六十一
綿津見神社の小さな本殿を囲む透塀に繋がる楼門をくぐると、石畳の参道の先に拝殿は建てられていた。
拝殿の扉は開け放たれたままになっており、中の穢れが垣間見えていた。
外から見えるほど、穢れが中に満ちていた。
陽鞠たちが近づくと、中から強い死臭が漏れ出てくる。
「陽鞠様、中には入らないでください」
「承知しております」
言いながら、陽鞠は漂う黒い霧のような穢れに指を伸ばす。
凜は慌てて、穢れに触れる前にその手を掴んで止めた。
「待ってください。先に私が触ります」
凜の言葉に、陽鞠は首を傾げる。
少ししてから凜の意図を理解して、陽鞠は凜を睨みつけた。
「凜様。私に巫女の力が残っているか疑っているのですか」
「そういうわけではありませんが、どうせ私も穢れに触れるのですから、先に私が触れて確かめておいた方が安心でしょう」
「もし、私の力がなくなっていれば凜様が死ぬのですよ」
「だから、確かめておくのでしょう。逆では意味がありません」
陽鞠は何度か口をもごもごさせた後、凜の手を振り払って指先を穢れに触れさせた。
「あっ、陽鞠様っ」
陽鞠が触れると、漂う黒い霧のような穢れが一瞬で消え去る。
疑っていたわけではないが、その力が健在であることに凜は胸を撫でおろした。
「ほら、大丈夫でしょう」
「まったく。困った方です」
言葉の割にどこか嬉しそうに、凜は優しい笑みを浮かべた。
それは最近の思い詰めた顔とは違い、以前の凜の自然な笑みに近くて、陽鞠の頬がうっすらと朱に染まる。
顔を逸らした陽鞠を怪訝に思いながら、凜は穢れが消えた拝殿の中に目を向ける。
広い拝殿の板張りの床の上には、いたるところに死骸が転がっていた。
拝殿の奥の祈祷を捧げる祝詞座の前には、床几に腰かけた戦乱時代の鎧兜をまとった武者がいた。
鎧兜の首元は大量の血で赤黒く染まり、隙間からは穢れが溢れ出ている。
「甲冑とはまた時代錯誤な…」
凜は独り言のように漏らしながら、拝殿に踏み込む。
死後、鬼となった穢れが甲冑を着こむとは思えなかった。つまりは甲冑を着てから自決に及んだということなのだろう。
「凜様。兜の三つ浪巴紋は朝凪家の家紋です」
「なるほど。つまり、この鬼が朝凪鴇羽なのですね」
「そう思います。大丈夫ですか」
何が、とは凜は聞き返さなかった。
甲冑を着込んだ相手に、刀一本で大丈夫か、という意味だと理解した。それ以外の意味であろうと、答えは同じだ。
「問題ありません」
凜の視線の先で、武者姿の鬼が不自然な動きで腰を上げる。
ゆっくりと鬼に近づきながら、ぼそりと凜が呟く。
「よくよく考えてみれば」
凜が刀を抜くのに応じるように、鬼も腰の太刀を抜き払う。
「お前が諸悪の根源ではないか」
加奈が死んだのも。陽鞠が囚われる原因を作ったのも。この男の愚かな野心に端を発している。
凜の呟きは大きいものではなかったが、静けさの中、陽鞠の耳にだけは届いていた。
「しかし…」
鬼の姿が特有の不自然な動きで近づいてくる。
いつの間にか大上段に振りかざした太刀を、凜に向けて振り下ろす。
しかし、無造作に提げ持っていただけのはずの凜の剣が、鬼の太刀よりもはるかに速く袈裟に走り、太刀を持つ鬼の右手の指を親指を残して断ち切った。
その指が床に落ちるよりも早く、滑るように回り込んだ凜の刀が切り返され、立挙で守られた膝を裏から断ち切る。
下から跳ね上がった凜の剣が、崩れる鬼の顔面を面頬ごと両断しながら兜を弾き飛ばす。
もはや人相も判然としない、半ば腐り落ちた壮年の男の顔が露わになった。
「加奈を斬ったのは私だ」
凜の刀の切っ先が天を突き、ぴたりと止まる。
「陽鞠様を守れなかったのも、私だ」
落雷のような、というには静かな一閃だった。
それは怒りの剣ではなく、断罪の剣でもなく、鎮魂の剣であった。
倒れた鬼の体から、その衝撃で床に首が転がり落ちた。
「眠れ、お前も」
囁くような凜の言葉。
その背中を、かける言葉もなく陽鞠は見ていた。
凜の剣は陽鞠の知るものとは、まるで違うものに思えた。
かつて強さだけが全てだと言った凜の剣は、しかし強さなどとは違う次元にあった。それは確かに殺人の技でしかないのに、鎮魂の儀式であるかのような厳かさすら感じられた。
音もなく納刀しながら、ゆっくりと凜が振り向く。
その悲し気ですらある横顔の美しさに、陽鞠は思わず見惚れてしまう。
「終わりました。陽鞠様?」
すぐ近くまで戻ってきた凜に声をかけられて、陽鞠はようやく我に返る。
「は、はい。ありがとうございます」
上擦った声で答える陽鞠に、凜は首を傾げる。
軽く咳払いをして、陽鞠はぐるりと凜の周りを一周する。
「怪我は…ないですよね」
「はい。相変わらず心配性ですね」
「凜様だって女なんですから、もう少し傷を気にしてください」
「私の傷など、誰も気にしないと思いますが」
そもそも傷を恐れて斬り合いなど出来ないと凜は思う。
服を脱げば、すでに大小様々な銃創や刀傷が体に残されている。
「私が気にします。それに誰が、ではなくて凜様が気にしてください」
頬を膨らませて、陽鞠は凜の袖を掴む。
その愛らしさに、凜は無意識に陽鞠の頬に触れていた。
凜の親指が、陽鞠の頬を撫でる。
陽鞠はじっと凜を見つめていた。何も言葉を紡がない唇が、微かに開いている。
その目に期待のようなものを見た。と思った凜は、目を逸らしてそれを自分の勝手な思い込みだと切り捨てる。
「失礼しました」
「…いえ」
離れていく指を、陽鞠の目が寂しげに追っていた。
気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
あのまま触れていたら、何が起きたのだろうか。そんな考えが凜の脳裏を過ぎる。
何かとは何だ。何も起きるはずがない。凜はおかしな妄想を頭から追いやった。
「それでは、私は穢れを祓ってきます」
「はい。私は外を見張っています。たまにご無事か覗いてもかまいませんか」
「凜様だって心配性ではないですか」
くすりと笑みを零して、陽鞠は拝殿の中に入っていく。
陽鞠が鬼の骸の傍に座り、穢れの祓いを始めるのを見届けてから、凜は拝殿の扉を外から見えないように、半分だけ閉じる。
それから、腰帯から刀を鞘ごと抜いて、扉の前の上がり段に腰を下ろした。
ぼんやりと楼門の方を見ながら、凜は息を吐き出す。
これで陽鞠が穢れを祓い終えれば、務めも終わりだと思った。
もはや自分の存在が陽鞠の足枷になっているように凜には思えた。今の陽鞠は、凜がいなくても一人で前に進んでいけるだろう。
陽鞠の身を守ることは、蘇芳に任せていいと凜は思っていた。一振りの剣などより、大公という地位はよほど陽鞠を幸せにするだろう。
凜の中には、一振りの剣など何の役にも立たないという想いが、頑なにこびりついていた。
陽鞠との約束を破ることになるが、凜は陽鞠と話し合いをするつもりはなかった。
話してしまえば、きっと絆されて離れられなくなることが分かっていた。
凜は陽鞠の言葉や涙には逆らえない。
考えることにも疲れた凜が、ぼんやりしていると、いつの間にか一刻ほどの時間が流れていた。
そろそろ陽鞠の様子を一度確認しようと、凜が立ち上がった、その時だった。
楼門の下に、一人の女が姿を現した。
地味な鼠色の着物でも、その色素の薄い髪と緑の瞳は隠しようもない。
背丈は凜と陽鞠のちょうど間くらいだろうか。女としての体の豊かさは二人と比べるべくもない。
山祇国の民の体型で着ることを前提として発展した着物では、違和感が隠せなくなっていた。
女の目が真っ直ぐに凜に向けられる。
凜は刀の鞘を帯に差した。
「由羅」
凜がその名を呼ぶと、女は無邪気な笑みを浮かべた。




