忌避感を抱くのだと思った。

 独占欲ですらない、ただの自己満足だとしか凜には思えなかった。


「まこと守り手とは哀れなものよな。斬り果てるのが相応しかろう」


 その言葉に抗することすら、もはや凜は億劫だった。

 凜は提げ持ったままであった刀の血を袖で拭うと、鞘に納めた。

 そして、そのまま抜き打ちの構えをとる。

 それに応じて、華陽もまったく同じ構えをとった。


「一つ頼みがあります」


 抜き打ち同士の戦いに寸止めはない。

 刹那の間に、どちらの刃が先に相手の命に届くかの勝負に寸止めなどあり得ない。


「私の骸は陽鞠様の目に触れないようにして下さい。そして、凜は去ったと伝えて下さい」

「よかろう。…ふむ。では、私の方からも頼む」

「何なりと」

「北玄州の望内(もない)という町に雪宗せっしゅうという鍛治師がいる。その男に私の刀を届けてくれ。何、機会があったらで構わん」

「承りました」


 そして、言葉は途絶えた。


 二間の距離で華陽と向かい合う、凜の心は空虚だった。

 華陽に勝てるなどとは欠片も思わない。

 どれほど凜が実戦を積もうと、持って生まれた才能が違う。

 由羅が剣の天才なら、華陽は剣術の天才だ。

 剣そのものを扱うことに天稟を持つ由羅に対して、剣を人斬りの技として使うことに天与の才を持つのが華陽だった。


 虚脱に近い気負いのなさで、剣の柄に手を添えた凜は気付いていなかった。

 向かい合う二人をもし第三者が見ていれば、どちらがどちらか見分けがつかないほどに完全な相似を成していることに。


 凜はもはや小細工を弄する気はなかった。

 由羅や重里に使ったような小手先の技は通用しないだろうし、小細工を考えるのも億劫だった。

 陽鞠を背負っての戦いでもない。

 お互いの自死を押し付ける、奇怪な立ち合いだった。

 明鏡止水などほど遠い、澄み渡っているどころか曇り切った故の虚心。

 お互いに勝ち気のない二人が、それ故に一切の邪念のない一太刀を放とうとしていた。


 間合いの取り合いもない。

 お互いに無造作なすり足で、二間の間合いを詰めていく。


 そして一足一刀の間合いに入った途端、刹那の差もなく同時に抜き打った。

 踏み込みながら全く同じ軌道、速度で放たれた刃が、互いの首を切り裂く寸前で噛み合う。


 甲高い金属音が境内に響いた。


 何が違ったのか。

 明確な答えは凜にもなかった。

 少なくとも、技の冴えなどでは決してないと言えた。


 同じ刀匠が打った刀にどれほどの違いがあったというのか。

 敢えていうなら、一度も研ぎに出していない凜の刀は、まったく痩せていなかったということだろうか。


 凜の一刀は、華陽の刀ごとその首を半ば両断してしまっていた。

 断たれた華陽の刀の切っ先が、うっすらと凜の首に傷を残していた。


 華陽の体が崩れ落ち、倒れた衝撃で千切れかけた首から大量の血が石畳に広がる。

 末期の言葉すらも許さぬ絶死の一太刀。里の剣は女人の剣。非力であるが故に、命を断つまで止まることはない。


 物言わぬ骸を前に、凜は立ち尽くす。

 死に際に言葉を残すなど、物語にしか許されない。

 由羅も華陽も、凜に何も残してはくれなかった。呪いの言葉すらも。

 友を斬り、師を斬って得られるものなどありはしなかった。剣の境地が開けるわけでもなく、ただ虚しさが残るだけだった。


「勝手なことばかり言いやがって…」


 二人とも言いたいことだけを言って、好きなようにして凜の手でこの世から去ってしまった。

 涙は出なかった。

 凜が泣いたのは、陽鞠と村に落ち着いた時と、陽鞠が目覚めた白詰草の花畑でだけ。

 あの涙も結局のところ、自分を哀れんでいただけのように凜には思えた。

 誰かのために涙を流すことも出来ない自分が、欠落した人間だと凜は思い知らされる。


 人を斬りすぎた報いとして、剣に斃れる日が来たのだと凜は覚悟していた。

 しかし、剣に生きるものが剣に死ぬのは当然の帰結にすぎず、報いにはなりえないのだと気付いた。

 誰かの大切な人の命を奪った報いは、自身の手で大切な人の命を奪うことこそ相応しい。

 師を斬り、友を斬り。


 そして最後に斬ることになるのは、最も大切な人なのではないだろうか。

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