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六十二

 楼門までの五間の距離を、凜は半分詰める。

 由羅は楼門の陰に立ったまま動かない。


「何をしに来たのですか」

「ご挨拶だなぁ。せっかく会いに来たのに」

「衛士たちの包囲を抜けて、です」

「あんな笊。目をつむっていても抜けられるよ」


 たしかに凜でも、一人なら抜けることは可能だろう。由羅ほど容易ではないだろうが。

 身のこなしで由羅にかなうものを凜は知らない。


「あの女は、まだ中にいるみたいだね」


 由羅の目が凜の後ろの拝殿に向かう。


「陽鞠様をあの女などと呼ばないでください」

「ふぅん。まだ様付けしているんだ」


 どこか揶揄するように由羅は笑った。

 まるで一度、様付けをやめたことを知っているかのような言葉に、凜は眉を顰める。


「どういう意味ですか」

「別に。そのままの意味だよ」


 一歩、由羅は陰から踏み出した。

 凜の目が、由羅が腰帯に差した小太刀を確かめる。


「由羅、もう一度問います。何をしに来たのですか」

「うーん。あの女の拉致、かな」

「…誰の指図ですか。貴女は紫星に雇われていたのではないのですか」

「違うよ。わたしはただの連絡役」


 はぐらかすばかりでまともには答えない由羅に、凜はため息をつく。


「答えないなら、それでもかまいませんが、私は貴女と戦いたくはありません」

「ふぅん。わたしだってそうだよ」

「それなら、私と一緒にここを去りましょう」

「…え」


 初めて、由羅の表情から笑みが消えた。


「何。どういう意味」

「先ほどの言葉を返しましょう。そのままの意味です」

「あの女のことはいいの」

「ええ。陽鞠様にはもう私は必要ありません。ここで貴女という脅威を遠ざけられるなら、私は守り手として最後に、最高の仕事を成し遂げたと言えるでしょう」


 由羅の顔から、笑みどころか、表情そのものが抜け落ちる。


「なに、それ」

「貴女が言ったことではないですか。陽鞠様を誰かに委ねろと。貴女は正しかった。剣の一振りで守れるものなど、何一つありませんでした」

「そういうことじゃ、ないでしょ」


 凜を見る由羅の目に、憎悪とすらいえるものが宿った。

 初めて由羅から向けられた目を、凜は静かに受け止める。


「なに。あの女を忘れられない凜を、わたしにくれるってこと」

「言い方に語弊がある気もしますが、大方その通りです」

「ふざけているの」

「何故です。もともと、貴女が望んでいたことでしょう」


 苛立った由羅の言葉にも、まったく動じずに凜は応じる。

 感情を逃がすように息を吐いた由羅の顔に、昏い笑みが浮かんだ。


「凜。誰の指示かって聞いたよね。わたしはね、王国の諜者なの」


 由羅の言葉があまりに唐突に感じられて、凜は眉を顰める。


「何を言っているのです。貴女にいつそんなものになる機会が」

「最初から、だよ」

「馬鹿馬鹿しい。私たちが最初に会ったのは八歳の時ですよ」

「そう。わたしはね、六歳の時まで王国で諜者として育てられたの」


 凜の中であり得ないという思いと、それなら様々なことに納得がいくという思いがせめぎ合い、言葉を失わせる。


「ねぇ、凜は気づいていないでしょ。加奈に襲撃の案内をするように伝えたのもわたしなんだよ」

「…」

「あの頃は、馬鹿をやってくれそうな鴇羽に、王国は裏で協力してたから。あの男は王国を手玉に取れると思っていたみたいだけど、麻薬の精製技術や王国との貿易の伝手を提供したのも目的があったから。本当に浅はかな男」


 つまりは、陽鞠が囚われる原因すらも、王国の自作自演だったということだ。

 せせら笑った由羅は、次の瞬間には落ち込んだようにため息をついた。


「でも、どうせわたしが勝つと思って凜の実力を報告したのは失敗だったなぁ。凜が死ななくて本当に良かった」


 たかが小娘の護衛一人に、五人もの精鋭と新式銃まで持ち出してきたことにも根拠があった。

 ただ、由羅が報告した時の凜と、あの時の凜では実力に乖離があった。


「…一体、何のために」

「あの女を拐うために決まっているじゃない」

「だから、貴女は守り手に」

「そう。守り手を倒すより、守り手になってしまった方が手っ取り早いでしょ。と言っても、そんなに成算があるとは思われていなかったけどね」


 それはそうだろう、と凜は思う。

 六歳の子供に全てを賭けることなどありえない。陽鞠を狙う、いくつもの策謀の一つということなのだろう。


「何故、王国は陽鞠様を狙うのですか。いま山祇との関係は良好なはず。平地に乱を起こす必要はないでしょう」

「王国はね、ずっと穢れの研究をしているの」

「穢れを?」

「だって、触れただけで人を殺せる毒だよ。どうすれば効率的に穢れを発生させられるか。穢れを兵器として利用できるか。調べるでしょ、普通」


 そんな発想は山祗にはない。穢れは忌避すべきものだが、同時に巫女と同じ神事だ。人が立ち入っていい領域だとは思われていない。


「でも、毒を作っても解毒薬がないんじゃ、危なくて使えないでしょ。王国にはもうSaint…巫女は生まれないから」

「だから、陽鞠様を拐って巫女を調べようと」

「正解。ね、あの女を王国に引き渡そう。大丈夫。一人しかいない巫女なんだから、大事にされるよ」

「それを信じろと? 例え一時は大事にされようと、巫女はいずれ力を失います。その後まで安全だと言えますか」

「凜も一緒に来ればいいよ。守ってあげればいいんじゃない?」

「一度身を委ねれば、よくて軟禁でしょう。私の力ではどうにもならなくなるのが目に見えています。ありえません」


 凜と由羅の視線が、正面から交錯する。

 しかし、その気持ちが混ざり合うことは、もうなかった。

 由羅がもう一歩、前に進む。


「由羅。私より後ろに進むのなら斬ります。私は貴女と戦いたくありません」

「凜。わたしはもう凜とは戦わない。斬るなら好きにすればいい」


 由羅がまた一歩、前に進む。

 もう手を伸ばせば、触れられる距離だった。お互いの剣の間合いは、とっくに踏み越えている。


「選ぶのは凜だよ。あの女を渡すか、わたしを殺すか」

「何故です。そんな幼子の頃の命令に縛られる必要なんてないでしょう」

「凜がそれを言うの。そう育てられたのなら、何故そうするかなんて考えない。凜が言ったことでしょ。幼い頃に定められた道からは、人は逃れられないんだよ」

「違います。私は自分の意思でこの道を選びました」


 本当にそうなのだろうか。凜の胸中には、自分の言葉への疑問があった。

 結局、何一つ選べなかった結果がいまなのではないだろうか。

 しかし、由羅は凜の言葉を肯定するように柔らかな笑みを浮かべた。


「そうだね。定めよりも大切なものがあるなら、人は定めを断ち切れる。わたしもずっと任務なんて忘れていたよ」

「私よりも自由な心を持つ貴女なら、どんな道だって選べるでしょう」


 言いながら、凛はもうこんな上面の言葉は由羅に届かないと分かっていた。


「…わたしの大切は、他の女に取られちゃった。それならもう、もとの道に戻るしかないよね」

「やめて下さい。お願いです。私と行きましょう。きっと、いつかは私だって陽鞠を忘れます」


 縋るような凛の言葉に、由羅は泣きそうな顔で微笑んだ。


「凜がわたしのことをそんなに想ってくれて嬉しい。ごめんね。嫌なことばっかり言って」

「由羅っ」


 もう一歩、由羅が踏み出そうとする。

 凜は由羅を取り押さえようと、手を伸ばした。

 その腕が巻くように絡み取られ、足を払われて凜は転ばされる。

 受け身をとって立ち上がった凜の目に、拝殿に向かう由羅の背中が映った。

 その先には、陽鞠がいる。


 迷いも葛藤も消えない。

 覚悟など何も出来ない。


 それでも凜の体は、持ち主の意思も感情も無視して恐ろしく滑らかに動いた。

 音もなく刀を抜き、無防備な由羅の背中にその切先を突き入れた。

 由羅なら躱せると凜は思っていた。

 しかし、由羅は一切の躱すそぶりを見せなかった。


 凜の突きは肩甲骨と背骨の隙間を抜いて、由羅の心臓を貫いた。

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